第二章

第13話

 一体どうしてこうなってしまったのだろう。最初はただの海外旅行になるはずだったのに。


 思えばこの国フランスに着いたときから、それはすでに始まっていたのかもしれない。


 事件後、来場客たちは警察が到着するまでホテル側が用意した部屋で待機することになっていたのだが、そのほとんどは翌日の予定が狂うだとか、仕事に支障が出るだとか、名声や信用に傷がつくだのと何かと難癖を付け始めたため、来場者名簿との確認だけ済ましてすぐさま帰ってしまった。


 また、警察の方も、来場していたという証拠さえあれば後で事情を聴きに行くこともできるし、なによりお上に顔の利く金持ち連中から文句でも言われたら面倒だと、彼らの行動を黙認していたのである。


 一方の結羽たちはと言えば、被害者に近い立場であることや、ソフィアの身の安全なども考慮し、ホテルの一室で警察を待つことにしていた。


 見た目には休憩室や応接間といった部屋だが、隣には寝室も併設されており、元々要人や商談相手など、一般宿泊客以外のゲストを案内するための場所のようだ。部屋の中央に置かれたガラスのテーブルを囲むように革張りのソファが配され、彼らはそこに腰かけて押し黙ったまま、皆一様に浮かない顔をしている。


この重たい空気に圧され、結羽は今にも嘔吐してしまいそうになった。鳩尾の辺りをぎゅっと手で押さえ、こみ上げる嗚咽を押し戻すように、ごくりと唾を飲み込む。


 このまま永遠にも続くのではないかと錯覚してしまいそうな、とてつもなく長い沈黙。それを唐突に破ったのは、部屋のドアから響くノックの音だった。


 アンリが返事をすると、開いたドアから真面目そうなホテルの係員が顔を覗かせた。


「失礼いたします。皆様お揃いですね。ただいま警察の方がお見えになりました」


 係員が告げると、数人の部下を引き連れた警察官が部屋の中へと入り一礼した。


「どうも、みなさん。パリ警視庁のドミニク・ジラルダン警視です。以後、お見知り置きを」


 ドミニクと名乗った警視は、ソフィアなど外国人が多くいることに配慮してか、流暢な英語で挨拶をした。ジルベールのようにフランス人は英語を話したがらない印象が強かったが、実際はそうでもないのかも知れない。


 ともあれ、彼はシックな黒のスーツを着込み、それなりの威厳を醸し出しているのだが、その柔らかい声色と小柄な体躯に加えて、実に少年のような顔立ちをしており、警視という役職に一瞬耳を疑ってしまうほどのギャップがあった。


「やあ、ドミニクじゃないか!」


 彼を見て真っ先に声を掛けたのはアンリだった。


「おお、アンリ! それにジルも! 君たちも来てたのか」


 どうやら彼はアンリとジルベールの古くからの友人のようだが、二人と見比べてみると彼の少年っぽさがさらに際立った。下手をすれば十代にも見えてしまうかもしれない。


「まあ、積もる話もあるが、近況報告はあとでにしよう。今はとにかく時間が惜しい。なんせ俺はこれから君たちに事情聴取しなきゃならないからな」


 そう言ってドミニクはさっそく本題に入ろうとした。話によれば、被害者に特に近しい人物への聞き取りは捜査責任者である彼が自らが行うらしい。


 ドミニクは被害者ジェームズ・マクラーレンの姪であるソフィアへと向き直り一礼した。


「貴女がソフィアさんですね。この度は大変お気の毒でした」


「ええ……ありがとうございます……」


 その声は実にしっかりしたものだが、やはりショックは大きかったのだろう。彼女の表情からは精神的な疲労の色が窺える。なんにしても、事情を聴くのはもう少し後にした方がいいだろうとドミニクは判断し、


「ああ、ちょっと失礼。一度、本部に連絡をしなければ」


 部下たちにエントランスで待機するよう命じ、彼は一度部屋を退室することにした。


「いやしかし――実に美しいなテュ エ ラヴィソント。このようなケースは最近じゃ滅多にお目にかかれない。ざっと八十六点と言ったところか」


 部屋を出る直前「ラヴィソント」と、ドミニクは言った。前後の言葉の意味はさすがに分らないし、聞き取れたのもその部分だけだったが、きっとこのホテルを褒めたのだろうと結羽は思った。だが、彼を呆れたように半眼で見ていたジルベールが、溜め息混じりに漏らす。


「……ヤツの〝病気〟は、会う度に悪化の一途を辿っているようだな」


「変人のキミをもドン引きさせるほどの変態だからね」


「お前が言うなお前が」


 二人が話している内容はたぶんドミニクのことだろう。結羽は不思議そうに尋ねた。


「あの……ドミニクさんって……」


「ああ、高校の同級生なんだけどね。大丈夫大丈夫。生きているものには人畜無害だから」


 アンリの口から返ってきたのは突拍子もない答えだった。結羽は目を丸くして問い返す。


「ど、どういうことですか?」


 すると、それを見かねたようにジルベールが、結羽の肩にぽんと手を置いて答えた。

「世の中にはな、知らない方が良いことが沢山あるんだぞ」


 その時、結羽は気付いてはいなかった。ドミニクが《美しい》と表したのは、このホテルに対してなどではなく、ジェームズの死であったことに。


 あの若き警視は、謂うなれば〝『死』タナト愛好家フィリア〟である。いわゆる死体愛好家ネクロフィリアのように遺体そのものを嗜好対象とするのではなく、人の生前の行動や経験――つまり、人生そのものを懸けて最終的に完成させた〝死に様〟に、ある種の芸術性・神秘性を見出しており、彼はそれを心から愛しているのだ。


「『死』というものに対して甚大なる崇敬の念を持ち、ひとりの人間が歩んだ人生の終末を、神聖な物語として尊ぶ。それは生あってこその死。だからこそ、彼は『生』を蔑ろにする輩は絶対に許さないんだ」


 アンリは、ドミニクを代弁するかのように補足した。事情を知らない結羽には、それはひどく抽象的な表現に思えたが、言葉通りの、正義感のようなものは感じていた。


「ええと……だから、刑事さんを?」


 結羽の問いに誰が答えるという間もなく、ちょうどそこへ通話を終えたらしいドミニクが携帯電話をポケットにねじ込みながら戻ってきた。彼は溜息混じりに肩を竦める。


「やれやれ。これは簡単な事件ヤマじゃなさそうだ」


「どうしてそう思うんだい?」


「刑事の勘ってやつさね。……一度言ってみたかったんだ、こういう台詞」


 アンリが問うと、彼はおどけてみせた。


「ホテル側の入場者チェックや警備体制には、問題点はまったくなかった。部外者はおろか、ねずみ一匹通さないとはまさにこのことだよ。なんて名前だったか、あの高飛車お嬢様シャルロットの執事という男は非常に優秀なんだろうな。彼がすべて取り仕切っていたそうだ」


 きっと、先ほどシャルロットと挨拶を交わしたときに彼女の後ろにいた、あの目つきの鋭い男のことだろう。そういえば、ジェームズが狙撃された時に的確な指示を飛ばしていたのも彼だ。アンリはその顔を思い浮かべた。


「ま、逆を言えば、犯人は来場客の中に居るってことは明らかなのだが、はっきり言って、容疑者を洗い出すのは容易じゃない。あの中でジェームズ氏に関わりを持っている人物は、ホテルの従業員や君の連れを除けば、ほぼ全員だ。あの手の実業家は仕事柄、誰に恨まれていてもおかしくないからな。あの場に居た全員が容疑者だと言っても過言じゃないだろう」


 ドミニクはふぅっと息を吐いて、大げさにかぶりを振った。


「来場客は君たちを含め、ざっと二百名。加えて、ホテルの従業員や記者連中プレスも大勢いる。事情聴取だけでも相当な労力だ。骨が折れるよ、まったくさ」


 そう言いつつも、どこか楽しんでいる様子さえ窺える。彼に言わせれば、それは一種の職業病のようなものらしい。つまり、難儀な仕事であればあるほど〝燃える〟というのだ。


「――あの、みなさんよろしいですか?」


 すると、そこへ憔悴しきっていたソフィアが彼らへと声を掛けた。


「もう大丈夫なのかい?」


 アンリが問うとソフィアは真剣な眼差しで頷き、


「アンリさん……貴方に、見て頂きたい物があるのです」


 そう言って、彼女はアンリの店に訪ねてきたときに提げていた、あの黒い鞄をテーブルの上に置いた。ホテルに入場する際にフロントに預けていたものだった。

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