2  好物はバナナ

 悪夢だ。僕は悪い夢を見ているんだ。早く目を覚まさなきゃ――そう思うが現実は少年を離してくれはしない。夢だと思いたいだけだと、少年にだって判っている。


「どうした? 早くここに座れ。立ち話が趣味か?」

女が少年に催促する。それでも動かず迷っていると、ふいに誰かが少年を押した。


「えっ?」

「いちいち驚くな……おい、せっかくのソーダ水がこぼれたぞ」


 何かが少年の手からソーダ水を取り上げ、宙に浮いたグラスが女の前に置かれる。そして女の指がソーダ水のグラスに差し入れられサクランボをさらうと、そのままパクッと口に放り込んだ。


「あーーーっ! 僕のサクランボ!!!」

 チッと女が舌打ちする。

「ほんとにいちいちうるさいなぁ―― マスター、ソーダ水、お替り。少年に。それと、テーブル拭いて……おまえはさっさと座れ」

再び何かが少年を押した。いったい何が僕を押しているんだろう? そう思うが少年には、それを確かめるすべも度胸もない。


 逃げようかと思っていたが、どうも逃げられそうもない。しぶしぶ少年は女の対面に座った。女がニンマリとした笑みを少年に向ける。


「で、少年、どうやって払うつもりだ?」

女がニヤニヤ笑いながら、少年を眺める。こんなセリフを吐いていなければ、女優さんだって言われても信じそうなくらいの美人だ、心のどこかでそんなことを思いつつ、少年が答える。


「払えないし、払う気もない。ってか、どう考えたって無理だ。ない袖は振れない。それにそうだ、見ようによってはあんたがしたことは誘拐だ。未成年略取誘拐だ」

「ほほう――」

女の目が笑ったような気がした。


「刑法224条。未成年者を略取し、又は誘拐した者は、3月以上7年以下の懲役に処する――で、少年、略取とは何だ? 誘拐とは何だ?」

「え、え、え。それは……」


フン、と女が笑う。

「少年、知ったかぶりは恥かくぞ ―― さらに未成年略取誘拐は親告罪だ。被害者に告訴されなきゃ罪に問われない。少年、公園でおまえを襲おうとしたをどう説明する? ビルを飛び越えて逃げたって警察で言えるのか? 相手にされないのがオチだぞ」


 女がニヤニヤしているところにマスターが来て、少年の前にソーダ水を置いた。ニコッと少年に笑顔を向ける

「サクランボ、2個入れておきました。サービスですよ」

「あ……どうも――」


こんな状況なのに、なんだか嬉しい。別にサクランボは好きじゃない。美味しいと思ったことなんかない。でも、見た目が好きだ。


 マスターから受け取ったおしぼりで手を拭きながら、女がニヤッと少年を見る。

「なるほど、少年は見た目重視か」


「はっ? あんた、僕の心を読んだ?」

「わたしが、と言うより、わたしの影がおまえの影から聞いた」

「影?」

また影かよっ? 手を拭いたおしぼりで、今度はテーブルを拭いている。割とこのおネェさん、マメか? と、少年が思う。


「見てみろ、わたしの影が、少年、キミの影に寄り添っている」

 慌てて自分の影を探す。そうだ、さっきはなかった僕の影、どうした? うん、今度は足元から、延びて椅子に座る影が見える。それに……


「え、え、ええええーーーー!!!!」

少年が何度目かの悲鳴をあげる。少年の影の、肩をが、指をⅤの字にして見せた。


「なんで? な、なな、なんで? あんたの影?」

「ん? わたしの影は自由自在に動き回る。さっき、一緒に飛んでここまで来たのを忘れたのか? あの時、おまえに見えたのはわたしの影だけだったはずだ」

ソーダ水のストローを弄びながら女が笑う。


「少年、おまえ、頭、大丈夫か? ついさっきのことを忘れた?」

「だ、大丈夫なのか疑わしいのはそっちだろ! なんで、影が単独で動いてるんだよっ?」


「おまえ、自分の目で見たこと、自分が体験したことを疑うんだ?」

「あ、あ、あ……」


「世の中、理屈じゃ割り切れないことだって数え切れないほどあるんだ。ま、お子ちゃまにはまだ判らないか」

「お子さま、言うな!」


「おや、さっき、自分は未成年だ、って、子どもを言い訳にしたばかりなのに?」

さげすんだ笑い、少年の顔が羞恥で真っ赤に染まる。


「でも、だいたい、どう考えたって、やっぱり無理です。うち、母親だけだし――」

「なるほど、暴力をふるう配偶者……キミの父親ではない配偶者とやっと離婚した母親との二人暮らし――」


「だからっ! 勝手に心の中を見ないでくださいっ!」

「戸籍上に父親はナシ、っと」


「だからぁ! って、なんでメモ取ってるんですかっ!」

「いちいち大声でがなり立てるな」


「プライバシーの侵害だ」

「ふん、おまえの影が、わたしの影に訴えてくるから聞いてやってるだけだ。いやなら自分の影に、情報を漏らすなって命じればいい」


「そんなことができるならやってますって」

「嘘をつけ、自分の口で言えないから、影に言わせたくせに」


「な、なんなんですかっ? そんなこと、僕にできるはずない」

「まぁ、判んないでもないよ。こんな事情があるからお金がないなんて、言い出しにくいよね。同情を買うような真似、しづらいよね」


「同情してくれてるようには見えません。それ以前に3億は無理ですっ!」

「それはつまり、無理じゃなきゃ払うと受け止めても?」

「えっ?」

「では、こうしよう、少年」

女はニヤリと笑い、少年は縮こまる。


「見た目重視らしいが、少年、実はわたしもそうなんだよ。幸いキミは、改めて見てみると、わたし好みの可愛い顔をしている」

「はぁ?」


「わたしの好みは、背が高くてかたい男、もちろん整った顔立ちは欠かせない」

「そ、それが何だって言うんだ?」


「少年、おまえ、身体で払え」

「はいぃ?」


「背の高さは、ま、今の時点では合格、今以上に低くなるなよ。で、2年待ってやる。2年のうちにかたい男になれ。今のキミは貧弱過ぎる」

「いや、ちょっと、そんな……一方的に」


「では、それ以外の支払い方法を、キミは思いつくのかね?」

「だって、だって――会ったその日にいきなり2年後に結婚ですか?」


「結婚?」

「体で払えって、そういう事なんじゃ? 一生かけてって意味なんじゃ?」

 背後のカウンターでマスターが笑い転げる。


「やっぱりおまえ、馬鹿だな。日本じゃ重婚罪は懲役刑。そんな危ない橋をわたしが渡るか。そもそもおまえ、自分にそこまで価値があると? なんだ、その、わたし相手に生涯 頑張れるとでも?」


女もマスター同様笑い転げたい、が、それを我慢しているようだ。頬の端がピクピクしている。

「だって、それじゃ、不倫? って、結婚してるんですか!?」


「2年間、見習いで働いて、高校卒業したら正式にわたしの手足となって働いて貰おう、ってだけだ――それとも、わたしの奴隷のほうが良かったか? キミの影はどうやらその気のようだ」


チラリと女が少年の影を見る。つられて少年も自分の影を目で追う。やっぱり、女の影がべったりと寄り添って、少年の影の頭の部分が女の影の胸元に――

「うわぁ!」


慌てて立ち上がる。すると頭は胸元を離れるが、今度は女の影の頭の位置が少年の影の……


「ぐわっ!」

慌てて座ると、そりゃあ、元に戻る。立つべきか座るべきか、そこが問題だ。


 あたふたする少年、女はニヤニヤしながら指先をパチンと鳴らす。すると、女の影がふぃっと消える。


「どうやらわたしの影も、キミの影をエロく、もとい、エラく気に入ったようだ。2年後が楽しみだな。18歳なら淫行条例に抵触しない。もっとも、影同士なら今すぐでも何の問題もない」

「ちょっと待って――」


「キミの母親は苦労がたたって、身体を壊し入院中――」

 いきなり話を変えて、女が真面目な顔で言う。

「えっ?」


「入院療養が必要と言われ、しかも長期に渡る。物思いに沈みながらあの公園を通った。入院費をどうしよう、バイトで稼げるかな、生活費はどうしよう、やっぱ、学校やめなくちゃダメかな……」


 少年の顔が蒼褪める。なぜ知っている? 聞いたところで、どうせ影に聞いたと言われる、だから黙っていた。でも、それがなんだって言うんだ?


「2年間の見習い修行、その後の本採用、そう契約するなら生活の面倒を見てやろう。もちろん高校にも行かせてやる。進学したいなら、その後の学費も面倒見るぞ。もちろん、お母さんの心配もない」


「僕に……何をさせるつもり?」

「わたしの影の商売の手伝いを」

「影の商売?」


 ここで女が立ち上がり、カウンターのほうに向かって声を上げた。

「マスター、いつものパフェ頂戴」

マスターの声が『承知いたしました』と聞こえる。


「キミも食うか? 腹、減ってそうだな――マスター、2つね」

飲み干したソーダ水のグラスを通路側に置き、冷めきったコーヒーにいまさら女が手を伸ばす。


「ところで、わたしの好物はバナナだ。今、頼んだのはバナナパフェだ、チョコソースが当然かかっている」

 チョコバナナか、と、少年が心の中で思う。


「そしてわたしは固いバナナが好みだ。もちろん青いバナナは食えん。完熟直前の、甘いが硬さが残る、そんなバナナが好きだ」


女は少年を見てニヤリと笑う。少年はいやな予感にビクリと震える。

「人間でいうと……18歳くらい、かな?」


――人間に例えるなっ!

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