第50話 小太刀
その女の視線は覚束ない様子だった。
焦点の合わない眼が泳ぎながら、朝霧に沈む森を歩いていた。
手には野兎の耳を鷲掴みにしている。
ごくりと喉が鳴った。
暫くは腰袋に下げた
肉は暫く食べてはいない。しかも女の肉もある。そちらもご無沙汰だ。ここで
「娘、この山の者か」と誰何した。
女は興味なさげに首を振った。
その色香は娘のものではない。
「ここまで流れ流れて来ておろうず」
「ここは山犬もおろう。また夜盗の類もおるやもしれぬ。儂とてここまで身をやつしたが、元々は武家の習いを嗜たしなんでおる。どうだ、棲まいまで送ろうず」
女はふらりと体を入れ替えて、無防備な背を見せた。そのまま背後からしがみついて搔き抱く妄想に取り憑かれた。が。耐えた。
首筋に冷たいものを感じている。
危険を察して生き延びてこれた。
無防備に見えて、罠かも知れぬ。
遠くで矢が我背を狙っているや。
「娘、名はなんという。儂は与三郎と申す」
「・・・風花」と謳うように言った。
早朝に目が覚めた。
寝室はまだ冷えている。
タイマーをかけたファンヒーターは沈黙したままだ。
初春からの信州はキッチンに置いたオリーブオイルも凍ってしまうので、冷蔵庫に片付けておくのが習慣だ。
そんな朝でベッドの外に出るには決心が要る。
ふと
リビングを開いてデスクにつき、白鞘を抜く。
鍛えられた鋼鉄が室内灯でさえ、鈍色に光る。
耐えようもない激情が
憑かれているような焦躁が
その刃文に。その白刃に。そこに血が纏いつく。温かみのある血だ。その有り様をいつか見た覚えがある。
あれは夢であったのか。
訪うたのは、刀鍛冶をしている旧友だった。
その白鞘を持ち込んでいた。
手慣れた感じで鯉口を切って、しばし眺めて低く唸った。
「慶長新刀だと、所有者から聞いている。鑑定してみれくれるか?」
この寒さの中で、彼は紺の作務衣一枚で工房にいた。無理もない。作業中らしく奥では窯に火が入っていた。その前で刃を叩いているのだ。短髪で不精髭を蓄えて、作務衣からのぞく胸には汗が滴っている。そのまま戦国絵巻に描かれていそうな風貌をしていた。
「銘は確認したか?」
「井上国貞とある。井上真改の作と思うな」
「確かに似ている。だがなこの刃の入れ方な、互の目というより
「そうか、よく分からない」
「まあ微妙だけどな。銘を改めさせて貰うぞ」
さっさと迷いなく柄を外してライトに翳してみていたが、ふうと吐息をついて「これは国貞の仕事だな。それも親父の方だ」と言った。
「親父?」
「真改の父親だよ。真改は次男坊でな、父の名跡を継いで壮年期までは同じ名を号していた。おい、これは慶長新刀どころではないぞ。どこの博物館の収蔵品だよ。この一振りにきちんと拵えを施したら、それだけで個展が開けるぞ」
「それだけのものなのか」
「ああ、この刀な。まあ関ヶ原や大坂の陣で実際に使われたものかも知れない。それにしても分不相応な
その足で僕は樽沢の、持ち主の庵を訪れた。
そこはこの時期になると四駆でないと安心して登れない。
峠道は朝晩は固く凍結しているし、日中はシャーベット状になっている。この日もタイヤの空転を感じながら、道を登っていった。
林道の脇のスペースにジムニーを駐車して、雪道に降り立った。そこから灌木の林伝いに彼女の社を目指す。
小径の途中にはこんもりと雪の帽子を被った石仏が並んでいた。背の低い石仏は溺れそうになっていた。そこを新雪を踏みしめながら降ると、凍結している流れに巨大な氷柱のような丸木橋がかかっていた。
その小川は水面だけが結氷していて、その下は浅い流れになっているようだ。
そのたもとに彼女はいた。
純白の
「あら。遅い初詣ね。それでも歓迎するわ」
「あ。そうだ、明けましておめでとう。本年は旧年よりも手控えて欲しい」
「そうもいかないわ。車の音が遠くからしたので、慌てて着替えたのよ」と小首を傾けて笑う。
「そんな装束で寒くないのか」
裸足に草履を突っかけてきている。
「私の生来の性分をご存じでしょう。少なくとも正装でお出迎えしないとね」
僕がその丸木橋を渡り終えた時に、鳴神六花が足を滑らせた。僕はその身体を抱きとめたが、体重を感じない軽やかな肉体だと思った。
「ごめんなさい。明けからずっと呑んでいたのよ」
「呑んべの雪女か、重畳なものだ」
僕は彼女と並んで鳥居をくぐり、社の前に立った。
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