おれの姐さん
長岡更紗
俺の姐さん
死ねない。
まだ、死ねない。
今日、俺が死ぬとは思ってないだろう。
覚悟はあっても、まだ足りない。
まだ、俺は。
俺は。
優しい手が、頭に触れた。
そして口を開けさせられると、無理やりなにかを流し込まれる。
苦しい。毎回毎回、この時間は苦痛だ。でも食わなきゃ死ぬということくらいはわかる。だから俺は我慢して飲み込む。
「頑張ったわね。後でカールに、外に出してもらいましょう」
ああ、頼むよ。
俺の姐さん。
姐さんは、美人だ。
出会った頃と変わらず、今も美人だ。
俺が姐さんと出会ったのは、まだ姐さんが十九の時だった。
当時は姐さんの恋人、グレイに飼われていたのだが、グレイが殺されると姐さんは俺を引き取ってくれた。
と言っても、姐さんの家には姐さんしかいなかったので、ほぼ放し飼いだ。
戦争で家を空けっぱなしにすることが多い姐さんは、俺をストレイア城の裏山で飼ってくれていた。
「あなたが元気に山を駆け回っていた頃が、懐かしいわね……」
姐さんは俺の頭を撫でながら、そう語りかけてくる。
そうだな、懐かしい。
そうだ、その頃シウリスに出会った。俺は見事、奴に餌付けさせられてしまった。
シウリスは悪い奴じゃないんだ。カールは奴を嫌っていたが、そうじゃない。
あいつは強すぎ、そして悲しい過去を持っているだけだった。
俺は姐さんの手をペロリと舐める。
姐さんは時折、グレイやシウリスのことを、俺に話し掛けてくる。
他に話せる相手がいないからだ。
俺しか、姐さんの気持ちを共有できる奴がいないからだ。
俺はグレイが好きだった。
シウリスの野郎が好きだった。
そして、カールも好きだ。
俺は、姐さんの気持ちが理解できる。
否。
俺しか、姐さんの気持ちは理解出来ない。
姐さんの最大の理解者は俺であり、姐さんのためにもまだ死ぬわけにはいかない。
ああ、どうして俺と姐さんは流れる時が違うのだろう。
出会った時、まだチビ犬だった俺は、いつの間にかもうろくしたジジイになっている。
今では体ひとつ満足に動かすことができない。
「ただいま! おう、イークス! ちょっと外行って、風に当たってくるか!」
カールが俺を持ち上げ、庭に連れて行ってくれる。日陰に俺を放置し、自分は剣の稽古に励むのが日課だ。
昔はこいつの手荒な扱いが好きだったが、最近はもう少し丁寧に扱ってくれてもいいんじゃないかと思う。こっちはもうろくジジイなんだからな。
俺は庭から外を見た。
もう散歩などずっとしていない。
こうして外を眺めるのが関の山だ。
すると、向こうの方から一匹の犬が現れた。
よちよち歩きを卒業したばかりのチビ犬だ。生まれてそう時間は経ってないだろう。
おい、ガキ。
こんなところで何してやがる。
さっさとてめえの家に戻りやがれ。
そのチビ犬は生意気そうに笑った。
なんだよじーさん。
オレは自由なんだ。
誰の指図も受けないよーだ。
なんつークソガキ。
満足に歩けもしないくせに、口だけは一丁前だ。
お前みたいな奴が一匹でうろうろしてみろ。
カラスの奴に、取って食われっちまうぞ。
そ、そんなわけないだろ!
ほら見ろ、上のカラスがお前を狙ってる。
ぎゃ、ぎゃー、助けて!!
チビ犬は慌てて俺の方に駆け寄り、あろうことか格子の隙間を抜けて庭にやって来てしまった。
おいおい、俺は帰れっつってんだ。
わわわ、分かってるよ!
ちょっと避難しただけだ!
か、帰るよ!
チビ犬は上のカラスを気にしながらも、再び格子の隙間を抜けて外に出た。そしてどこかに去ろうとしている。
おい、ちょっと待て。
お前、名前は。
チビ犬はくるりと振り返って、まだない、と答えた。
頼みがあるんだが、いいか?
なんでオレが頼まれなきゃいけないんだよ。
いいじゃねーか、カラスから守ってやったろう?
それにチビ助のくせに、そのでかい態度が気に入った。
ったく、何なんだよ?
俺が死んだら、この家に遊びに来てやってくれ。
……それだけ?
それだけだ。
別にいいけど。
ああ、助かる。
ありがとう。
そういうとチビ犬は元来た道を必死に走って帰っていた。上のカラスを気にしながら。
「おい、イークス。顔色が悪ぃぞ。大丈夫か?」
お前は犬の顔色がわかるのか。すげーな、カール。でもお前はもっと、人の顔色を伺うようにした方がいい。
年寄りの言うことは、聞いとくもんだぜ。
「おい、アンナ! イークスの様子が変だ!」
耳元でうるさい。扱いが雑。
全然変じゃねーよ。俺はいつもこんなもんだ……。
「おい、イークス!」
いや、確かにお前の言う通りかもな。
朝から妙におかしかった。急にセンチになっちまったりしてさ。
きっと、お迎えってやつが近いんだろう。
ああ、ちくしょう。
姐さんと一緒に生きたかった。
もっともっと姐さんと一緒にいたかった。
姐さんは泣くだろうか。
疑問に抱くまでもない。
泣くに決まっている。
俺が死んだら、泣くに決まっている。
ごめんよ、姐さん。
俺だけは、姐さんを泣かすまいと思っていたのに。
俺に子供でもいれば、姐さんの悲しみを少しでも癒せただろうに。
姐さん一筋だった俺に、子供はいない。
「イークス……大丈夫?」
ごめん……ごめんよ。
置いて逝くのは不本意なんだ。
でも、もう無理そうだ。
勝手に目が瞑りそうになってきちまってる。
「イークス!」
「イークスーッ」
ロイドとアイリスも大きくなったなぁ。
俺が、子育てしてやったんだぜ。
まだまだガキなお前らに、教えてやりたいことは山ほどあった。
けど……ごめんな。
せめて俺の死で、なにかを学び取ってくれ。
「イークス、いたずら仲間が減るのは寂しいぜ……」
いたずらっ子はお前一人だ、カール。
でもまぁ、俺も寂しい。
お前に付き合わされた数々の馬鹿は、本当に楽しかった。
お前がいて、良かった。
カール。
お前と出会えて、俺は最高に楽しかった。
「イークス……」
姐さん。
姐さん。
姐さん。
大切な者を、たくさん失ってきた、姐さん。
その悲しみを、再び与えてしまう俺を許してくれ。
ああ、同じ時を過ごしたかった。
グレイよりも。
シウリスよりも。
カールよりも。
俺は姐さんを幸せにする自信があったのに。
姐さんの手が、温かい。
あったかいなぁ……
「お疲れ、イークス……ありがとう」
姐さん……
さすがだぜ、俺の姐さん。
姐さんは、泣いてなんかいない。
笑顔だ。
俺を、笑顔で送ろうとしてくれている。
そう、俺は生まれてから死ぬまで、一度も姐さんを泣かせたりしなかった。
最期の時も、俺は姐さんを笑顔にさせたんだ。
ありがとう、姐さん……
最高だぜ、姐さん……
俺の、愛する、姐さん……
あ り が と う ………… 。
俺は、姐さんの笑顔に見送られるように、瞳を閉じた。
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