撫子の君

瑞樹(小原瑞樹)

第1話

 薄闇を金風が吹き抜ける中、とある料亭を1人の男が訪れた。


 ずんぐりとした身体を皺の寄ったスーツで包んだその男は、店の前で立ち止まると、鋭い眼光を看板の方に向けた。店名に間違いがないことを確認すると、店の高級さに臆することなく敷居を跨ぎ、敷石の上をずんずんと歩いていく。年齢は30歳くらいに見えるが、その堂々たる挙動は大物の風格を漂わせ、彼がただの若造ではないことを窺わせた。


 やがて入口に辿り着いたところで男はのれんを潜り、木造の引き戸を開けた。すぐに和服に身を包んだ女の店員が現れ、きっちりと腰を折って男を出迎える。


「……18時から予約していた蒲田がまただ」男が低い声で言った。


「蒲田様ですね」女の店員が復唱した。「お連れ様はすでにお見えになっています。お履物を脱いでお上がりくださいませ」


 蒲田と呼ばれた男は頷くと、履いていた革靴を脱いで靴箱に入れた。女の店員に案内され、奥の座席へと向かう。蒲田が他の店員とすれ違うたびに彼らは立ち止まり、一歩下がってお辞儀をする。高級な店だけあって、従業員の教育が行き届いているようだ。


 やがて蒲田は目的とする個室に辿り着いた。女の店員が廊下に膝を突き、障子を三度叩いてから静かに開ける。広々とした室内には畳が敷かれ、奥には小さな床の間が設えられている。部屋の中央には光沢のある茶色い机が置かれ、その両脇に、鶯色の座布団が敷かれた椅子が2つ並んでいる。


 その1つに、蒲田のよく知った男が腰掛けているのが見えた。長身痩躯の上に黒い紋付を込み、灰色の袴を合わせた姿が和室とよく調和している。姿勢を正し、椅子の背に身体を預けずに座する姿は謹厳な修行僧のようだ。黒々とした頭髪はきっちりとオールバックにされ、眉根を寄せたしかつめらしい顔は渋柿を思わせる。


「本日はコースで窺っております。お飲み物の注文を承ってもよろしいでしょうか?」女の店員が尋ねた。


「では、生を1つ」蒲田が椅子に座りながら答え、和服の男の方を振り返った。「総十郎そうじゅうろう、お前は……」


「私は日本酒を頂こう」総十郎と呼ばれた男が言った。「何か時期のものはあるかな?」


「この時期でしたら、紅楓べにかえでという銘柄がお勧めでございます」女の店員が答えた。「紅葉をイメージして醸成したもので、秋の夜長にぴったりの銘柄となっております」


「ではそれを頂こう」


「かしこまりました。料理も順番にお持ちしますので、しばしお寛ぎくださいませ」


 女の店員は平伏すると、静かに障子を閉めた。蒲田と和服の男だけが室内に残される。


「……遅かったな、次郎」


 総十郎が呟いた。蒲田よりもさらに低いバリトンの声だ。


「捜査中の事件に進展があってな。急遽対応する必要があった。これでも早く終わった方だ」


 蒲田が総十郎の向かいに腰掛けながら答えた。腕時計に視線を落とすと時刻は18時半。普段ならまだ署にいる時間だ。


「花形部署と呼ばれるだけあって、なかなか多忙のようだな」総十郎が言った。「今年の春からだったか? お前が捜査一課に異動になったのは」


「あぁ。今年になってようやく希望が通った」蒲田が頷いた。「一課での仕事は、入庁した当初からの悲願だったからな。7年間待った甲斐があった」


「お前が相手では、犯罪者の方が震え上げるかもしれんな」


 総十郎がふっと息を漏らした。そこへ先ほどの店員が戻ってきて、ビールと日本酒、それにお通しを2人の前に置いていく。


「だが、私はお前に敬服する」店員が立ち去ってから、総十郎が口を開いた。「凶悪な犯罪者と渡り合うなど、誰にでも務まる仕事ではない。少なくとも、花を愛でることしか知らぬ私には、奸智かんちに長けた犯罪者を御することなど到底できまい」


「お前にはお前で大事な仕事があるだろう」蒲田が反論した。「先日の地方紙で見たが、お前の作品がコンクールで入選したそうじゃないか。この分だと、家元の看板を背負う日も近いんじゃないか?」


「それは買い被りというものだ」総十郎がかぶりを振った。「毎年若い才能が入門する中、自らの力量に自惚れていてはたちまち足元を掬われる。何年この世界に身を置いていようと、日々精進が必要なことに変わりはない」


「そうか。ならば、互いの精進を誓って乾杯でもするか」


 蒲田はそう言ってジョッキを掲げた。総十郎も杯を持ち上げ、黙したままかちりと杯を合わせる。この変わった雰囲気を漂わせる男達の、会食の始まりであった。

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