第37話 本編25 痙縮の老女(2), 本編26 忘却の老翁(1)
「何が進行しているんですか」
見上げたまま雀藤が尋ねると、その職員は小声で答えた。
「認知症ですよ。ちゃんと話せないでしょ」
雀藤は眉を寄せたまま立ち上がる。そんな事は無いと思った。
編んだ左右の髪を後頭部で一つにまとめて奇麗に上げているその女性職員は、スタスタと車椅子を押していく。後頭部で金のヘアピンが光っていた。
雀藤は何かを思い出したように鞄の中を漁ってから、その車椅子を追いかけた。金の髪留めの職員が迷惑そうな顔で車椅子を止めると、雀藤はその前にしゃがんで、持っていたものを亀島という老婆に差し出した。
「あ、これ、福祉充実促進キャンペーンで配っているボールペンです。ここの雀が可愛いですから、よかった一本どうぞ」
雀藤がスパロウボールペンを亀島の右手に握らせると、亀島はそれを抱きしめるように胸元に抱えて、嬉しそうに何度もお辞儀をした。
「もういいですか。あまり長く話しかけると、ご本人さんも疲れますから」
金の髪留めの職員にそう言われ、雀藤は小さくため息を吐いてから立ち上がった。
亀島は押されていく車椅子から頭を横に出していつまでも雀藤にお辞儀したまま、向こうの個室の方に移動させられていく。
雀藤は小さく頭を下げてから、その老婆が個室に入れられてしまうまで、その場で立って見ていた。
個室のスライドドアが閉まる。
少し息を吐いた雀藤は、くるりと振り向いて食堂ホールを見回した。
食事を終えた老人たちが、一人ずつ職員たちに介助されながら洗面所の方に移動している。歯磨きの時間だ。
歯磨きは、歯を磨いてもらっている老人も、老人たちの歯を磨いている職員も、どちらも大変そうだった。どの老人も座位を保つのがやっとといった感じであり、職員はその老人たちの体を、人によっては二人掛かりで支えながら、歯磨きを実施している。
テーブルの方には、まだ食事を終えていない老人もいた。車椅子のリクライニングを精一杯に倒し、介護職員から流動食を口に運んでもらっている。
流動食とは言うが、咀嚼機能が衰え嚥下も不自由となった人にとっては、決して楽に飲み込めるものではない。それでも、本人の体力を維持させるために、本人の苦痛に寄り添いながら、職員たちは匙で、その何の料理であるかも分からい半液状の食物を少しずつすくっては、老人の口に運んでいる。
嚥下力の低下で
いたたまれない思いになってくる。
雀藤友紀は鳩代に視線を向けた。彼は詰所のカウンター越しに、中の若い女の事務職員と話し込んでいた。
雀藤は眉を強く寄せると、短く一息吐いてから、再び辺りを見回した。歯磨きを終えた老人たちの中から、比較的コミュニケーションが取りやすそうな人を探す。彼女は、視界に入った白髪の老人のところに歩いていった。
26 忘却の老翁
その白髪の老翁は自走式の車椅子に座っていた。周囲の人間より先に歯磨きを終えたのだろう。余裕の風格で、テーブルの上に置いた将棋盤の上で詰将棋に興じている。
隣の席の椅子を引いて、そこに腰を下ろした雀藤は、その老人に話しかけた。
「あの、失礼します。わたくし、厚生労働省老人福祉局福祉実態調査課から委託されました介護保険地域包括支援状況外部認定団体実態調査員の雀藤と申します。すみませんが、ちょっとお時間をよろしいでしょうか」
老人は将棋の駒を指先でつまんだまま、雀藤に向けた眼鏡の奥の眼をパチクリとさせていた。
雀藤は尋ねる。
「こちらを利用されて、どれくらいですか」
老人は雀藤をにらみながら訊き返した。
「何がじゃ。金か、時間か?」
「あ……、えっと、時間です。ご利用はもう長いこと……」
老人は将棋盤に顔を向けた。
「ああ、ここに入れられて、もう一年以上になる。先月には出られると思っとったのじゃが……」
老人は強めに音をたてて駒を置く。
雀藤は上着のポケットからメモ帳を取り出しながら尋ねた。
「毎日どうですか。こちらの施設の利用のご様子は」
「何が」
「今日は簡単なアンケートに来たんです。こちらの施設の方のサービスは如何かなって。どうですか」
老人は憮然とした顔をして、はっきりとした声で答える。
「如何も何もあるか。昼飯も食わせてもらえないんだぞ。いったい、この施設はどうなっているんじゃ!」
そこへ職員が駆け寄ってきた。今度は長い髪をヘアバンドで一本に束ねた若い女である。彼女は老人に言った。
「矢守さん、さっき食べたじゃない。お芋の煮付けがおいしかったでしょ」
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