第9話 ラフカの悪友
「帰ったか、博士」
「どう、調子は」
「どっちの調子だ」
「FWを外した影響よ」
「そうだな、なんにも違和感がないことに驚いているところだ」
「分かってはいたけれど、FW理性は見事に主観経験に統合されているわけね」
「ああ、だが確かに効果はあったらしい。俺が発狂しながらフィルムを破り始めたら止めてくれよ」
アダマス・スクエアの埃臭い事務室に入ると、昨日まで殺風景だった壁一面に1層の地図が投影され、昼食に使っていた机の上には大量のプロファイルが整然と並べられていた。振り向いてげんなりした顔を見せた彼の手に、3課の事務所を通った時に手渡された新たな資料を押し付ける。
「全部あなた一人で?」
「見ての通りだ。誰かペグにも腕をつけてやれよ」
--手伝いたい気持ちはやまやまなのですが、私は文書化された市民データにはアクセスできませんので--
「さすが数学者。そういうところは役に立つのね」
「まあな。まったくケベデの爺め、余計なことしやがるぜ」
ロビンは私の手からここ2時間の資料を乱暴に奪い取ると、再び非環境要因の強いデモ参加者を篩い分け、それぞれの共通経歴と、再犯者については監視期間中の移動経歴を照らし合わせる作業を始めた。
「事件の母数が多いことは大事なことよ。それにこれは彼が保安局が主導権を握らないよう攪乱してくれた結果。捜査が大変になったのは間違いないけれど、最悪は回避できたわ」
そうは言いつつも、私も地図上に同期された情報を外部記憶装置に転写してみて、これから現場検証に向かわなければならない地点の候補の多さにうんざりする。CMFの会見発表から数時間で、2層のCMF本社前及び官庁街周辺で行進中のデモは9件。短期的に不安を煽られただけの、感情のはっきりした市民が多く紛れ込んでいるせいで、開発政策への抗議活動や回帰派の街宣などを発端にした過去の暴動と照らし合わせようにもFWによる参加者の逸脱傾向の評価はまったく傾向が異なっている。記憶装置が導入される以前の時代のミステリー物語の主人公の気持ちがよくわかった。
「このどこかに意思を干渉された人がいるのか」
「私たちがそう思いたいだけだけれど」
「いや、煽動犯について唯一言えることは、政治的動機を持った人間である可能性が高いということだけだからな。何らかのアクションは期待できるだろう」
「でもやっぱり、干渉がいつされるのか、意思の強制は継続するのか、それがまったく分からないのが痛いわね」
「......なあ、博士」
「どうしたの?」
「ゾフィー博士の研究室で何を見たのか、どうしても教えてくれないか」
「言ったでしょ、それじゃ実験にならない」
「それはわかっている。だが俺も博士の監視をしなくちゃならん。なあ、博士は何を知りたいんだ? 百歩譲ってだな、ゾフィーになにがあったかを知る必要性は一定程度認めよう。だが、何度も言うが博士にはそれに中立でいてもらわなきゃならない。なぜなら......」
「心配無用よ。思い出して、私は警察である前に真理を探究する研究者だから。煽動犯との接触に成功した時にぜんぶ説明するわ」
「俺が言いたいのはそういうことじゃないんだが」
彼の扱いには慣れてきていたが、いつものしつこさとは何か違う気がした。しかし転写の完了を告げる通知で我にかえり、私は黙って右手に何個か栄養食を掴んだ。
「こう解釈すればいい。私やっぱりあなたの性格が嫌いだけれど、あなただから私の理性を任せられるのよ」
「そうか。まあいい、今は分かったと言っておくよ」
「ありがとう。じゃあ、留守お願いね」
「また出かけるのか、少し休んだらどうだ?」
「大丈夫。少しスカウトに出かけるだけだから」
「スカウト? ありがたい、やっと目処が立ったのか。そいつは誰だ?」
「そうね、私のことを誰よりもよく知っている人よ」
まだ規制の残っている環状トラベレーターを途中で降りると、1層の隔壁沿いに形成された歓楽街に出る。再開発があまり進んでいないこの地区では未だに、セレストが世代間移住船だった時代の、いわゆる「横向きの」ビルが突き出していた。天井は広く、鳥たちが飛ぶホログラムが屋内の様子を隠している。大学時代に見飽きたその複雑な景色のなか、官庁街では見かけない派手な恰好の若者たちをかき分けて時計塔のある階段広場にたどり着いた。
ここには社会からある意味逸脱した若者たちが集まっている。かわいいものだが、夜更かしというのは、理性制御への彼らなりの反抗なのだ。私もかつてはそうだった。よくないことだという共通認識がありつつ、誰にも不利益を与えることもなく、機会が社会的に制限されているわけでもない。自己のフリーウォントと創造されたフリーウォントとの分界の象徴だった。広場は1層の中でもかなり幅の広い歩行帯が収束する地区であるにもかかわらず、暴動を警戒する警備隊員の姿はない。すれ違う人々のFWシステムを除けば監視システムはほぼ無いと言ってよい程で、細い路地などに入ったときに、執行能力のないドローンと稀にすれ違うくらいだ。もしもFWの信頼が失われてしまったら、エンタメ化によって生きながらえてきたこの見せかけだけの不法地帯もその様態を変えてしまうのだろうか。
セレスト時間深夜3時。採光窓の明かりが届かない「空の広場」一帯では、セレスト時間など気にせず常にあらゆる店舗が明かりを灯している。階段を上った先の舞台では、私が生まれるよりも前からそこで回転し続けているかつての地球の姿を投影したホログラムが、青白い光をまき散らしていた。セレスト時間を示している時計塔とは違って、太陽系文明時代から原子時計を通じて続くらしい世界標準時を表す数字盤がその真下に据えられている。
だんだんと弱まって来た人の流れに逆らい、細い路地に入って個人経営の劇場の前に到着する。看板を照らす真っ赤な照明の下でたむろしていた学生たちが、私を見るやいなや嫌そうに離れていった。人のいなくなった通りで暫く待っていると、最終上映開始の案内がショウウィンドウに浮かび上がる。私はそれを確認して、真鍮風のドアノブに手をかけた。
「今日の営業は終わりだよ、嬢ちゃん」
ふいに声を掛けられてカウンターを見るが、その樹脂製の古めかしいブースには誰もいない。
「それとも、シアターの貸し出しかな」
背後に気配を感じて飛びのくと、黄金色のポールを片手に持った私よりやや年上の女性が立っていた。紫や青のシンプルな光彩が白い長髪を染めていておどろおどろしい。
「いえ、ただオペラに興味があって。ここならやっているかと」
「古典フィルムか、ちょっと待ってな」
カウンターに入り何か机の裏側を操作すると、紙かと思っていた巨大ポスターが透明になり裏からラックが現れた。女が年代を指定すると、仕掛け時計のように棚の一部だけが回転し、そこからさらに別のラックが可愛らしく飛び出してくる。カビ臭いホールも相まって、どこか大人でメルヘンチックな世界観に見惚れてしまう。しかし女のやけにねっとりした声が耳に届くと、あっという間に現実に引き戻される。
「タイトルは?」
「どろぼうカササギ」
「......へえ、随分と珍しいものを。流行ってるとは聞かないけど、趣味なのかい?」
「はい。私じゃなくて彼女の、ですけど」
「......それならあれか、オペラデートってやつかい。いい相手だね、私も憧れるよ」
女は整然と並べられたフィルムの背表紙を指でなぞり、一通り探すふりだけしてすぐに諦めた。
「驚いたね、貸し出し中になってる」
「どれくらいで帰ってきます?」
「もう終わってるはずだね、取り立ててくるよ。彼女はすぐ来るのかい」
「10分後くらいに」
「なら1号棟の594ボックスが空いてるよ。そこで待っときな」
木彫りのキーホルダーがぶら下がったルームキーを渡されて、私は螺旋階段を登った。ロビーでは先ほどのスタッフがポールを入り口に並べて店じまいをしている。2階に上がると、映画に感化されたのか、熱いキスをしながらふらついた足取りで降りてくる若いカップルとすれ違う。しかしそれが唯一すれ違った人間だった。大上映室を通り過ぎ、赤いカーペットが敷かれた薄暗い廊下を抜けて、右手に小さな防音扉が並ぶ細い待合室に出た。朽ちた窓枠にもたれて通りを見下ろすと、向かいのパブに屯していたガラの悪そうな服装をした男たちを追い立てるように、ホログラム広告の色とりどりの海鳥が一斉に羽ばたいていた。飛び去った先からは、私とはかかっている重力の向きが異なるらしい建物の屋上がこちらに迫り出してきていて目が冴える。
視界の隅で表示された3時半を指す時計を見て、私は重たい鍵を回し、明かりのついていない貸切のシアターへと足を踏み入れた。鍵を開けたままキーをつっぱりに掛けると、なんの嫌がらせか政府広報の映像が大音響とともに流れ始める。そういえばそうだったと1人で相槌をうちながらムードを変更し、毛羽だった椅子に沈み込んで、彼女が来るのを待つ。少しもしないうちに瞼が勝手に落ちてくるようになった。ロビンの言う通り、少し横になっておくべきだったかもしれない。
安っぽい薔薇の香水と、酒臭い吐息を感じて目が覚めた。しかし中途半端な眠りをしたせいで自分がいる場所がどこか分からず、ペグが何も警告してこないことをいいことに暫くぼんやりと同じ体勢をとりつづけた。ニネッタのアリアを遠くに聴きながらかれこれ5分ほど経ち、だんだんとシアターに来た目的を思い出す。右腕が痺れてきたとき、やっと私は隣で寝息を立てている小柄な体を肘で思い切り突いた。
「痛ぇっ!」
「おはよう、ピカ」
ピカは顔を顰めたまま私の足元にうずくまり、その先天性の赤い瞳で非難がましく私を睨みつけた。
「......ねえ、数年ぶりの再会を楽しみにして来たのにその友達が爆睡してたんだよ? そっとしておいてあげた私の優しさに感謝は?」
「あら、客にそんな態度とっていいの?」
ピカは無言になって湿った金髪をかきあげると、勢いよく立ち上がり、部屋の入り口に備えられていた冷水を氷の音を立てながら喉に流し込んだ。肩まで伸びた髪は寝起きで絡まっている。光の当たり方によってエメラルドに煌めくそれはかつての華やかさの名残こそあるが、長いこと手入れされていないようだ。水を飲んで先ほどよりも顔色がマシになったピカは、脚を組んで前の座席の背もたれに腰掛けた。裸足だった。
「最悪。何が更生よ、前より乱暴になってるじゃん」
「酷いこと言わないで。それで、ピカは、あれからずっとここを拠点に?」
「ええ、そうね。誰かさんがちゃんと報酬を払ってくれるのを信じてずっと待ってたんだよ」
「成功報酬じゃなかったっけ」
「まさかラフカ、酔ってるの?」
思わず彼女の息の臭さを指摘したくなって、にやけてしまった。ピカもそれをみて声を出して笑った。
「ごめんね、謝らなきゃいけないことがあるの」
「何?」
私は彼女の手を取り、5課の予算から2万ポンドを送金した。一瞬ピカの瞳に青い影が走る。
「ねえ、半分しかない」
ピカは何度か数字を確認して、不満げに、しかし私の意図が読めずに戸惑っているのか、甘えた声を出しながら私の手を引き留めた。
「まあ、お金なんか別にいいけどさ」
「ごめんね、今はそれだけしか」
私は立ち上がり、ピカの横に腰掛けて肩を寄せる。
「別に、また来てくれたらいい」
「そのことだけど、ピカ、ずっとここで活動を続けるの? 政府も色々警戒し出したし、ここじゃそんなに美味しい情報流れてこないでしょ」
一瞬酷く寂しげな目をして、ピカから自然な笑顔が消えた。私はその笑顔もよく知っていた。初めて会った時と同じ、そして官僚たちに取り入る時のそれと同じだった。
「はあ、なんだ。どうせそうだと思ってたけどさ。また依頼?」
「少し違う。今度は私と一緒に......」
「せっかく復帰したんでしょ、変なことしてないで普通に暮らしなよ。私も今の仕事にやりがい感じてるしさ」
肌寒そうに身を震わせ俯くと、床に広がっていたパーカーを羽織って椅子から飛び降りる。私は彼女を逃さないよう話を続けながら、シャツに着けていた偽装用の識別子を剥がして保安局の徽章を露わにした。
「ピカ、あなただいぶ擦れたみたい」
「......ラフカのせいで無駄に寿命削りすぎたの」
「そうね、あの時はただがむしゃらだった。でもピカ、あんなになって結局私たち、何も成し遂げてないじゃない」
ドレスの裾が風を切る音がした。
罵声を覚悟したが、そのわなわなと震える幼い口から飛び出したのは、聞き取れないほど掠れた声だった。彼女の目は私の胸元で光る土星のようなバッジに釘付けになっていた。
「本当、最悪。私を裏切ったのね、ラフカ」
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