第3話
鮫島がレジ周りで書類を整えている。
そして借り物のチューバを脇に置いた宗太郎がカウンターで楽器のカタログを眺めている。レンタルスタジオでの練習を終えた彼は帰ることなく鮫島の元にやってきたのだ。
彼がパラパラとめくっているカタログは写真が惜しげもなく掲載された販売促進用のものではない。型番と価格と少しの情報が一覧で表示された業務用の雑誌だった。
別に鮫島がこれを勧めたわけではない。
本人が貸すように求めてきたのだ。
「宗太郎さん、毎回来られても納期は変わりませんよ」
「そんな事は知っている」
彼からチューバの注文を受けた際、鮫島はきちんと説明していた。
受注生産品だから五か月後の納品だと。
「休日ぐらい仕事から離れてくつろぎたいだろ」
くつろぎたいのなら同じショッピングモールに入っているコーヒーショップに行けばいいのに。
そう思いながらも鮫島は特に気にすることなく自分の仕事を片付ける。
この楽器店ではカウンターでお茶を出すサービスまではやっていない。
「ところで宗太郎さんって何の仕事をしているんですか?」
「陸自だ」
「もしかして音楽隊ですか?」
「宮崎に音楽隊は置かれていないぞ。そもそも音楽隊員のほとんどが音大卒で、俺は音大卒じゃない。ちなみに最も近いのは北熊本駐屯地の第8音楽隊だ」
「たまに宮崎県で演奏会をしているところですよね」
「宮崎は第8師団の管轄だからな」
音楽談義なのか自衛隊談義なのかよく分からない雑談をしながらも宗太郎は業務用カタログのページをめくる。
「この前、都城に転勤してきたって言っていましたよね」
「駐屯地があるからな」
「だから『都城』とか『えびの』とかの話が出ていたんですね」
宮崎県には『都城駐屯地』と『えびの駐屯地』の二つの拠点がある。両方とも地域名を冠した駐屯地だ。
上司たちの会話でその地名が出てきたときは何とも思わなかったが、よく考えたらその二つに共通するのは陸上自衛隊の部隊が駐屯しているという事だった。
「外国の武力攻撃があればすぐに駐屯地に戻らないといけない。数十キロの完全武装で数日間の作戦行動を取らなければならない。何かあったら忙しくなるんだから休めるときに休まないとな」
そう言いながら宗太郎はスマートフォンを振って見せた。
つまりその携帯が鳴れば、すぐに都城駐屯地に戻って任務に就かなければならないということだ。
それは紛れもない戦士の休息だった。
そう考えると型番と価格しか記載されていない業務用カタログを眺めてくつろぐ姿も様になって見える。
しかしそれでも彼は納品を催促しているかのように見えてしまう。
本人はそのつもりではないのかもしれないが、鮫島の目にはそう映っていた。
他の店員たちはレジコーナーを離れてそれぞれの売り場の整備に取り組んでいる。それは宗太郎を邪険に扱っているわけではない。写真もないカタログを眺めて満足している彼を接客する必要がないのだ。ましてや売り上げノルマの多くを一撃で消化させてくれた彼には感謝している。
「念のためもう一度説明しますけど――」
「納品は五カ月先だ」
説明を遮ってその先を話した。
もしかして彼は五カ月間もカウンターで業務用カタログを眺めるつもりなのだろうか。
「楽器は手にするまでが一番楽しいだろ」
「確かにそうですよね。僕の時は受注生産ではありませんでしたけど」
「別にいいじゃないか普及品でも。楽器の価値はカタログの金額じゃ決まらない。ところで鮫島は何の楽器をやっているんだ?」
「フルートです」
「それは良い楽器だ」
宗太郎は三桁の数字をいくつか暗唱しはじめた。まるで敵地に潜入している工作員に指令を出す乱数放送のようだ。
しかしその三桁の数字の意味に鮫島はすぐに気づいた。
国産フルートのスタンダードモデルの型番だ。
その中には鮫島が所有しているフルートの型番があった。
「それでフルート歴は?」
「中学校の三年間と大人になってから一年です」
「ほう、大人になってから再開したのか」
フルート一筋の人は最初に楽器を手にした時からずっと吹き続けている。
鮫島はそこまで気にしたことはないが、ふとした時にブランクがあることにコンプレックスを感じることがある。
しかし宗太郎はそのブランクについて言及することなく、再び楽器を手にした鮫島に感心している様子だった。
「やりたい事はやれる時にやっておかないとな」
「……そうですよね」
バーチャルアイドルの世界には「推しは推せるときに推せ」という格言がある。
いつかファン活動をしようと思っていても、知らないうちにそのバーチャルアイドルが活動を終了してしまったということがある。
鮫島はそれを痛いほど知っている。
前日まで何もなかった。
また次の配信があると思っていた。
しかし彼女が所属している事務所からの発表で世界がすべて変わってしまった。
彼女はもう動画配信サイトにはいない。
SNSでも彼女とはもう会えない。
鮫島は自分なりにファン活動をしていた。
それでも彼女を失った彼の心には大きな穴が開いてしまった。
彼は今がアルバイトの勤務中だということも忘れ、彼女との思い出に浸っていた。
しかし客である宗太郎は接客を放棄した彼を咎めることもなく、何かを慈しむかのような声で質問を続けた。
「何がきっかけだったんだ?」
「え?」
「もう一度フルートを吹きたいと思った理由があるんだろう?」
「それは……」
「女か?」
宗太郎はからかうように聞いてきた。
そしてその口調はすべてを見通しているかのような確信に満ちている。
「楽器を嗜む男なんて、女にモテたくてやっているのが大半だ」
「確かにそういう話はよく聞きますね」
「鮫島もそのクチか?」
「………………」
鮫島はすぐに答えることができなかった。
宗太郎とは顔なじみになったとはいえ、まだ自分の趣味を披露できるような時期とは思えなかった。そしてそれ以上に『尾神樹里』が所属事務所から契約解除されてしまった事を彼はまだ受け止めることができていなかった。
会話を続けることができなくなった鮫島に気付き、宗太郎は話題を終わらせようとした。
「別に言いたくなければ言わなくていい」
「………………」
「未来なんて些細なできごとで変わるものだからな」
ブラジルの蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を起こすかのように。
宗太郎は何かを懐かしむ様子でそう続けた。
アルバイトから帰ってきた鮫島はいつもの習慣かのようにパソコンを起動した。
やる事は決まっている。
ブラウザを立ち上げると慣れた手つきでいつもの動画サイトにアクセスした。
彼女のチャンネルには何の変化もない。
鮫島は適当に画面をスクロールする。
どこまで下っても同じサムネイル。
上に戻ってみても同じサムネイルが続いている。
試しに再読み込みしてみるが、それでも新しい動画が投稿されることはなかった。
延々とマウスホイールを回し続け、何気なく目にとまった動画を再生する。
≪【雑談】青春を捧げた吹奏楽コンクール課題曲を語り合う≫
画面には待機画面が映っている。
シークバーを操作して彼女が登場するところまで早送りした。
「あらかじめ言っておくけど、私は永遠に高校生だからね。毎年現役の吹奏楽部員だから。課題曲から年齢を特定しようとしても無駄だから」
少し早送りしすぎたらしい。
しかし変に巻き戻しても中途半端なところに行ってしまう。
もうこの場所から再生しよう。
「え~っと「行進曲「くろがねの力」が俺の青春」? え~その曲はさすがに知らないなぁ。なんか90年代後半っぽいタイトルだね。私の大先輩じゃん……これって1941年の課題曲じゃねぇかよ!」
相変わらずのキレ芸だ。
あの時の彼女は元気だった。
彼女の叫び越えを聞いて僕たちも元気になったものだ。
画面端でコメントが素早く流れていく。
「それそれ! 『ブライアンの休日』懐かしい! 私のところも『ブライアン』だった! みんなユーフォの裏メロ知ってる?」
あーっ、あーっ、と軽く発声練習をする。
「わたしやっまーだ、やーまだっでっす~♪」
彼女がのびやかにそのフレーズを歌ってみせた。
指導者が替え歌でフレーズを説明するというのはよくある話だが、きっと彼女の顧問は独特な人だったのだろう。
案の定、コメント欄は自称山田さんで溢れかえっている。
「それで次の年の課題曲が『コミカル★パレード』だったの」
尾神樹里がパソコンを操作して画面に曲名を表示した。
鮫島はその曲を知らなかったため何とも思わなかったが、曲名の途中に星マークが挿入されていることを知って驚いた。
「タイトルに星マークが入ってるって珍しくない?」
彼女は視聴者たちの驚きを言い当てた。
それは鮫島も思ったことだった。
吹奏楽コンクールは格式の高いものだ。まさかそれで使用される課題曲の曲名の一部に記号が使われたことがあるだなんて。しかし曲名というものは楽曲の顔のようなものだ。『コミカル』という単語に続く星マークはその楽曲の雰囲気をより魅力的に表しているようだ。
鮫島はこの課題曲を聴いたことはない。
しかしきっと楽しい行進曲なのだろう。まるで顔にカラフルな星をペイントしたピエロが子供たちに風船をプレゼントしているサーカス会場のような。
彼はその星マークからその曲を想像していた。
この配信が終わったら彼女の青春の一曲である『コミカル★パレード』を聴いてみよう。
きらりん☆レボリューション的な?
春日部市がモデルになったアニメのタイトルが……
まな板はステータスだ!
希少価値だ!
ほら、樹里ちゃんの同類が主人公のアニメが……
絶壁仲間のアニメがあってだね
視聴者がコメントを自由に書き込んでいく。
その中に黄色い背景で強調されたコメントが流れていった。
タシロン
1,000円
コロッケマーチで草
そのような課題曲が採用されたことがあるのだろうか。
鮫島は興味を抱きつつもジューシーで美味しそうな行進曲だと感心した。
それと同時に過去のフルート初見演奏の配信を思い出していた。彼女の初めての自由曲が『シーゲート序曲』だったと話していて、ロミオたちが『シーフード序曲』とからかっていた例の配信だ。「明日はハローワークに行きなさい」と彼女に説教された、鮫島が忘れることができないあの配信だ。
「ねぇ『コロッケマーチ』ってなに? すごく気になるんだけど」
そのコメントに興味を持ったのは彼女も同じだった。
彼女はそのコメントを書き込んだタシロンという人物に詳細を尋ねる。
コメント欄がしばらく流れ、再び黄色に強調されたコメントが表示された。
タシロン
1,000円
コミカル★パレードを全部「コロッケ」で歌ってごらん
宮崎県北部の課題曲クリニックでそう習った
「え~。そんなにうまく聞こえる?」
彼女は疑いながらも『コミカル★パレード』のイントロ部分を鼻歌で歌う。
フッフーンフッ、フッフ、フフーンフッ。
そして最初のマーチ部分に突入した。
「コロッケコロッケコロッケ~♪。本当だそう聞こえる!」
たしか鮫島もこの配信をリアルタイムで観ていたはずだ。
しかし彼女が言っている『コミカル★パレード』という課題曲は聞いたことがない。あとで調べて鑑賞してみよう。
「説明するのを忘れていたけど、課題曲クリニックっていうのは地域の吹奏楽部員を集めて課題曲を研究する講習会のことなの。全部の都道府県で実施されているかは知らないけどね。他の地域のクリニックはどうか知らないけど、私のところでは地域の代表校が講師から指導を受けて、他の学校がそれを見て研究するって形式だったの」
吹奏楽経験者でもある鮫島はその課題曲クリニックに参加したことがある。当時の自分は他の地域でも同じ講習会があると思っていたが本当のところはどうなのだろうか。鮫島の学校は県大会止まりだった。県外に出たことがない彼は他県の吹奏楽事情はあまり詳しくはない。
その講習会の代表校に選ばれたことがある、というコメントがちらほらと書き込まれた。
「私のところも代表校になったことあるよ。言っておくけど強い学校が代表になるわけじゃなくて完全な抽選だからね。あと代表校って他校生に見られながら指導されるから、通称、公開処刑って言われるんだけどさ……」
遠い昔の何かを思い出すかのような彼女の口調にロミオたちが心配する。
あの時は鮫島も書き込んだものだ。
彼女ほどではないがそれがどのような事だったか気づいていたからだ。
「経験者なら分かると思うけど、同じ場所を一人ずつ吹くっていう公開処刑があってね」
タシロン
5,000円
そのクリニックで他校のチューバ奏者が立たされて
「お前本当に三年生か? 一年生じゃなくて?」って
講師に数分間怒られていた
「うわっ、キッつ! そんな公開処刑あるの!? 私ならステージから逃げ出しちゃう! しかも絶対に二度と楽器なんてしない!」
同感だ。
部の合奏練習中でもつらいというのに、満員のホールで吊るし上げられるだなんて。いったいそのチューバ奏者はどうなってしまったのだろう。鮫島なら部活引退と同時に二度と楽器を吹かなくなるだろう。
「あとあえて触れなかったけど、「まな板」とか「絶壁」とか「同類が主人公のアニメ」とか書き込んだやつ。後で覚えとけよ」
ハルトマン軍曹
1,500円
いいサイズだ
「いいサイズだ、じゃねぇよ! 刺すぞ!」
ハルトマン軍曹
樹里ちゃんダメだ、未来が変わってしまう
「未来が変わるとかタイムパラドックスとかどうでもいいんだよ! 私が歩く先が私の未来なんだから!」
画面にはぬるぬる動く尾神樹里の姿。
そしていつものようにキレ散らかす彼女の声がヘッドフォンから流れていた。
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