第8話 スタートライン

「今夜は涼子さんの家に泊まります、か」


 妹から送られてきたメッセージを見て、僕は一安心した。 

 涼子さんというのは、昔からお世話になっている近所のお姉さんだ。

 僕が通う高校の先生でもある。


 涼子さんは、両親が長期間に及んで自宅を留守にしている旭岡兄妹の面倒をよく見てくれて、僕が部活の合宿や遠征などで家を留守にするときは、美織を自宅に引き取ってくれる。


 とはいえ、女子の家に泊まるから留守にするというのは、教師という立場的に許してくれないだろうな……。

 妹には、友達の家に泊まると伝えたから、バレないとは思うけど。


 それはそうと、妹からの連絡に、莉愛が自宅を訪ねてきた等の報告がない。

 読みが外れたんだろうか。

 それとも莉愛は、僕が家に直帰しないと判断して、外を探し回っているんだろうか。

 

 いや、もしかしたら、あの男とどこかで……


「できたわよ」


 双葉の声で、僕ははっと我に帰った。


 双葉が用意してくれた料理は和食だった。

 ご飯、お味噌汁、鰤の照り焼き、卵焼き、きんぴらごぼう。

 なかなか家庭的な料理だ。


「美味しそう……」

「美味しいに決まってるわよ。この私が、大好きなあなたの為に、愛情を込めて作ったんだから」


 不意に双葉の口から放たれた言葉に、僕はドキッとした。 

 自分がこんなにチョロいとは思わなかった。


 僕が今、双葉に向けている感情は、もはや憧れだけなのかわからない。

 

 今回みたいな特殊な出会い方をしていなければ、状況は全く違っただろう。

 傷心しているところを双葉に出会い、想いを告げられなければ、話は全然違ったはずだ。

 双葉に対する感情は、はっきりとわからない。

 憧れのような気もするし、新しい恋を始める相手としては、これ以上にない存在のようにも思える。


 僕は聖人じゃない。

 頭の中で綺麗事を並べて、常識人ぶったところで、これだけの美人に関係を迫られて、はっきりと断るような意志の強さはない。

 邪な感情が全く芽生えないわけではない、と言った方が正しいのか。


 双葉は僕のことを他者を思いやる人だと言った。

 僕がその通りの人間なら、惚れていない女を大事にして、抱かないだろう。

 でも僕は、思春期真っ盛りの、ただの男子高校生なのだ。

 浮気していた彼女と別れた今、双葉に求められたら、倫理より快楽を求めるかもしれない。


 所詮僕なんて、いっときの感情で行動する人間だ。

 双葉を抱きたいという欲望に飲まれれば、その通りに行動するだろう。


 その時が来るまで、僕の心がどちらに揺れ動くかわからない。


 世の中には、一夜限りの関係になる男女なんて、いくらでもいる。

 合コンで、その日気にいった相手をお持ち帰りするような、そんな関係だ。

 

 僕は恋愛に奥手で段階を踏みたいというだけで、清い関係の交際を望んでいるかと聞かれれば、別にそういうわけじゃない。

 単純に、心の準備が追いつかないから、ゆっくりと関係を深めたいだけだ。


 言うなれば、いきなり全力疾走して、ゴールして息が上がりたくない。

 ゆっくり歩いて、息を切らさずに、無理なくゴールしたいというだけだ。


 そして、双葉は全力疾走でゴールしたいタイプなんだろう。


 人付き合いにおいて、相手と同じ目線に立ったり、空気を読んで話を合わせるのは大事だと思う。

 恋愛においても、きっとそうだ。

 それなら、双葉の全力疾走に付き合ってみるのもいいのかもしれない。


 今夜限りの関係になるか、今後も続く関係になるのかは、僕と双葉次第だ。

 

「じゃあ……いただきます」

「どうぞ、召し上がれ」


 今日はお昼を抜いていて、すっかりお腹が減っていた。

 カラオケでも、頼んだドリンクを少し飲んだだけで、何も食べていなかった。


「美味しい?」

「うん、すごく美味しい」


 双葉の料理は、腕がいいと豪語するだけあって、お世辞抜きで美味しかった。

 

「椎名さんが作った料理より?」


 双葉の口から、はじめて莉愛の名前が出た。

 タイミングとしては、一番最悪なタイミングだ。

 僕は空中で止まった手に持っていた箸を、ゆっくりと置いた。


「まあ、答えられるはずないわよね。いくら浮気した相手だからといって、料理に罪はないもの」

「……」

「ところで新世は、この世の中が平等だと思う?」

「え、急に?」


 この流れで、いきなり哲学的な問答がはじめるのか? 

 僕としては、気まずい話題から逸れて、ありがたいんだけど。


「平等……とは、言えないんじゃないかな。何を持って平等とするかによると思うけど、生まれた時点である程度の能力や容姿は決まると思うし」


 もちろん、能力に関しては、僕が学年最下位から学年二位に学力を上げたみたいに、向上させれる見込みはあるだろう。

 でも逆に、僕はサッカーにおいて、将来サッカー選手になれるほどのポテンシャルがあるわけでもない。将来プロになれる人間は、やはり才能だと僕は思っている。


 フィジカルが重要なスポーツなんて特にそうだ。

 遺伝的に、伸ばせる限界値は存在する。


 顔だって、美男美女揃いの小鳥遊兄妹と比べて、僕の顔は……。


「私も概ね同じ意見ね。人間は、生まれながらにして、立っているスタートラインが違うのよ」

「文武両道で容姿端麗な双葉さんが言うと、嫌味に聞こえるんだけど……」

「私だって、スタートが遅れることはあるわ。例えば、そう……恋愛とかね」

「恋愛……」

「私が新世に好意を抱き始めたときに、あなたが椎名莉愛さんと付き合っていることを知ったわ。スタートが遅れたというより、手遅れだったと言ってもいいわね」


 双葉ほどの美少女でも、意中の相手を落とせないケースがあるとするなら、やはり意中の相手に恋人がいる時だろう。

 

「正直、私ほどの人間であれば、恋人がいる相手でも、落とすことなんて造作もないわ。手段を選ばずにあらゆる手を尽くせば、私のものにできる自信がある」

「それは……たいそうな自信だね……」


 でも実際に、双葉ほどの美少女に関係を迫られて、首を横に振る男子高校生がどれぐらいいるかわからない。

 ウチの高校には、双葉に告白して振られた人間が山ほどいるからだ。

 

 彼女持ちの人間だって、どう心が動くかわからない。


「でも、新世を私のものにするのは不可能だと思ったわ。あなたの性格で、椎名さんを裏切るような真似をするはずがないもの。むしろ、裏切るようなあなたなら、私が好きなあなたではないということになるのだから」

「まあね……」

「だから、あなたがもし彼女と別れたら、真っ先に告白しに行くつもりだったわ。もう二度と、出遅れるのは嫌だったから」

「え、そうだったの?」

「そうよ。実際に、話の流れでそうしたじゃない? あなたが好きって、伝えたでしょ」


 そういえば、他の4人の恋模様を話すだけならまだしも、双葉は自分の意中の相手が僕だということまで伝えてきた。


 普通、相手に対する好意を素直に伝えるのは勇気がいるから、そういう点でも恋愛は難しいのに、双葉はなんて事のないように僕に想いを伝えてきた。

 

「前から決めていたことは、もう一つあってね。それは、あなたがフリーになったら、その日中に私のものにすることよ」

「そこまで……」

「そう、そこまで考えていた相手が、恋人と別れた直後に私の目の前に現れた。そんなの、運命だとしか思えないじゃない?」


 確かに、僕が逆の立場なら、運命的なものを感じるな。


「……新世は、私に運命的なものを感じてくれたのかしら?」

「僕は……前から、双葉さんのことが気になってはいたんだ。何といっても、有名人だからね」


 学年一位の秀才でスポーツ万能。誰も疑う余地のない、学園一の美少女。


「嬉しいわ。だけど、その感情って……」

「うん、好奇心だよ。恋愛感情なんて無い。僕の愛情は、全部莉愛に向けられていたから」

「……今は、どうなのかしら?」


 今、か。


 人間は過去に生きていないし、未来にも生きていない。

 自分の感情だって、今が一番大切で、過去にどう思っていようが、未来でどう思うことになろうが、今抱いている感情で生きている。


「今は……わからないな。双葉さんに関係を迫られて、行き場のない愛情が、向きかけていないわけじゃないけど……」

「……じゃあもう、私にしなさい」

「……え?」

「いや、その……違うわね。私にしてください」


 双葉は、顔を赤くして、懇願するような表情を見せた。

 あの日──僕と莉愛が交際を始めた日に、莉愛が僕に見せた表情と被って見えた。


 照れているような、恥じらいがあるような、そんな顔だ。


「その愛情を……私だけに注いでください」


 僕は、どう返事をすればいいだろう。

 双葉のことをよくも知らないのに、返事をしてもいいのだろうか。

 

 かといって、莉愛との関係だって、相手のことをよく知っていて付き合っていたかと聞かれれば、莉愛の本質を僕は何もわかっていなかった。


 相手のことをよく知ってから付き合うとか、段階を踏んでから付き合うとか、僕は失敗した身だ。また同じやり方をしたところで、うまくいく保障はない。


「双葉さんは……それでいいの? 僕が君と付き合うって返事をすると、君のことを大切に想っていないってことにならない?」

「どうして?」

「だって……好きかどうかわからない相手と付き合うなんて、相手のことを大切に想ってないってことでしょ? 双葉さんは、そんな僕を好きになったわけじゃないんじゃ……」


 双葉は静かにかぶりを振ると、僕の隣に座り直した。


「これはね、私のわがままなのよ。新世が他の誰かに取られたりでもして、先を越されたくないから、今すぐ私のものになってほしいっていう、お願いなのよ」

「お願い……」

「そんな、わがままな私のお願いを……新世は聞いてくれるかしら?」


 双葉は、うっとりしたような表情を僕に向ける。


「もし、私と付き合ってくれるのなら……返事の代わりに、今度は新世からキスしてくれる?」

「……」


 今日は本当にいろいろとあった。 

 人生について、自分について、誰かについて、いろいろと考えた。


 今までの価値観だって変わった気がする。人生観だって変わった気がした。

 だから、今までの僕なら、きっとこんな大胆な行動には出なかっただろう──


 僕は双葉の唇に、そっと唇を重ねた。 

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