二虎競食の計・駆虎呑狼の計
軍師、謀士。
そのほか、錚々たる幕僚の将たちが、痛烈に会飲していた。
真ン中に、曹操がいた。面上、虹のごとき気宇を立って、大いに天下を談じていたが、たまたま劉備玄徳のうわさが出た。
「あれも、いつのまにか、徐州の太守となりすましているが、聞くところによると、呂布を小沛に置いて扶持しているそうだ。――呂布の勇と、玄徳の器量が、結びついているのは、ちと将来の憂いかと思う。もし両人が一致して、力を此方へ集中して来ると、今でもちとうるさいことになる。――なにか、未然にそれを防止する策はないか」
曹操がいうと、
「いと易いこと。それがしに精兵五万をおさずけ下さい。呂布の首と、玄徳の首を、鞍の両側に吊るし帰って来ます」と、許※「ころもへん+睹のつくり」(きょちょ)がいった。
すると、誰か笑った。
「ははははは。酒瓶ではあるまいし……」
荀※「或」の「丿」に代えて「彡」(じゅんいく)である。
笑った唇へ、酒を運びながら、謀士らしい細い眼の隅から、許※「ころもへん+睹のつくり」をながめて云ったのである。
荀※「或」の「丿」に代えて「彡」に嗤われて、許※「ころもへん+睹のつくり」は口をつぐんでしまった。彼は自分がまだ、智者の間に伍しては、一野人にすぎないことを知っていた。
「だめでしょうか、私の策は」
「君のいうことは、策でもなんでもない。ただ、勇気を口にあらわしただけのものだ。玄徳、呂布などという敵へ、そういう浅慮な観察で当るのは危険至極というものだ」
曹操は、面おもてを向けかえて、
「荀※「或」の「丿」に代えて「彡」。――ではそちの考えを聞こうじゃないか。なにか名案があるか」
「ないこともありません」
荀※「或」の「丿」に代えて「彡」は、胸を正した。
「今のところ――ここしばらくは、私は不戦論者です。なぜなら、遷都のあと、宮門そのほか、容はやっと整えましたが、莫大な建築、兵備施設などに、多くを費やしたばかりのところですから」
「む、む……して」
「ですから、玄徳、呂布に対しては、どこまでも外交的な手腕をもって、彼らを自滅に導くをもって上策とします」
「それは同感だ。――偽って彼らと交友を結べというか」
「そんな常套手段では、むしろ玄徳に利せられるおそれがあります。それがしの考えているのは、二虎競食の計という策略です」
「二虎競食の計とは」
「たとえば、ここに二匹の猛虎が、おのおの、山月にうそぶいて風雲を待っていると仮定しましょう。二虎、ともに飢えています。よって、これにほかから香ばしい餌を投げ与えてごらんなさい。二虎は猛然、本性をあらわして咬みあいましょう。必ず一虎は仆れ、一虎は勝てりといえども満身痍だらけになります。――かくて二虎の皮を獲ることはきわめて容易となるではございませんか」
「むむ。いかにも」
「――で、劉玄徳は、今徐州を領しているものの、まだ正式に、詔勅をもってゆるされてはおりません、それを餌として、この際、彼に勅を下し、あわせて、密旨を添えて、呂布を殺せと命じるのです」
「あ。なるほど」
「それが、玄徳の手によって完全になされれば、彼は自分の手で、自分の片腕を断ち切ることになり――万一、失敗して、手を焼けば、呂布は怒って、必ずあの暴勇をふるい、玄徳を生かしてはおかないでしょう」
「うむ!」
曹操は、大きくうなずいたのみで、後の談話はもうそのことに触れなかった。
が、彼の肚はきまっていたのである。それから数日の後には、帝の詔勅を乞うて、勅使が、徐州へ向って立った。同時に、その使者が曹操の密書をもあわせて携えて行ったことは想像に難くない。
徐州城に、勅使を迎えた劉玄徳は、勅拝の式がすむと、使者を別室にねぎらって、自身は静かに、平常の閣へもどってきた。
「なんであろうか」
玄徳は、使者からそっと渡された曹操の私書を、早速、そこでひらいて見た。
「……呂布を?」
彼は眼をみはった。
何度も、繰返し繰返し読み直していると、後ろに立っていた張飛、関羽のふたりが、
「何事を曹操からいってよこしたのですか」と、訊ねた。
「まあ、これを見るがいい」
「呂布を殺せという密命ですな」
「そうじゃ」
「呂布は、兇勇のみで、もともと義も欠けている人間ですから、曹操のさしずをよい機として、この際、殺してしまうがよいでしょう」
「いや、彼はたのむ所がなくて、わが懐ふところに投じてきた窮鳥だ。それを殺すは、飼禽を縊るようなもの。玄徳こそ、義のない人間といわれよう」
「――が、不義の漢を生かしておけば、ろくなことはしませんぞ。国に及ぼす害は、誰が責めを負いますか」
「次第に、義に富む人間となるように、温情をもって導いてゆく」
「そうやすやす、善人になれるものですか」
張飛は、あくまでも、呂布討つべしと主張したが、玄徳は、従う色もなかった。
すると翌日、その呂布が、小沛から出てきて登城した。
呂布は、なにも知らない様子であった。
彼はただその日、劉備玄徳に勅使が下って、正式に徐州の牧の印綬を拝したと聞いたので、その祝辞をのべるために、玄徳に会いに来たのである。
で――しばらく玄徳とはなしていたが、やがて辞して、長い廊を悠然と退がって来ると、
「待てっ。呂布」と、物陰で待ちかまえていた張飛が、その前へ躍り立って、
「一命は貰ったッ」
と、いうや否、大剣を抜き払って、呂布の長躯をも、真二つの勢いで斬りつけて来た。
「あっ」
呂布の沓は、敷き詰めてある廊の瓦床を、ぱっと蹴った。さすがに油断はなかった。七尺近い大きな体躯も、軽々と、後ろに跳びかわしていた。
「貴様は張飛だなっ」
「見たら分ろう」
「なんで俺を殺そうとするか」
「世の中の害物を除くのだ」
「どうして、俺が世のなかの、害物か」
「義なく、節なく、離反常なく、そのくせ、生半可な武力のある奴。――ゆく末、国家のためにならぬから、殺してくれと、家兄玄徳のところへ、曹操から依頼がきている。それでなくても平常から汝はこの張飛から見ると、傲慢不遜で気にくわぬところだ。覚悟をしちまえ」
「ふざけるなっ。貴様ごときに俺が、この首を授けてたまるか」
「あきらめの悪いやつが」
「待てっ、張飛」
「待たん!」
戛然と、二度目の剣が、空間に鳴った。
斬り損ねたのである。
誰か、うしろから張飛の肱を抑えて、抱きとめた者があったからである。
「ええいッ、誰だっ。邪魔するな」
「これっ、鎮まらぬかっ。愚者めが」
「あっ。家兄か」
玄徳は、声を励まして、
「誰が、いつ、そちに向って、呂布どのを殺せといいつけたか。呂兄はこの玄徳にとっては、大切な客分である。わが家の客に対して、剣を用いるのは、玄徳に対して戟を向けるも同じであるぞ」と、叱りつけた。
「ちぇっ。こんな性根の悪い食客を、兄貴は一体、なんの弱味があってそうまで大事がるのか料簡がわからない」
「だまれ、無礼な」
「誰にですか」
「呂布どのに対して」
「なにをっ……ばかな」
張飛は横へ唾を吐いた。しかし玄徳に対しては、絶対に弟であり目下であるということを忘れない彼である。――じっと家兄に睨みつけられると、不平満々ながら、やがて沓音を鳴らして立去ってしまった。
「おゆるし下さい。……あの通りな駄々ッ児です。まるで子どものように単純な漢ですから」
張飛の乱暴を詫び入りながら、玄徳はもう一度、自分の室へ呂布を迎え直して、
「今、張飛が申したことばの中、曹操から貴君を刺せと密命があったということだけはほんとです。――が、私にはそんな意志がないし、また、要らざることを、貴君の耳へ入れてもと考えて、黙殺していたわけですが、お耳に入ったからには、明らかにしておきましょう」
と、曹操から来た密書を、呂布に見せて、疑いを解いた。
呂布も、彼の誠意に感じたと見えて、
「いやよく分った。察するところ、曹操は、あなたと自分との仲を裂こうと謀ったのでしょう」
「その通りです」
「呂布を信じて下さい。誓って呂布は、不義をしません」
呂布は却って感激して退がった。――その様子を、ひそかにうかがっていた曹操の使者は、
「失敗だ。これでは、二虎競食の計もなんの意味もない」
と、苦々しげに呟いていた。
張飛は、不平でたまらなかった。――呂布が帰るに際して、玄徳が自身、城門外まで送りに出た姿を見かけたので、なおさらのこと、
「ごていねいにも程がある」と、業腹が煮えてきたのであった。
「家兄。お人よしも、度が過ぎると、馬鹿の代名詞になりますぞ」
その戻るところをつかまえて、張飛は、さっき貰った叱言へ熨斗をつけて云い返した。
「ほう、張飛か。なにをいつまで怒っているのか」
「なにをッて、あまりといえば、歯がゆくて、馬鹿馬鹿しくて、腹を立てる張りあいもない」
「ならば、そちのいう通り、呂布を殺したらなんの益がある」
「後の患いを断つ」
「それは、目先の考えというものだ。――曹操の欲するところは、呂布と我とが血みどろの争いをするにある。両雄並び立たず――という陳腐な計りごとを仕掛けてきたのじゃ。それくらいなことがわからぬか」
側にいた関羽が、
「ああ。ご明察……」
と、手を打って賞めてしまったので、張飛はまたも云い返すことばに窮してしまった。
玄徳はまた、その翌る日、勅使の泊っている駅館へ答礼に出向いて、
「呂布についてのご内命は、事にわかには参りかねます。いずれ機を図って命を果たす日もありましょうが、今しばらくは」と、仔細は書面にしたためて、謝恩の表と共に、使者へ託した。
使者は、許都へ帰った。そしてありのまま復命した。
曹操は荀※「或」の「丿」に代えて「彡」をよんで、
「どうしたものだろう。さすがは劉玄徳、うまくかわして、そちの策には懸からぬが」
「では、第二段の計を巡らしてごらんなさい」
「どうするのか」
「袁術へ、使いを馳せて、こういわせます。――玄徳、近ごろ天子に奏請して、南陽を攻め取らんと願い出ていると」
「むム」
「また、一方、玄徳が方へも、再度の勅使を立て――袁術、朝廷に対して、違勅の科あり、早々、兵を向けて南陽を討つべしと、詔を以て、命じます。正直真っ法の玄徳、天子の命とあっては、違背することはできますまい」
「そして?」
「豹へ向って、虎をけしかけ、虎の穴を留守とさせます。――留守の餌をねらう狼が何者か、すぐお察しがつきましょう」
「呂布か! なるほど、あの漢には狼性がある」
「駆虎呑狼(くこどんろう)の計です」
「この計ははずれまい」
「十中八九までは大丈夫です。――なぜならば、玄徳の性質の弱点をついておりますからな」
「うム。……天子の御命をもってすれば、身うごきのつかない漢だ。さっそく運ぶがいい」
南陽へ、急使が飛んだ。
一方、それよりも急速に、二度目の勅使が、徐州城へ勅命をもたらした。玄徳は、城を出て迎え、詔を拝して、後に、諸臣に諮った。
「また、曹操の策略です。決してその手に乗ってはいけません」
糜竺は、諫めた。
玄徳は沈湎と考えこんでいたが、やがて面を上げると、
「いや、たとえ計りごとであっても、勅命とあっては、違背はならぬ。すぐ南陽へ進軍しよう」
弱点か、美点か。
果たして彼は、敵にも見抜かれていた通り、勅の一語に、身うごきがつかなかった。
(中略)
今、河南の地、南陽にあって、勢い日増しに盛大な袁術は、かつて、この地方に黄巾賊の大乱が蜂起した折の軍司令官、袁紹の弟にあたり、名門袁一族中では、最も豪放粗剛なので、閥族のうちでも恐れられていた。
「許都の曹操から急使が参りました」
「書面か」
「はっ」
「使者をねぎらってやれ」
「はっ」
「書面をこれへ」
袁術は、ひらいて見ていたが、
「近習の者」
「はい」
「即時、城中の紫水閣へ、諸将に集まれと伝えろ」
袁術は気色を変えていた。
城内の武臣文官は、
「何事やらん?」と、ばかりに、蒼惶として、閣に詰め合った。
袁術は、曹操からきた書面を、一名の近習に読み上げさせた。
劉玄徳、天子に奏し
年来の野望を遂げんと
南陽侵略の許しを朝に請う
君と予とは
また、年来の心友
何ぞ黙視し得ん
ひそかに、急を告ぐ
乞う
油断あるなかれ
「聴かれたか。一同」と、次に袁術は声を大にし、面に朱をそそいで罵った。
「玄徳とは何者だっ。つい数年前まで、履を編み蓆を売っていた匹夫ではないか。先頃、みだりに徐州を領して、ひそかに太守と名のり、諸侯と列を同じゅうするさえ奇怪至極と思うていたに、今また、身のほどもわきまえず、この南陽を攻めんと企ておるとか。――天下の見せしめに、すぐ兵を向けて踏みつぶしてしまえ」
令が下ると、
「行けや、徐州へ」と、十万余騎は、その日に南陽の地を立った。
大将は、紀霊将軍だった。
(中略)
「将軍、お起きなさい。――将軍将軍、天来の吉報ですぞ」
「誰だ。……眠い。そうゆり起すな」
「寝ている場合ではありません。蹶起すべき時です」
「なんだ……陳宮か」
「まあ、この書面をご一読なさい」
「どれ……」と、ようやく身を起して、曹豹の密書を見ると、いま徐州の城は張飛一人が守っているが、その張飛も今日はしたたかに酒に酔い、城兵もことごとく酔い乱れている。明日を待たず兵を催して、この授け物を受けに参られよ。曹豹、城内より門を開いて呼応仕らん――とある。
「天の与えとはこのことです。将軍、すぐお支度なさい」
陳宮がせきたてると、
「待て待て。いぶかしいな。張飛はこの呂布を目の敵にしている漢だ。俺に対して油断するわけはないが」
「何を迷うておられるのです。こんな機会を逸したら、二度と、風雲に乗ずる時はありません」
「大丈夫かな?」
「常のあなたにも似合わぬことだ。張飛の勇は恐るべきものだが、彼の持ち前の酒狂は、以て此方の乗ずべき間隙です。こんな機会をつかめぬ大将なら、私は涙をふるってあなたの側から去るでしょう」
呂布もついに意を決した。
赤兎馬は、久しぶりに、鎧甲大剣の主人を乗せて、月下の四十五里を、尾をひいて奔った。
呂布につづいて、呂布が手飼いの兵およそ、八、九百人、馬やら徒歩やら、押っとる得物も思い思いに我れおくれじと徐州城へ向って馳けた。
「開門! 開門っ」
呂布は、城門の下に立つと、大声でどなった。
「戦場の劉使君より火急の事あって、それがしへ使いを馳せ給う。その儀について、張将軍に計ることあり。ここを開けられよ」と、打ち叩いた。
城門の兵は、楼からのぞいたが、なにやら様子がおかしいので、
「一応、張大将に伺ってみた上でお開け申す、しばらくそれにてお控えあれ」
と、答えておいて、五、六人の兵が、奥へ告げに行ったが、張飛の姿が見あたらない。
その間に、城中の一部から、思いもよらぬ喊の声が起った。曹豹が、裏切りをはじめたのである。
城門は、内部から開かれた。
「――それっ」とばかり呂布の勢は、潮のごとく入って来た。
張飛は、あれからもだいぶ飲んだとみえて、城郭の西園へ行って酔いつぶれ、折ふし夕方から宵月もすばらしく冴えていたので、
――ああいい月だ!
と、一言、独り語を空へ吐いたまま前後不覚に眠っていたのであった。
だから幾ら望楼の上だの、彼の牀のある閣などを兵が探しまわっても、姿が見えないはずだった。
そのうちに、
「……やっ?」
喊の声に、眼がさめた。――剣の音、戟のひびきに、愕然と突っ立ち上がった。
「しまッた!」
猛然と、彼は、城内の方へ馳けだして行った。
が、時すでに遅し――
城内は、上を下への混乱に陥っている。足につまずく死骸を見れば、みな城中の兵だった。
「うぬ、呂布だなっ」
気がついて、駒にとび乗り、丈八の大矛をひッさげて広場へ出てみると、そこには曹豹に従う裏切者が呂布の軍勢と協力して、魔風の如く働いていた。
「目にもの見せん」と、張飛は、血しおをかぶって、薙ぎまわったが、いかんせん、まだ酒が醒めきっていない。大地の兵が、天空に見えたり、天空の月が、三ツにも四ツにも見えたりする。
いわんや、総軍のまとまりはつかない。城兵は支離滅裂となった。討たれる者より、討たれぬ前に手をあげて敵へ降服してしまう者のほうが多かった。
「逃げ給え」
「ともあれ一時ここを遁れて――」と、張飛を取り囲んだ味方の部将十八騎が、無理やりに彼を混乱の中から退かせ、東門の一ヵ所をぶち破って、城外へ逃げ走って来た。
「どこへ行くのだっ。――どこへ連れて行くのだ」
張飛は、喚いていた。
まだ酒の気が残っていて、夢でも見ているような心地がしているものとみえる。
すると、後ろから、
「やあ、卑怯だぞ張飛、返せ返せっ」と、百余騎ばかりを従えて、追いかけて来る将があった。
前の恨みをそそがんと、腕ききの兵ばかりを選りすぐって、追いつつみに来た曹豹であった。
「何を」
張飛は、引っ返すや否、その百余騎を枯葉のごとく蹴ちらして、逃げる曹豹を、真二つに斬りさげてしまった。
血は七尺も噴騰して月を黒い霧にかすめた。満身の汗となって、一斗の酒も発散してしまったであろう張飛は、ほっとわが姿を見まわして、
「ああ!」
急に泣きだしたいような顔をした。
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