第39話 羽衣

 清冽せいれつな水は微かな硫黄の匂いがした。

 氷のような温度を覚悟していたが、お湯というには余りにも控えめの温度だった。冷泉というのが近いのかもしれない。

 後ろ手に拘束されたまま、壁付けの破損した水道管からその水が滝のように流れていて、それを頭から浴びていた。

 ミカは腕を交差させ思案顔で、行水しているわたしを見つめていた。

「あなた、中身が変わっているでしょ」と眼を直視しながら言った。

「わたしのことは初対面ではないわよね」


 そう。ブンであれば初対面のはずだ。

 ゆったりとした緩慢な羽ばたきでも、空中に縫い留められているようにミカは自在に舞い降りてきていた。チカとして尾行を見破られた時だ。

『あなたは刈り取ってあげるわね』と言った、その真意を知りたい。しかし彼女には、今のわたしがブンであると認識させていた方がいいのかもしれない。


「だって自分自身じゃない、なに今更・・・」

「いいえ。違うわね。あなたは鏡で、今日は本人の代わりに大学に行った。それで誰かに相談したのよね。それはさっき聞いたわ。そのこと覚えてる?」

「ゼミの先生よ。あなたも知ってるでしょ」と反駁はんばくすると、ふうんという目をした。安堵の表情が出ないように、心を砕いた。

「何を相談したの?」

「だから入れ替わってないわ」

「そう誤魔化すのが、気に入らないのよ」

「こないだね。あの連中に襲われたの。そのときにね、先生が助けてくれたのよ。あのひとりが大怪我しちゃって。復讐に来るのが怖くって、夕方になったら送って欲しいって言ったのよ」

 は、と吐息をついた。

「その人に今も、連絡手段があるわけではないでしょうね」

「定時連絡を入れるようにしたわ。何かあったらすぐに警察に通報してと」

「定時連絡を決めているの?」と矢継ぎ早にいうので「四時」と答えた。

「もう過ぎてる、電話をするの。LINEでもいいの」

「本人確認の肉声が必要。番号は・・多分、履歴にあるわ」

 ミカは着ているダウンジャケットのポケットからiPhone を取り出して、通話しようとしたが、指紋の薄い体質なので、特に冬場は指紋認証では開かない。パスコードを叩いている。ブンがここまで変えていることに賭けた。そしてその数字をわたしが知っているということも。

「ねえ、逃してくれるんじゃないの。あの時そう言ってくれたよね」

「開かないわ」

「パス変えたもの。知りたい?」

 伝えたパスコードが認証されて、ミカはappleIDを更新した。更新データから甘利先生の着信履歴を見つけて、いかにも無事な様子のわたしの声で通話をした。これで充分だと思ったが、これからは肉の饗宴が始まらないよう時間稼ぎをしないといけない。

「残念だけど逃げられるのは、このひと息つける時間だけよ。あなたが本当に逃げたら、わたしがあの連中のシモの面倒を見るのよ。願い下げよ、飢えてるんだから・・・」

「さっきからじろじろと見ているけど、身体を洗ってはくれないのね」

 そこはかつては浴場だったのだろう。隙間風も吹かず、ガラスも汚れてはいるけど、割れてはいない。日没後の薄明かりはまだ届いている。ただ黴臭さと時々尿の臭いが流れてくるのは不愉快だった。

「大陸からの連中さあ、勝手に高圧線から電線を引っ張ってきたり、源泉から水を引いてきたりとか、色々と盗むのは上手なのよ」

「ここは・・・瑞鳳ホテルよね」

「わかる?そうね。この時代の建物がわからないってはずはないわね」

 当初は大正年間に貴族院議員が、避暑のために建てた洋館だった。

 昭和初期にモダニズム建築の流れに乗り、鉄骨コンクリ構造の会員制ホテルとして開業した。最盛期は昭和30年台だったが、台風被害が相次ぎ放棄された。戦後になって所有権が複雑なために取り壊しもできず、今や廃墟マニアや心霊スポットみたいに扱われている。

「あなたも一緒に逃げない?」

「無理よ、わたしは主さまに真名で縛られているの。逆らったら消されるの」

「六花さんなら・・・どうにかしてくれるわ。以前も同期したことあるわ」

「大体、主さまのいうその鳴神六花って誰?」

 そう。ミカは5月連休あたりに枝分かれをした存在なので、甘利先生も鳴神六花も知り会う前のことだと気がついた。

「あなたに同期してくれるの、冗談! もう芽吹いてる。くぐつはいやよ」

「芽吹くって何よ」

 ミカは顎でその方向を示した。わたしは足元に陶磁器や釘などが落ちてないかを確認しながら、その姿見へ向かった。

「背中をよく見てごらんなさい」

 苦心して上半身をよじって、肘を曲げて、姿見に映る背中を見た。

 そこには赤黒い肉のほころびが見えた。肩甲骨の下に、ぱっくりと傷口が開いたような痘痕あばた。それに粘着質の液体がぬめぬめと溢れそうになってる。この痛みは、後手に拘束されていただけではなかった。

「あなたに触りたくないの、わかる? それをあの獣どもと交わりながら、感染を広めていくの。それが主さまが与えた役割よ」

 ひっと鏡から目を逸らしてしまったのは、その痘痕の奥襞からちろりちろりと長い舌のような器官が、そう威嚇する蛇のように踊っていたからだった。

「これは!」と叫んで仰け反った。

「面妖よ。それで今は足軽を集めているの」

 踏み込んだので、何かを踏んだようだ。足元に熱い痛みがある。踵を上げるとぷくりと血の玉が生まれ、別の生き物のように肌を伝ってゆく。

「呼び戻すのよ。この時代に武田のつわものどもを・・・」

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