10  ひなたは単身不妊中

 お米って、こんなに美味おいしいものだったんだ――マスターが作ってくれたおかゆを食べて雷雅らいがが思う。そりゃあ、白飯は嫌いじゃないけれど、惣菜おかずを引き立たせ、おなかを満たす役割を果たしているのだと思い込んでいた。惣菜がなければ食べられないと思い込んでいた。


「おにぎりと同じで、塩加減が大事でございます」

美味うまいと絶賛して食べる雷雅にマスターが気恥ずかし気に微笑んだ。


「なんだ、ライガ、塩握りは嫌いか?」

横からひなたが茶々を入れる。もちろんひなたもお粥を口に運んでいる。


「そう言えば、塩握りって食べたことない。いつも具が何かを気にしてるもん」

「そうか。まぁ、わたしもそうだ。ちなみにわたしは天むすが好きだ。あのエビがプリッと――」


「判りましたから、黙って食べましょうよっ!」

放っておくと何を言い出すか判らないひなたを黙らせて、熱いお粥をふうふう吹く。


 お粥が目の前に出されたときは、まだ何も欲しくないと思ったのに一口食べた途端、とんでもなく空腹だったと気が付いた雷雅だ。さすがに吐き気はなくなっていたけれど、なんだか胃が落ち着かない。だけどせっかくマスターが作ってくれた、少しでも食べなくちゃ、そう思って食べだしたのに、何も入っていないお粥がこんなに美味しいなんて!


佃煮つくだになどもあるのですが、今は消化の良い物だけで我慢なさってください。胃が驚いてしまいますからね」

そう言ってマスターは薄めのお茶も出してくれた。そう言えば、帰ってすぐに出されたお茶も薄かった気がする。それにあれはぬるかった。マスターの心遣いにはいつも恐れ入る。


「マスター、『陽だまり』を始めて何年くらい経つの?」

思い付きで雷雅が質問する。


「ひなたお嬢さまがご結婚なさってからですから、かれこれ3年でしょうか」

「へぇ、物凄く板についてる感じがしますよね」

「そうでございますか?」

マスターがうっすら笑う。


「マスターはね、狩人かりびとを引退してからはわたしの生家、木陰こかげ家の執事をしていたんだ」

ねっ、とひなたがマスターに微笑む。


「はい、狩人かりびとをやめ、どうしたものか路頭に迷うわたくしに木陰家のご当主が手を差し伸べてくださいました」

「わたしが生まれて人手が足りなくなっていたんだ。何しろ赤ん坊のわたしは泣いては誰かの影を消してしまったり、手がかかる子だったらしい」


「そうでございましたねぇ……でも、お嬢さまのお世話は楽しゅうございましたよ。何をなさるか判らないところがございましたから、一時いっときも目が離せない。ドキドキハラハラの連続です。充実した日々でした――それにすぐおなかいたと言い出されるので、お料理も一通りできるようになりました。それが今、役に立っております」


「マスターがひなたさんの子守をしたんだ?」

雷雅の質問に、マスターとひなたが顔を見かわし微笑みあう。


「わたしはマスターのことをじいやと呼んでいた。で、神影みかげ家に嫁ぐにあたり、父は爺やをわたしにつけて送り出した」

旦那だんな様はお嬢さまが神影家で肩身の狭い思いをなさることのないよう気遣ったのです」


「ま、初日に神影のババアと大喧嘩して、あの家から飛び出した。すぐにこのビルに移って、それから一度も神影には帰っていない」

「神影のババア?」


「うん、煌一こういちのお祖母ばあちゃん。八十近いと思うけど驚くほど元気――わたしを嫁とは認めないって言うから、わたしは嫁ではなく煌一の妻です、と言ってやった」

「ひなたさんらしいですね」


「そしたら、出て行けって言うから、出て行ってやったさ――婚姻届は受理されてる。ババアに勝ち目はない」

「お祖母ばあさん、ひなたさんと煌一さんを離婚させようとしてるんですか?」


「なんでも、わたしの家柄がご不満らしい。それに卵焼きが作れないのも気に入らないらしい。『卵焼き一つ作れないなんて!』って叫んだと思ったら、嫁と認めないって言ったからね。ま、煌一がわたしにゾッコンなんだから祖母ばあさんが何をしようと無駄ってものさ」


 卵焼きなら僕だって作れるのにと内心思う雷雅、それは口にせず

「煌一さん、ひなたさんにゾッコンなんですか?」

と言ってみる。


 むしろひなたさんが煌一さんにゾッコンで、煌一さんはなんとか逃げようとしていない? そう思った雷雅だが、言えばひなたの反撃が恐ろしい。


「初めて会ったのは煌一が神影家の跡取りと決められた披露目のパーティーだ。わたしは社会勉強で連れていかれた。そのパーティーで『退屈してるんじゃ?』と話しかけてきたのが煌一だった。『退屈しているのはあなたでしょう?』そう答えたわたしに『そうだね、失礼した』と煌一は笑った」


「その時、二人は何歳だったの?」

「煌一が十五、わたしが十歳」


 なんと言っていいか判らない雷雅、その年齢でそんな会話? それとも家柄の子どもはそんな感じなのか? うん、煌一はもちろん、ひなたも家柄の生まれだってのはよく判った。それにどっちもお金持ちだ。きっとそうだ。爺やのいる家のお嬢さん、マスターがひなたをお嬢さまと呼ぶのも納得だ。目を白黒させている雷雅をマスターがクスッと笑った。


「次に会ったのは、煌一のお祖父じいさまのご葬儀でだ。わたしが十五、煌一は二十で大学二年――で、その時、煌一がわたしに一目惚れしたってことだ」


 ひなたさんが一目惚れしたんじゃなくって? と一瞬思ったが、『陽だまり』に来た時の煌一を思い出して、それは違うかと思う雷雅だ。ぼさぼさの髪に無精ひげ、たびれたスーツ。一目惚れなら見た目からだろうし、自分でも見た目重視とひなたは言っていた。


 でもさっきビルの屋上で見た影は、どことなくかっこよかった。声だけで、姿は影としか言えないけれど、雰囲気がかっこよかった……


「そう言えば、さっき屋上でいろいろ指示を出していた影は煌一さんですよね?」

「うん、そうだよ」


「本体はいなかったみたいだけど?」

「ライガ、やっぱりおまえ、馬鹿だな―― 煌一は京都に行っているって説明したじゃないか」


「影って、本体からそんなに遠く離れられるんだ?」

「能力によるよ――わたしでも京都くらいなら行けるけど、九州となると難しい。沖縄は無理だ」


「煌一さんは沖縄まで行ける?」

もちろん、とひなたが笑う。


「煌一さんってさ、僕が助けられた日以来、顔を見ないんだけど、毎晩遅いとか?」

「毎晩遅い?」


「でなければ、泊りがけの仕事や出張が多い? ひょっとして単身赴任?」

フフン、とひなたが笑い、嫌な予感に雷雅が震える。雷雅の顔をニヤリと見ながらひなたが言った。


「ライガ、その単身フニンのフニンという字は不妊治療のフニンではあるまいな?」

「違いますっ! 常識でモノ言ってください」


「おや、非常識と言われてしまった――ま、煌一は出張が多いし、仕事が忙しくって自宅に戻れない日も多い。そもそもここに住んでない」

「やっぱり単身赴任ですか?」

「うん、お陰でわたしも単身

「そういう展開はしてください、ひなたさん」


「ま、煌一は神影家本家に今も住んでいる」

「あ……別居中? 離婚調停中ですか?」


「ライガ、口をつつしまないと張り倒すぞ―― 煌一も一度はこっちに来たんだけれど、ババアに連れ戻された。外聞が悪いから家を出るなら離婚しろ、離婚したくないなら家に戻って言うことを聞けと言われ、もちろんわたしは無視を決め込んだ」


「へぇ、それで?」

「煌一だけでも本家に戻るなら離婚は許してやる。でも、戻らなければ廃嫡はいちゃくするって脅されたんだ――廃嫡、一般的には跡取りと認めないって意味なんだけど、我らの場合、影の一族からの追放、下手をすれば人知れず消される場合もある」


 人知れず消される? ぞっとしながら雷雅が言う。

「それじゃあ、煌一さんは泣く泣く本家に?」


「うん、ま、そんなところだな。で、煌一は自分の目の届かないところでわたしが何をしでかすか、つまり、わたしが浮気するんじゃないかと冷や冷やしてる」

「って、ひなたさん、浮気っぽいんですか?」


「若い男を引っ張り込むのがわたしの趣味だ」

「はいぃいっ!?」


「冗談だ。ライガ、おまえ、自分が若い男のうちに入ると思っただろう?」

「いや、いや、いや……」

さらにひなたがニンマリ笑う。


「おまえが望むなら、数に入れてやらなくもないぞ?」

「冗談は、やめっ!」


「冗談? ライガ、本当に冗談でいいのか? おまえ、どこかで期待してるんじゃないのか? ほら、今、視線がわたしのむ――」

「わーーーーーっ!!!!」


叫ぶ出すライガ、マスターがカウンターのほうで『お嬢さま、おふざけが過ぎますよ』とそれでもクスクス笑い、ひなたは声を出してケラケラ笑う。


「しかしライガ、おまえには目覚めて貰わないとな」

「目覚めって……僕、初恋もまだなんです」

泣き出しそうな雷雅をさらにひなたが笑う。


「そうか、初恋もまだか? 晩熟おくてだなぁ――でも、安心しろ。何も初体験しろとは言ってない、陽の一族として覚醒して欲しいだけだ」

ひなたの言葉に雷雅の顔が真っ赤に染まる。ひなたの、わざと誤解させる物言いにまた引っかかってしまった――


「闇が出現したからには陽の能力ちからが必ず必要となる。ライガ、期待しているよ」

「でも、いったい何をしたら?」


「うん、そのうち煌一から指示が出る。それを待つしかないな。何しろ陽の一族が見つかったのは久しいことだ。わたしの知識では心もとない」


 ひなたが滅多にしない真面目な顔をした。

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