第14話 半裂
漆黒の氷床の中に埋もれていた。
肺も気管も、重く冷たい氷が詰まっている。
まだ意識を保ててはいる。しかしこのままでは死は遠くない。
科学的に生物の死を観察し、定義づけは数値により可能だ。
また科学的に生物の生命反応を観察し、事象を数値づけることも可能だ。
しかしながら、なぜ生命反応が起こるのか、これを科学では説明できない。ただ『生きている』のだから、としか説明できない。
この雪女という存在が、呼吸ができないと死んでしまうのか。
違う。そうじゃない。
そんな思考で、残り時間を食い潰してはならない。
まずは排熱してこの氷河を融解させる。
熱の放出地点は、あの石女尼の祠にする。視覚で見知った場所にしか、私は放熱ができない。また距離を置くのは、自分の排熱で茹で上がるのも剣呑だからだ。
排熱をちろちろと心持ち丁寧に放つ。
ぷかり、と浮力を感じた。
氷河は半ば液体になったが、呼吸ができないのは変わらない。眼を開いても、指先ですら見えない。まだ溶けきれない氷がそこに触れるのは、熱量を手控えていたからだ。闇に呑みこまれ、肉体との境界線が曖昧に なっ ている。心臓が割れるように、胸が痛い。鼓動が耳元まで 響く。
私は 液体を再び凍らせないように、肌に緊張感を 持って水を掻く。
意識が 途切れかけている。
闇 が 赤く 反転し て い き
脳裏に色葉の 姿が 見える
「大丈夫?」 と 笑う 顔 が 声も なく
空間の中に、闇の中に、穴があった。
意味がわからないが、呼吸はできる。
不意に見つけたその穴に齧り付いた。
その穴は丁度、人差し指と親指で円をつくったほどの、ささやかなものだけど、私の唇には充分な広さがある。そこで激しくむせて、息をつく。
肺の中の水も吐き出した。
冷たい、新鮮な空気が身体に浸透していく。それまで血流が全身を暴れ回っていたが、落ち着きを見せはじめた。
これは、何?
なぜ呼吸ができるの?
私は口から深呼吸をして肺に溜め込んだ。素潜りでもするように。
その穴から顔を剥がすのには、勇気が必要だった。その穴の所在を見失うかもしれない。そうなると溺死が待っている。
勇気を振り絞って、その穴を覗き込んだ。
見えたのは、布地と、緩んだ人肌が弾力を持って視界を塞いでいる。
理由がわからない。
これは、何?
何を見せられているの?
その人肌が跳ね除けようと抵抗しているのが見える。
粘っこい汗ばんだ女の臭いがする。
そして懐かしい肌の匂いも届いた。
それは色葉の、瑞々しい香りだわ。
視界の向こうに抗う動きを感じる。
肉肌が押しのけられ、視界が広がって、その場所が色葉の病室であることを知る。そして病院服をはだけ、重そうに垂れた乳房を揺らして尻餅をついたのは、醜悪な笑みを浮かべた田所さんの姿だった。
その乳房の上にまで広がった痘瘡に、眼球があるのを見た。
「離してよ」と叫ぶ色葉の声がする。
「六花姉、この人に本体がいる」
そう。
わさわさと白髪混じりの髪が立ち上がり、金色の瞳が憎々しげに睨めつける。張りのない両頬を引き裂くほど口を開けて、それ、は叫んだ。
「騒ぐな、小娘!いやさ、千代女!」
理由はわからない。
だが私のすべきことは。ひとつだ。
それ、には石女尼が憑依している。
面妖の術者の気配は、ここにない。
そして。
目的は千代女の転生者の、色葉だ。
そうか。
また私は自らの排熱で、魍魎のくびきを滅却して解き放ってしまったのか。
刈り取って、やる。
それが私の責務だ。
サイズの小さいダイビングスーツを纏うように、私は脚を差し込んでいく、そして腕を捻じ込んでいく。ゆっくりと首を通していく。乳房の行き場がなく、胸が苦しい。
私よりひと回り小柄な色葉の肉体に、私の意識体が同期してきた。これで能力は使えるのか。
背中から乳房の裾野に鈍い痛みがある。彼女の、帯状発疹の痛みだろう。雪女としての肌に力を込める。他愛もなく、一瞬でそれが霧散する。
私は唇に手のひらを水平に寄せた。
田所さんの命を奪うわけにはいかない。
あの面妖の憑依させている痘痕だけを、狙って切り取るのだ。
鋭く、剃刀のような超寒気の吐息を放った。
そう。
色葉は言っていた。
この場所からでも、私は石女尼と闘えると。
彼女が、転生してきた望月千代女が新たに覚醒した能力。あの大蛇が原の一戦の後で彼女が開いた能力。
それは、口寄せの能力。
離れた場所にある霊体や意識体を、空間を超えて引き寄せる能力。
その媒介となるのは、彼女の胸元にあるお守り。そのお守りの中で輪状に収められている私の髪の毛。私が呼吸できたのも、その輪の内側が水没した真田の抜け道と、色葉が同期してくれたからだ。
やだ。
ずっと色葉が私を見ていたってことよね。
どきりとした。
本体に戻らないと行けない。
窮地に陥っているのは、そちらの方だ。
胸いっぱいに空気を吸って、水中に潜るように意識を浮かせた。
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