屋上から見える首を吊った死体
安路 海途
(出題編)
「あれって、やっぱり死体だよね?」
高校の屋上、空はよく晴れている。
秋晴れってやつ。手をのばすと、指先がちょっと透明になりそうな感じ。でも来るべき冬の予行演習か、今日はちと寒い。そのせいでもなく、放課後の屋上は今日も人がいない。
「たぶんね」
ナバエは飲んでいたジュースのストローから口を離して、言った。
私とナバエはここのところ、放課後になるといつも学校の屋上で時間を過ごす。特に意味はない。帰宅部の特権というやつ。パンで小腹を満たしたり、お菓子をつまんだり。適当にしゃべって一時間くらいすると、そのまま家に帰る。
「でも、人形って可能性もあるよね?」
私は柵をつかんで体を前後に揺らしながら言う。時々、動物園の猿が檻の中でやっているみたいに。
「さあね、しかし三日前からずっとあの状態だ。人形だと考えるほうが辻褄にあわんとも言える」
ナバエは再びストローに口をつける。彼女は女だけど、男みたいなしゃべり方をする。理知的、というやつ。眼鏡をかけているせいかもしれない。
「……そっか、そうだよね」
私はつぶやいて、けっこう遠くにある、その問題のものに目を凝らす。
それに気づいたのは、ナバエの言うように三日前のことだった。その前日には何もなかったはず。屋上には毎日来ていたから、見落としていないかぎりは、たぶん間違いない。
距離は、どれくらいだろう? 一キロも離れてるだろうか。釣り人のいる市内の川を挟んで、その向こう。とにかく、マンションらしい建物の屋上だ。そこに、どう見ても人間にしか見えない何かが、宙吊りになっていた。足は地面から離れているようだし、手足はだらんと垂れさがっている。人間だとしたら、とっくに死んでいるだろう。人形だとしたら、はじめから生きてはいない。
何しろ遠くなので、詳しいことはわからない。双眼鏡でも見たけど、本当に人間か確証はない。でもナバエの言うとおり、人形が吊るされているよりは説得力がある。
高台のこの辺には、住宅地が広がるだけで高い建物はあまり多くない。それに角度的にいって、その死体(と推測されるもの)が見えるのは、うちの高校の屋上くらいだろう。ここからだと右手前のほうに別の高校があるのだけど、たぶんそこからは見えない。ほかの建物は遠すぎるし、やはり角度的に問題がある。
私は別の高校の屋上に向かって、手を振ってみる。そこにも私たちみたいに時間をつぶしている生徒がいた。向こうでも私たちに気づいているらしく、手を振り返してくる。でも、マンションの死体に気づいてる様子はない。
「あれが見えるのってさ、うちらだけだよね」
と、私はナバエに向かって言う。
「そう考えるのが自然だろうな」
ナバエは答える。そうでなけりゃ、今頃は通報されて何か動きがあるだろう。
「……誰かに言ったほうがいいかな、やっぱり?」
ナバエはけれど、無言だった。無視されるようなセリフではないはずなのに。
「もしもーし?」
私は不満そうに言う。
「その前にさ」
と、ナバエは言った。
「ちょっと行ってみないかな、あの場所まで――」
私はきょとんとした。彼女のセリフを理解するまでには、何秒か時間が必要だった。
そのマンションに行き着くのは、難しくなかった。学校からは常にその位置が見えたし、道が入り組んでるわけでもない。徒歩十五分というところ。駅から何分なのかは知らない。
「本当に行くつもりなの?」
と、私は途中で一度だけ訊いてみた。
ナバエは返事もせず、黙ってうなずいただけ。私は肩をすくめて、ため息をついた。放っておいたら、こいつは一人でだってその場所に向かっただろう。友人としても、一般市民としても、あまり放ってはおけない。
マンションの入口までやって来る。辺りに人はいない。けっこう古い建物で、見た目にもぼろっちい。幸い(かどうかはわからないけど)、オートロックはなく、誰でも中に入ることができた。
「まずくないかな?」
私はごく普通の反応として怯んだ。
「友達の家に来たと思って、堂々としろ」
ナバエは冷酷に言い放ち、さっさと中へ入っていった。私はやはりため息をついて、けれどもそのあとに続く。
中に入ると、小さなロビーにエレベーターと階段があって、ナバエはすでにボタンを押していた。昇降機はもう待機していて、すぐに扉が開く。何となく圧迫感のあるエレベーターだった。一番上の「六階」を押す。
扉が閉まって、地面に押さえつけられる感覚。途中で一度も停まることなく、エレベーターは最上階までたどり着いた。そこからは階段で屋上へ。
マンションの屋上には、鍵がかかっていなかった。
扉を開けて、外に出る。同じ青空のはずなのに、学校で見るのよりいくぶんみすぼらしい感じがした。そして空気も、心なしか冷たい。
屋上に出て、左手のほうに私たちの高校が見える。学校は丘の上なので、屋上の高さはちょうど同じくらいだ。右手には給水タンクがあって、視界は遮られている。
――問題のものは、私たちのすぐ前にあった。
物干し台があるには不便そうな位置ではあったけど、使われている形跡がないのでそもそも不便ですらないのだろう。錆ついた物干し台に、アルミ製の棒が渡されていた。その棒から、縄が下がっている。縄の先は、女の人の首に巻かれていた。
「人形、じゃないよね?」
「そのようだな」
女性の体は白く変色し、手の先にはすじ状の痣が青く浮かび上がっていた。長袖に、スカート、それからエプロンをしている。体つきから、中年女性だとわかる。主婦、という感じ。背は低く、髪は長い。靴は履いていなかった。
彼女の顔は……顔は、すごい形相だった。見開いた目はくるんと上を向いて、口元は鉄をねじ曲げたようなへの字だった。よほど苦しかったのか、今にも呻き声が聞こえてきそう。顔が腫れあがって、舌がだらんとはみ出している。
「うっ――」
急に吐き気がこみ上げてきて、私は思わず口を押さえて体を屈曲させた。どう見ても、彼女の顔は人形のものじゃない。生の死体を見るのなんて初めてだ。誰かの手で世界がぐにゃっと歪む感じ。軽いめまい。
何とか吐くのだけはこらえて、私は言った。「……自殺かな、やっぱり?」
「それはどうだろうな」
けれど、ナバエは言った。
死体が気持ち悪くないのか、彼女は平然とした様子でそれをのぞきこんでいた。顔を見ても、ちょっと眉をしかめるくらいだ。とても冷静だった。
私はようやく口元から手を離した。
「どうだろうって、どういうこと?」
「私にはこれが自殺とは思えないってことだよ」
「殺されたっていうの?」
私は吐き気を忘れるくらい驚いた。
「ああ、その通り」
ナバエは当たり前のように言って、続けた。
「まず、自殺だというならどうやって首を吊った? 彼女は背が低い。イスか何かなければ、この位置で首を吊るのは不可能だったはずだ。それに、どうして何も履いていない? 首吊り自殺をするのに、わざわざ裸足でここまで来る必要があるかな」
「まあ、そう言われればそうだけど」
私は渋々ながら認めた。
「それに決定的なのは、この防御創だよ」
「ぼうぎょそう?」
「殺人者に抵抗したときにできる傷跡のことだ。この死体の首筋には、爪で引っかいた痕がある。縄で首を絞められて、必死でそれを外そうとした証拠だ。その時の縄の痕も残っている。これは誰かが彼女を殺したあと、ここに死体を吊ったという事実を示している」
「……あんた、刑事ドラマの見すぎ」
「常識だよ、こんなの」
どこの国の常識だ。
しかしそうなると、問題はますます厄介なわけだ。警察に通報しないと。偽装殺人だなんて、まさかそんな事態になるなんて――
「あ――」
いきなり、ナバエは声を上げた。
「なに?」
私は驚いて、思わず彼女のほうを見る。
けど、ナバエは呆然とした顔で口を開いた。
「私、犯人がわかったかもしれない」
「え?」
「……でもその前に、私たちはきっとここで殺される」
Q:さて、犯人は誰でしょう?
ヒント:犯人の動機がポイント
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