吉川英治三国志より

武藤勇城

水魚の交わり

 一方。新野の内部には、孔明がそこに迎えられてきてから、ちょっと、おもしろくない空気が醸されていた。

「若輩の孔明を、譜代の臣の上席にすえ、それに師礼をとらるるのみか、主君には、彼と起居を共にし、寝ては牀を同じゅうして睦み、起きては卓を一つにして箸を取っておるなど、ご寵用も度が過ぎる」という一般の嫉視であった。

 関羽、張飛の二人も、心のうちで喜ばないふうが、顔にも見えていたし、或る時は、玄徳へ向って、無遠慮にその不平を鳴らしたこともある。

「いったいあの孔明に、どれほどな才があるのですか。家兄には少し人に惚れこみ過ぎる癖がありはしませんか」

「否、否」

 玄徳は、ふっくらと笑いをふくんで、

「わしが、孔明を得たことは、魚が水を得たようなものだ」と、いった。

 張飛は、不快きわまる如き顔をして、その後は、孔明のすがたを見かけると、

「水が来た。水が流れてゆく」

 などと嘲った。

 まことに、孔明は水の如くであった。城中にいても、いるのかいないのか分らない、常に物静かである。

 或る時、彼はふと、玄徳の結髪を見て、その静かな眉をひそめ、

「何ですか、それは」と、訊ねた。

 玄徳には一種の容態を飾る好みがあるらしい。よく珍しい物で帽を結い、珠をかざる癖があるので、それをとがめたらしいのである。

「これか。……これは犁牛の尾だよ。たいへん珍しい物だそうだ。襄陽のさる富豪から贈ってよこしたので、帽にして結わせてみた。おかしいかな」

「よくお似合いになります。――が、悲しいではありませんか」

「なぜ」

「婦女子の如く、容姿の好みを遊ばして、それがなんとなりますか。君には大志がないしるしです」

 孔明がやや色をなしてそう詰問ると、玄徳はいきなり犁牛の帽をなげうって、

「なんで、本心でこんな真似をしよう。一時の憂さを忘れるために過ぎぬ」と、彼も顔容を正した。

 孔明は、なおいった。

「君と劉表とを比べてみたらどうでしょう?」

「自分は劉表に及ばない」

「曹操と比べては」

「及ばぬことさらに遠い」

「すでに、わが君には、この二人にも及ばないのに、ここに抱えている兵力はわずか数千に過ぎますまい。もし曹操が、明日にでも攻めてきたら、何をもって防ぎますか」

「……それ故に、わしは常に憂いておる」

「憂いは単なる憂いにとどめていてはなにもなりません。実策を講じなければ」

「乞う、善策を示したまえ」

「明日から、かかりましょう」

 孔明はかねてから新野の戸籍簿を作って、百姓の壮丁を徴募しておいた。城兵数千のほかに、農兵隊の組織を計画していたのである。

 次の日から、彼はみずから教官となって、三千余人の農民兵を調練しはじめた。歩走、飛伏、一進一退、陣法の節を教え、克己の精神をたたき込み、刺撃、用剣の術まで、習わせた。

 ふた月も経つと、三千の農兵は、よく節を守り、孔明の手足のごとく動くようになった。

 かかる折に、果たして、夏侯惇を大将とする十万の兵が、新野討滅を名として、南下してくるとの沙汰が聞えてきたのである。

「十万の大兵とある。如何にして防ぐがよいか」

 玄徳は恐怖して、関羽、張飛のふたりへもらした。すると張飛は、

「たいへんな野火ですな。水を向けて消したらいいでしょう」

 と、こんな時とばかり、苦々しげに面当をいった。

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