第3話 初日 夕刻

 商店街が活気に満ちていた。

 砂利道の車道をツンと鼻をつく排気煙を撒き散らしながら、3輪トラックが往来している。野菜を荷台に満載していた。

 昔のアルバムを捲るように、温かな想いに満たされながら通りを歩いていた。夢だというのに、匂いまで甦ってきている。

 漆喰造りの構えの店は鰻屋で、蒲焼きの芳香が漂っている。お隣は餡まんという暖簾を掛け、蒸篭で饅頭を膨らせている。真向かいの魚屋さんは裸電球のもとで、威勢のいい掛け声をあげている。この通りの角をひょいと覗くと、造り酒屋と醤油の醸造所がある。甘い香りが鼻腔を楽しませてくれる。

 背後から小走りに走ってくる重圧を感じて、道を譲ったらそれは父の後ろ姿だった。急逝した父が今や白髪もなく、小太りの身体を弾ませて金物屋のなかに駆け込んでいった。そしてそこが私の生来の家だった。

 靴先がその家に向かったが、何とか耐えた。まだその機ではない。

 その金物屋のお隣は床屋だった。

 姉妹とも思えない容姿の、背がしゃんと伸びた、ふたりの老婆が営んでいた。その家屋は商店街のなかでも殊更古びたもので、黴臭く木戸のなかは土間が続いていた。その土間には未だに竈門が築かれており、鉄釜と薪で炊飯していた。

 幼い頃の私は、そのお米のお握りが大層お気に入りで、よく遊びに行ってはおねだりした。彼女たちは年老いても気品のある態度で、塩をふったお握りを手渡してくれた。しかし私の祖母は、この家に出入りすると決まって説教をしてきたものだ。

 だからこそそのおにぎりには禁断の風味が混じって、格別なものに感じたのかも知れなかった。


 夕食には居酒屋割烹に行った。

 ぴしりと糊の利いた板前姿の主人がいて、思わず声を掛けそうになった。そこで思い止まった。その主人の今の姿は、記憶よりもかなり若く、まだ板場を任されてはいない気配がした。包丁を振るっているのは、大柄で年嵩の板前で、顔つきが相似系で父親だろうと思った。彼はその大柄の板前、つまり大将の視線を常に追いながら愛想笑いをしていて、まだ代替わりしていないと踏んだ。

 私は自分の財布を盗み見て「親子丼を」と注文した。ポイントで両替した残金は大した額ではなかった。カウンターに5席、奥の座敷はどちらかも満席で、酔客のたがが外れた笑い声が渦を巻いていた。

「お客さん、東京の人?」と声を掛けながら、将来の主人が丼を差し出して、脇に茶碗蒸しと赤だしを給仕してくれた。

「いや、関西やけど」

「関西の人も垢抜けていて。そんなスーツは見たことないです」

「いやあ、地元はここですから。向こうに行けば皆こんなものです」

 丼の蓋を開けると懐かしい匂いがした。

 湯気の底に半熟卵に包まれた具が光っていた、その上に三つ葉と刻み海苔を散らしてあるのが、この店流でそれは父の代からなのだと思った。実家で残業の日に店屋物を取るときは、いつもこれを食べていた。

 夕刻にすれ違った父を思い出す。汗染みの付いたシャツを見るのも何十年ぶりだろうか。

「それはそうと、あの金物屋さんに昼間寄ったんだけど。あそこのお内儀さんにね。随分と良くしてくれたから、お土産を渡そうとしたら姿が見えなくて。何かご病気でしょうか?」と嘘をついた。

 彼は「へっ」と口にしていい澱んだ。それから小声で一気に言った。

「確かにうちの道具もあちらでご都合頂いたのですが。言い難いんですが、あの方はご実家に戻られたかと聞いております」

「ご実家ですか・・」

「お店に言付けてはいかがでしょうでしょうか」

「それが帯留めでね。そんな事情なら言付けするのも剣呑だな。気に入りそうなのを探したんだけど、誰かお内儀と仲の良いひとをご存じでしょうか」

 彼は背後の大将の目を気にして、「さあ」とかぶりを振った。

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