南風に恋う

外鯨征市

第1話

 鮫島は目を疑った。

 震える指で彼はSNSのタイムラインに表示された記事をタッチした。


≪弊社所属バーチャルアイドル『尾神樹里』の契約解除について≫


 その記事を投稿したアカウントは確かに彼女が所属している事務所のものだ。

 嘘であってくれ。

 何かの間違いであってくれ。

 そう願いながら鮫島はその投稿に送られたコメントを確認する。そこは彼女を推す同志、通称『ロミオ』たちの戸惑いの声で埋め尽くされていた。

 自分も『ロミオ』の一員として何かコメントをしなければ。

 鮫島は入力フォームを開いた。

 しかしどうにも文章が纏まらない。

 入力しては消して、入力しては消して。

 衝撃的なニュースに動揺し、あらゆる感情が噴火するかのように湧き出してくる。

 溢れるこの思いに入力する指が追いつかない。

 たった百数十文字のコメント欄には書ききれない。

「鮫島さーん、そろそろレジ代わってー!」

 売り場から掛けられた店長の声に鮫島は我に返った。

 ふと時計を見ると休憩時間が終わって五分が経過していた。

 鮫島はスマートフォンをポケットにねじ込むと、デニム生地のエプロンをひったくって売り場へと駆けていった。

 試奏されるエレキギターやアルトサックスの音がのどかに鳴り響くいつもの店内。

 しかし彼は平常心ではいられなかった。

 戸惑い。

 怒り。

 悲しみ。

 早くシフトが終わってくれと願うが、時計の針は全く進んでくれない。

 熱烈な履歴書を送って採用された楽器店のアルバイトだったが、こんなに仕事をしたくないと思ったのは初めての事だった。


「お疲れ様です」

 シフトが終了した鮫島はエプロンを乱雑に丸めてリュックサックに突っ込み、少しでも早くこの場所を離脱しようとしていた。

 その理由はもちろんSNSを確認するためだ。

 昼休みに所属事務所からの発表には目を通したが、肝心の『尾神樹里』からのコメントは確認していない。

「鮫島くん、ちょっといい?」

 ドアノブに手を掛けた鮫島を呼び止めたのは店長だった。

 一刻も早く推しのSNSに目を通したかったが彼は雇われの身だ。店長の用事を無視するわけにはいかなかった。

「昼に何かあったの?」

「何かって何ですか?」

「なんか今日って張りがなさそうっていうかさ」

「すみません。体調が悪かったもので」

 鮫島は申し訳なさそうに嘘をついた。

 彼の本心は推しの契約解除に戸惑っているだけだ。そして一刻も仕事を終えて『尾神樹里』の情報を収集したかっただけだ。

 確かに今日の彼は体調が悪かった。

 勤務中は推しの事しか考えることができなかった。

 あまりの衝撃的なニュースに胸はドクドクと暴れ、呼吸に合わせて胸に痛みが走っていた。

 確かに症状を見るに体調不良だろう。

 しかしその原因が推しているバーチャルアイドルの契約解除のショックだなんて、アルバイト先で口にすることはできなかった。

「まぁ鮫島くんはいつもバリバリ働いてくれているから、たまにはそういう時もあるよね」

 店長は鮫島の体調を心配している。

 どうやら彼の嘘はバレなかったようだ。


 鮫島が帰宅すると食事に手を着けることなく自室に向かい、いつものパソコンを起動した。いつもは気にならないはずの起動画面がもどかしい。

 パソコンのロゴマークを眺めながら、彼はスマートフォンで『尾神樹里』のSNSを確認する。しかし何も投稿されていない。最後の投稿は昨日の夕方のものだった。

 ようやくパソコンが起動した。鮫島はいつもの習慣のようにインターネットブラウザを立ち上げるとマウスカーソルを『お気に入り』のボタンの元へと移動させる。

 そこで鮫島の指は止まった。

 表示されている検索エンジンのニュース欄にいつもの名前が表示されていた。


≪人気バーチャルアイドル『尾神樹里』事務所から契約解除≫


 少しだけ道草を食い、その記事に目を通す。

 しかしそのニュースは所属事務所の発表を要約しただけのもので目新しい情報はなかった。

 鮫島は毎日視聴している動画サイトへとアクセスする。

 ページが表示されるとマウスカーソルを一直線に目的の項目に移動させる。

 表示されたチャンネルの最新動画を確認したが、今日の事務所からの発表以降に動画は投稿されていない。

最も新しいもので四日前のものだった。

 それは鮫島がリアルタイムで視聴していたものだ。

 いつものようにコメントを書き込み、また数日後に配信があるものだと思っていた。

 鮫島は虚無感に襲われながらも『尾神樹里』の過去の動画をあさる。そして気ままにひとつの動画をクリックした。


≪フルートでリクエスト曲を初見演奏!≫


その動画は前回視聴を中断したものであり、その場所から動画が再生される。

 いつもの『尾神樹里』の声がヘッドフォンから聞こえてくる。

「最初にコンクールで吹いた自由曲が『シーゲート序曲』だったの」

 配信当時の記憶が鮮明によみがえる。

 彼女は言っていた。この『シーゲート序曲』はフルートのソロから始まる曲であり、それを担当した直属の先輩の雄姿に感動したと。

「それで二年の時が『喜びの音楽を奏でて!』で三年のコンクールが『管楽器と打楽器のためのセレブレーション』って曲。全部スウェアリンジェンの曲でさぁ」

 これも彼女は言っていた。

 当時の顧問がスウェアリンジェンの大ファンだったと。

 深夜二時を過ぎていたというのに、その配信が終わるやいなや鮫島は財布を持ってコンビニに駆け込み、音楽配信サイトのプリペイドカードを買ってきた。もちろん推しの青春を彩ったそれらの曲を購入するために。

 動画の端では視聴者たちのコメントが流れていく。そこは「シーフード」「海鮮序曲」「おいしそう」といった声であふれていた。

「シーフードじゃなくてシーゲートね?」

 尾神樹里も最初は笑いとばしていたものの、一向に収まらないコメントに感情が露わになっていく。

「だーかーらー! 『シーゲート序曲』だって! はい、この話題は終わり! 今日はリクエストされた曲をフルートで初見演奏するって企画なんだけど……「好きな魚介類は?」じゃねぇよ!」

 あまりにもくどい冗談に彼女は叫ぶ。

 その絶叫は外見からは想像もできないものだった。

 鮫島が彼女の事を知ったときはすでにこのキャラクターで活動していたから違和感はないが、過去の動画を漁ると初期の彼女は清楚キャラで活動していた。

「それじゃあ初めの一曲目は……」

 コメント欄には視聴者からリクエストされた曲名が流れていく。

 その文章を見て鮫島は懐かしむように息を漏らした。

「ねぇ魚介類から離れてよ!? しかもこれって日曜日が終わる曲じゃん!」

 まるで示し合わせていたかのように、彼女の熱心なファンであるロミオたちは日本で最も有名な魚介類一家のエンディングテーマを記入していた。

 いわゆるブルーマンデー症候群を誘発させるあの曲だ。

「みんな明日から仕事でしょう? これを聞いたら憂鬱になっちゃうよ」

 画面端では続々とコメントが流れていく。

 その中でひとつだけ赤く強調されたコメントが流れていった。

 鮫島はスクロールしてそのコメントを確認する。


フカちゃん

10,000円

ニートだから平気


 そこに表示されていたアカウント名は鮫島が使っているものだ。

 この配信をリアルタイムで見ていた鮫島が書き込んだコメントだった。

 一万円の投げ銭と共に書き込まれたそのコメントは赤色に強調され、それは『尾神樹里』の元でも強調されて表示されていた。

「ニートだから平気、じゃねぇよ!」

 彼女は赤く強調された鮫島のコメントを拾って叫んだ。

 その叫びはその日の配信で最初の叫びだった。

「とりあえずフカちゃんは明日ハローワークに行くこと! それとコンビニとかスーパーとかに行ってアルバイトのフリーペーパーを貰ってくること! 私との約束だから!」

 あの時の記憶が鮮明によみがえる。

 配信中に名前を呼ばれただけでなく、明日は就職活動をするという約束の形で彼女から指示を受けた。その出来事は彼女のファンになって初めての出来事だった。

 あまりにも嬉しくて調子に乗ってしまった鮫島は当然のようにコメントで返事をした。

 勢いよく流れていった赤いコメントをスクロールして確認する。


フカちゃん

10,000円

樹里ちゃんがそう言うならハロワ行ってくる


「だからニートが投げ銭してんじゃねぇよ!」

 その叫びすら今となっては懐かしい。

 まさか彼女とのお別れがあんな形になってしまうなんて。

 もう彼女の叫び声すら聞くことができないだなんて。

 涙をこらえながら配信の記録を見ていたけども我慢の限界を超えてしまった。

 鮫島は机に突っ伏して、声を押し殺して泣いた。

 ヘッドフォンからフルートの楽しそうな音色が流れてくる。しかし今の彼には悲しい旋律にしか聴こえなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る