印
西川東
ある『はんこ屋』の話
Dさんが大学生の頃の話。
当時、大学入学に合わせて地方から引っ越してきたDさんは、新生活で右も左もわからないうえに、お金に困っていた。
そこでサークルの先輩かつ、現地の人間であるM先輩にいいバイト先はないか尋ねてみた。
「なんか変なところだけど・・・」と前置きを話したうえで紹介されたのが、M先輩の前のバイト先の『はんこ屋』であった。
二つ返事で答え、教えてもらった連絡先に電話をすると、さっそく翌日に面接ということになった。
面接当日、はんこ屋にしては無駄に大きな店に入ると、店長だという汚ならしくてぶっきらぼうな老人が出迎えた。
そして、そのまま店頭のカウンター席で面接が始まった。
といっても、この老人が履歴書と終始にらめっこするだけで数分後には「採用」を言い渡された。
あまりにも都合のいい流れに当初は困惑していたDさんだったが、次第にそんなことも気にとめなくなっていった。なぜなら、まず実入りがとても良い。
接客は少なくとも一日一回程度で良いというのに、やたらと高い給料をもらえた。しかも週給でだ。
業務内容は
①店に備えつきの電話には必ずでる。
②電話でアポを取ったお客さまは店長の閉じ籠った個室にお通しする。
③その他のお客さまの対応とお会計。
これらを除けば、お客さまが来ない間はなにをやってもお咎めなしという信じがたい環境であった。
軽い財布に嘆いていたDさんも、いつのまにか同級生に余裕でおごれる程になっていた。
しかし、そんなあぶく銭に喜んでいたDさんでも、心に引っ掛かる点がいくつかあった。
面接時にまったく言葉を交わすことがなかった時点で変わった職場だったが、一番は『はんこ屋』に漂う雰囲気といったらいいのだろうか。
以下、Dさんの記憶に残っている限りでの違和感をあげる。
・はんこ屋にしては店が異様に広く、室内全体が臭い。
・店には店長一人、バイトは自分だけ。
・はんこ屋だというのに、お客さまが最低でも一日一回は必ず来る。
・九割のお客さまは服装や装飾品からして金持ちばかり。
・金持ちのお客さまは必ず切羽詰まった状態で電話をかけてくる。そこで店長の所在を確認するとすぐにやってくる。
・一方、帰り際はとても落ち着いており、誰もが安堵の笑顔でいる。
・店長の部屋から帰っていくお客さまがどことなく臭い。
店長が彼ら相手になにをしていたのかは全くわからなかった。尋ねてみても「はんこ屋なんだから、はんこを売ってるに決まってるだろ」としか教えてくれない。
そして帰っていくお客さまの臭い。なにかはわからなかったが、先述した麝香のものではない別のものであったという。
そしてなによりも
・店長の部屋が気持ち悪い。
カウンターの裏側、店長がいつも閉じ籠っている部屋、そのドアに一枚の白い和紙が貼られている。これが一番気持ち悪い。
それは新聞の一面を半分にしたほどの大きさで、ドアの前に立てばこの和紙と向かい合わせの形になる。
部屋のなかから外をみるための窓ガラスが嵌め込まれそうなその位置、そこにちょうど人の頭の大きさほどの真っ赤な印影が押してあった。
なかなかの大きさの印影なので、たくさんの文字らしきものが彫ってあるが、複雑な形状でなんと読むのかは全くわからない。
奇妙なインテリアということで放っとけばよいのだが、問題は時折その印影から突き刺すような視線を感じることだ。
お客さまのいらっしゃらない間、なにをしてもいいといわれているのに、時々その印影から監視されている気がして思わず振り返る。
その感覚は自分だけに留まらず、接客中に視線を感じ、お客さま共々、店長の部屋の方に顔を向けて気まずい空気が流れることもあったそうだ。
Dさんはこの和紙のことを店長に一度だけ尋ねたことがあった。
店長は「ありがたいものだから気にするな」と突っぱねるように答えた。
それ以上のことはいまもわからない。
たしかにM先輩のいっていたとおり、変な職場ではあるが我慢代も込みだからこのお賃金なのだろ。Dさんはそんな風に自分に言い聞かせて働き続けた。
いま思えば金に目が眩んでいたのだろう、と彼は吐露していた。
はんこ屋で働き始めて半年近くたった頃だろうか。
いつも通りカウンター席でお客さまを待ちつつ、大学の課題に手をつけていたときのこと。
手持ちのボールペンのインクが切れてしまい、店のものでも借りようと机の引き出しに手をかけた。
引き出しをすっ・・・と引っ張ると、その裏側からなにかがポロっと地面に落ちた。
親指ほどの大きさで、白くて四角く、どこかテカテカした紙のようなもの。
気になってそれをめくるように拾った。
それは誰かの証明写真だった。
誰の写真なのか一瞬わからなかった。
顔の部分に白くて四角い和紙が被せるように貼ってあり、そこにはなんと読むのかわからない真っ赤な印影がくっきりと押されていた。
そして、その和紙からはみ出た髪型、肌の色、顔から下の服装。それはどうみてもDさんが自分の履歴書に貼った証明写真だった。
その瞬間、後ろからあのするどい視線を感じた。心なしかいつもより近いところからみられている気がする。
Dさんは写真を拾った姿のまま、蛇に睨まれた蛙のように固まってしまった。
そのとき思い出した。
いつも店長の部屋に駆け込む金持ちの顧客たち。
彼らが安堵の笑みで帰るときにする麝香では隠しきれないあの臭い。
いま、部屋がむせかえるほど“獣臭い”のだ。
本能的に限界を感じたのだろう。
Dさんは着の身着のまま、叫び声をあげながら店を飛び出し、そのまま生涯で始めて“ばっくれ”たそうだ。
それから件のはんこ屋はもちろん、その近辺には近寄ることはなかった。が、
ばっくれてから数日後。
大学から帰ると郵便受けになにも書かれていない厚めの茶封筒が入っていた。
開けてすぐにあの"はんこ"屋が払い損ねた残りの給料だとわかった。
中身はおそらくきっちり計算された金額と、あの和紙が剥がされた自分の証明写真が一枚入っていた。
証明写真はその場で燃やし、その金は引っ越し代にした。
写真を燃やしているとき、「あぁ、俺はギリギリセーフだったんだな・・・」と脳裏に思い浮かんだのがいまでも忘れられないという。
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