最大の味方



 人間界旅行初日はとても楽しいまま夜を迎えた。部屋に備え付けられていたシャワーで体を洗い、浴槽にたっぷりと溜められたお湯でのんびり温まるリシェル。女は長風呂をする生き物。先に父に入ってと促すも「レディファーストだ、リシェル。俺は気にしなくていいからゆっくり浸かりなさい」と有難い言葉を頂き、遠慮なく入らせてもらっている。


 宿で一番高い部屋を借りただけはあり、浴室も広々としており、浴槽も大きい。リシェルが足を伸ばしても余裕がある。

 水面に浮かぶ薔薇の花弁を両手で掬い顔を近付けると芳醇な香りに顔をうっとりとさせた。


 食べ物エリアでは主に食べ歩きをした。



「食べ歩きなんて魔界にいた頃は出来なかったものね」



 常に次期魔王の妻になる者として相応しくあれと歩き方一つにも気を配っていた。魔界でも街で祭りが開催されると露店が開かれ、食べ物屋も多くある。

 リシェルがノアールとお祭りに行ったことは一度もない。一緒にお出掛けもない。会ったのは魔王城かベルンシュタイン邸のみだった。


 ビアンカとは城下町に降りデートをしていたと噂で聞いた。それほど、自分は嫌われていたんだ。



「……」



 人間界の扉を通る前にノアールが言い放ったあの台詞はどういう意味なのだろうか。何故彼はリゼルが魔王になりたがっていたと思うのだろうか。誰かに言われた? 有り得るとするとアメティスタ家の当主……ビアンカの父だ。何かにつけてリゼルに敵意を剥き出しにしていたが、実力差はリゼルが圧倒的に上で家柄もベルンシュタイン家が格上。唯一勝てていたのはビアンカがノアールの寵愛を得ていたくらい。


 膝を立てて顔を埋めた。

 嫌っていたのなら、理由くらい話してほしかった。

 知りたかった。

 直せるなら必死で直したのに。


 魔力の高さではビアンカが上だとしても、ノアールを好きな気持ちなら誰にも負けない自信がある。



「……はあ」



 もうノアールには、今まで貰った贈り物が届いているだろう。相当するお金もつけて返した。プライドの高い彼だ、きっと激昂しているだろうが先に裏切ったのは彼。

 呪いを掛けて、一生苦しんでしまえと憎む気持ちとノアールへの恋心を捨てられない自分がいる。



「きっといつかは風化する。……私にはパパがいるもの」



 どんな時だってリシェルの味方でいてくれるリゼルの存在は計り知れない。

 幼くして母を失い、毎日母を求めて泣いたリシェルを抱き上げ慰めてくれたのはリゼルだけだった。あの頃はまだノアールと婚約していなかった。

 一番辛いのは、最愛の妻を亡くしたリゼルだったろうに。自分の悲しみを表に出さず、娘の心のケアを優先した。


 自分もリゼルの役に立ちたい。

 ビアンカという恋人をノアールが作った時に相談しなかったのは、要らぬ心配でリゼルに迷惑を掛けたくなかったから。言わなくても全てリゼルの耳に入っていたのは驚きだが。



「よし」



 顔を上げたリシェルは浴槽から立ち上がり浴室を出た。籠に入れてある真っ白なタオルで体を拭いていく。いつもは使用人や侍女がしてくれるが今はいない。彼女達がしてくれていたみたいにタオルを体に滑らせていく。次に保湿クリームを……の時に気付いた。背中を塗ってくれる人がいない。父に頼める筈がない。

 数秒固まったリシェルは我に返り、指先にたっぷりとクリームを掬い背中へ回して塗った。完璧にといかなくても塗れただろう。

 後は首、胸元、お腹、足全体に塗り。次に顔の保湿。旅行鞄に入れた化粧水と美容液、乳液、保湿クリームでケアを完了。

 最後、髪にオイルを塗った。髪の乾燥はリゼルがする。小さい頃はよく魔法で乾かしてもらった。大人になった今は全くなかったから、久しぶりで懐かしい。


 一人でも着れる寝間着を持って来て良かった。素早く袖を通し、リゼルが寛いでいる部屋へ戻った。



「ん?」



 中から話し声が聞こえる。いるのはリゼルだけ。扉を少し開けて中を覗いた。魔界の通信蝶から出ている糸を専用のグラスに接着することで遠い相手との会話が可能となる魔道具。



「いい加減にしつこい。……ん? は……。好きにしろ。俺の知ったことか」

『で、でもリゼルくん、このままだと』

「お前が望み、王子も望んだ。それ以上何を望む?」

『違うんだっ、僕は……』

「もう切るぞ」



 リゼルに通信蝶を寄越す相手となると魔王と予想したら、当たった。切羽詰まった魔王の声色と終始冷静で冷徹な父。

 無慈悲な鬼畜補佐官と毎日罵声を浴びせてくるリゼルに情けない姿を晒す魔王のやり取りは、魔王城では日常となっていた。

 リゼルの娘だからか、ノアールの婚約者だからか、魔王エルネストはとても親切に接してくれた。高位魔族特有の傲慢じみた高圧的態度もなく、ぽやぽやした笑いを浮かべている優しい人。冷たい雰囲気のノアールと真逆のエルネストが親子なのが驚きだ。正妃はノアールが幼い頃に他界している。



「おいで。リシェル」

「!」



 見つからないよう気配を殺していたのにリゼルにはお見通しだった。観念して部屋に入った。



「怒ってない?」

「何故? 盗み聞きをしたから?」

「うん」

「聞かれて困る話でもなかったからな。さあ、おいで。髪を乾かそう」



 最後の会話しか聞けなかったから具体的な内容は知らない。リゼルの脚の間に座り、風の魔法で髪を乾かしていく。頭を撫でる指先の力が絶妙で気持ちがいい。


 どんな話をしていたかを訊ねた。



「早く戻って来てくれだと。魔王になってあいつはどれくらい経つと思っているんだか」

「あはは……」



 苦笑しか出なかった。




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