第92話 シナモンロール

 ◆


 ミアの十五歳までの名前は『ミア・グリーン』と言った。


 王都まで鉄道で半日以上はかかる田舎町の、贅沢三昧ではないけれど特に貧乏ではない木工職人の娘。それがミアだった。


 ミアが八歳の冬、父親が流行病にかかった。病気自体を治せなくても、体力が回復するように初級ポーションを飲んだ。


 けれど、数週間経っても回復しない。


 それどころか病状は次第に悪化して、もともと体が弱かった父親は帰らぬ人となった。


 悲しみに暮れる間もなく、母親はメイドの仕事を見つけてきた。幼いミアと弟を養っていくためである。


 勤め先はその田舎町で最も裕福なバラクロフ家という商人の家。美人と評判だったミアの母親は、その家の主人に特別に気に入られたようだった。


 程なくして屋敷内に家族で暮らせる部屋を与えられ、ミアたち一家の新しい生活が始まった。


 キッチンと一体化したリビングにベッドルームという標準的な家で育ったミアは、その新しい家に驚愕した。


「ママ、何ここ! お嬢様がすむおうちみたい!」

「そうよ。ここにはお嬢様が住んでいるの。……ミアだってお嬢様になるのよ」


 前に住んでいた家がすっぽり入りそうに広いエントランスに、無数に並んで見える居室。いつもおいしそうな匂いが漂っている台所。使用人によって磨き上げられた階段には自分の顔が映ってびっくりした。


 自分は木工職人の家の子で、家の手伝いで朝市に商品を売りに行き、たまに友人と遊ぶ普通の平民だったはずなのに……夢みたい。


 けれど、無垢な瞳で首を傾げたミアは、すぐに現実を理解することになる。


 貴族ではないものの裕福な商人の家では、妾としてミアの母親のような存在がいることは珍しくないらしい。当然、その家の女主人はミアたちにつらく当たるようになった。


「ねえ、アンタ。廊下をうろついていいって誰が言った?」

「ごっ、ごごご、ごめん、なさ……」


 空腹に耐えかね、水を貰いに行こうと廊下に出たところで女主人・ミランダに捕まった。蹴られたお腹を押さえ、後ろに小さな弟を庇ったミアは震える。


 客間に閉じ込められるようにして暮らすミアたちには、十分な衣食が与えられていない。


 もちろん、主人がいれば別だ。しかし、ミアの母親とこの家の主人が外出してしまえばもう誰にも守ってもらえなくなる。


 今日だって、二人は休日のデートに出かけてしまった。残されたミアと弟は部屋で大人しくしているしかない。


「アンタたちの顔を見るだけで吐き気がするのよ。早くこの家から出て行ってちょうだい!」

「…………」


 でもママが、と言いたいのを必死で呑み込んだ。口答えをすると事態が悪化するのは身に染みて知っている。


 何も答えないミアに、ミランダはさらに目を吊り上げた。


「おどおどしていて、あの図々しい母親には似ても似つかない子ね! 消えて! 早く部屋に戻って!」


 金切り声と、弟が泣き出す声。嵐が過ぎ去るのを待って、ミランダの背中を見送ったミアはよろよろと立ち上がった。


(お腹が……いたい……)


 蹴られたお腹が痛かった。顔や腕など、見えない部分を狙って痛めつけてくるのが恨めしい。


 母親に言いつけたこともある。けれど、「せっかくこんないいおうちに住めているのに変なことを言わないで」と怒られただけだった。


 味方は誰もいない。そして、弟を守らなければいけなかった。


「大丈夫?」


 投げかけられた声に顔を上げると、この家のお嬢様がいた。濃い茶色の髪と涼しげな目元はさっきまでミアを痛めつけていたミランダにそっくりである。


「ママがごめんね」


 差し出された真っ白で傷ひとつない手を、ミアは凝視した。ふわふわの髪は顔周りを編み込んであり、女の子らしくてとてもかわいい。


 身につけたドレスも、質素なミアのワンピースとは違う。商人の娘らしく、フリルがふんだんに使われた、最先端のデザインだった。


 薄汚れた自分とは真逆の存在に目を瞬く。


「…………」

「私、ユージェニーっていうの。ママ同士は仲が悪いけど、私たちは仲良くしない?」

「…………」


「あ、お腹空いてない? さっきね、シナモンロールを焼いたの。待ってて。ママに内緒で持ってきてあげる!」

「……あ、ありがとう……」


 警戒したものの、空腹には勝てなかった。初めて食べたシナモンロールは不思議な香りがしたけれど、おいしかった。


 次の日、部屋を訪れたユージェニーはミアの腕や首を見て少し驚いた顔をしていた。なぜかはわからなかったけれど、ミアはおどおどしながらなんとかお礼が言えた。


 その日から、ユージェニーとミアは秘密の友達になった。


 ユージェニーはミアより二歳年上の十歳。お菓子作りが趣味で、毎日自分で焼いたというシナモンロールを運んでくれた。


 ユージェニーの話からは、彼女がたくさんの種類のお菓子を作れるらしいということが伝わってくる。


 けれど、なぜ毎回シナモンロールなのかは気にならなかった。


 母親がいなければ満足に食事がとれない中で、ミアたちきょうだいにとっては何よりのご馳走だったから。




――――――――――――

【お知らせ】

本作のコミカライズが11/15にFLOS COMIC様ではじまります!

漫画をご担当くださるのは山悠希先生(@ya_ma004)です。

とっても素敵なコミカライズになっているので、お楽しみに♡

当日、更新や近況ノートでまたお知らせにまいります……!

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