ショコラの魔術師~巴里魔法洋菓子店~
島嶋徹虎
序章
序章
都心部から離れたパリ市郊外の、とある閑静な通り沿いに黒塗りの大型トラックが横付けされたのは、深夜二時を回った頃だった。
街路灯や建物の灯りもまばらで、辺りは静寂に包まれている。トラックのシグナルだけが暗夜を
そうして完全に闇の中に溶け込んだトラックのコンテナ内部には、ヘルメットに
その中にあってただひとり、ヘルメットや目出し帽を被らず、顔を晒している男の姿があった。白髪の混じる短い金髪に、不精髭を生やした大柄な体躯のその男は、トラックが完全に静止するのを待ってから、仲間たちに切り出した。
「これより我々はA・B・Cの三班、それぞれ各四名に分かれて行動する。A班は目標を追跡し、路地に追い込む。B班は西側から先回りして行く手を塞ぎ、A班と共にこれを確保する。残りの三名は私と一緒に来い。C班として、A・B両班のバックアップに当たる。いいな?」
続いて男は、懐から二枚の写真を取り出し、兵士たちへ掲げて見せた。
「我々が追う目標は二名。このうち〝
男が仲間たちを見回すと、一人の兵士が挙手して男に
「そうは言っても相手は所詮、非武装の民間人です。これほどの戦力が必要でしょうか?」
「そうですよ、エヴァンズ大佐。費用に見合うとは思えませんがね」
彼の尤もたる質問に、別の兵士も同意の声を上げる。しかし、エヴァンズ大佐と呼ばれた男は、それを静かに一蹴した。
「……その油断が命取りだ」
エヴァンズは兵士たち一人一人の眼を見据えながら語りかける。
「獅子は兎を狩るにも全力を注ぐ。それは、どんな相手でもはじめから強敵であると想定していれば、常に万全の状態であろうと努力するからだ。わかるな? 我々は
エヴァンズの声に応じるようにしてコンテナの扉が開く。まさに獲物を追う猛々しい猟犬の如く、兵士たちは次々に暗闇の中へと飛び出して行った。
◇◆◇◆◇◆◇
宵闇に支配された人気のない路地を、ソフィア・マクラーレンは背の高い黒髪の青年に手を引かれながら、必死に駆けていた。
〝花の都パリ〟とはよく言ったものだが、そんなイメージも、かのシャンゼリゼ通りを始めとする一部の繁華街だけにすぎない。
光がある場所には必ず影が差すのだ。それはどんな大都市であっても同様だろう。汚物と排気ガスに塗れ、薄汚れた、都市部の掃き溜め。華やかな都市が隠れ持つ、光の当たらない裏の顔。〝
今こうして、自分の手を引いて走る青年の後姿を見つめながら、なんともドラマチックなものだとソフィアは自嘲する。
祖国であるイギリスを出て早三日。そんな
自分たちを追っている者が誰なのかは分からない。だが、追われている理由は分かっている。
こうして自分が置かれている状況を過酷な運命と呪うこともあるが、だからと嘆き悲しむことはしない。たとえどのような運命であろうとも、生きるという選択肢を選んだのには、果たさねばならない使命があるからだと、ソフィアはその胸に固く刻み込んでいた。
「ソフィア、大丈夫ですか?」
先ほどから神妙な顔で黙り込んでいたソフィアを心配したのか、青年が声をかける。
「はい。まだ走れます」
ソフィアがハッキリとした声色で返すと、青年は無言のまま頷いて再び前を向いた。
青年の名はクライド・カニンガム。元は英陸軍に属し、五年ほど前にはイラクに従軍経験もあるそうだが、彼の経歴に関してソフィアはほとんど何も聞かされていなかった。
しかし、それでも彼が信頼するに足る人物であることには疑いがなかった。というより、そうせざるを得なかったというほうが正しい。
ソフィアが敬愛する叔父からの信頼が厚い人物であったことや、その叔父自らが彼を自分の護衛として指名してくれたことも理由ではあったが、そもそもソフィアには、他に頼れる者がいなかった。
たとえ素性の知れない怪しい男であろうと、信じるしか道がなかったのだ。
「いたぞ! あそこだ!」
唐突に、後方から男の声が響く。ソフィアは思わず振り返ろうとした。
それを察していたのか、クライドの気丈な声にすぐさま制される。
「振り返ってはいけません。走ってください、ソフィア!」
我に返ったソフィアは、足を速めた。余計なことを考えているうちに、心に不安が生じてしまっていたのだ。そこへ激を入れてくれた青年に、ソフィアは頼もしさを感じていた。
「次の曲がり角で振り切ります。貴女は先に進んでていてください。すぐに追いつきます」
振り切ると言ってもこちらは丸腰。いくら彼が豊富な実戦経験を持っていると言えど、常識的に太刀打ちできるとは到底考えられない。だが、彼の眼には力があった。それすらもやってのけてしまえるような、確かな自信。不思議と、彼に身を任せようと思えてしまう。
ソフィアは彼の眼を見つめながら何も言わずに頷くと、そのまま前を見据え走った。
◇◆◇◆◇◆◇
二人を追い、曲がり角へと差し掛かった兵士たちは四人。皆揃って小銃を手にし、ヘルメットの上から暗視ゴーグルを装着している。〝青年〟と〝少女〟の姿が角へ消えると、彼らは互いに目配せし合った。待ち伏せられるのを警戒していたのだ。
兵士たちは指で合図しながらタイミングを合わせて角を曲がり、小銃を構える。そこに青年の姿があることを想定し、すぐさま射撃できる態勢を取った。
だが――突如、兵士の一人が短い悲鳴を発しながら、崩れるように転倒した。他の三人はすぐに振り返るが、そこには足を折られてもがき苦しむ仲間の姿があるだけだった。
別の兵士が、前方を走り去る青年の後ろ姿を見て声を上げた。
「あっちだ! 追うぞ!」
いつの間にと疑問符を浮かべている暇は無い。倒れた兵士と、彼の救護、そして他チームへの連絡のため一人を残し、あとの二人がすぐさま青年を追った。
前方を走る青年へと向けて、兵士たちは銃弾をばらまく。だが、文字通りばらまくだけで命中には程遠い。
十数メートルという至近距離とは言え、全速力で走って逃げる相手を追いかけながら狙いを定めて銃撃するというのは、射撃に長けた熟練の兵士でも至難の業である。
ただでさえ暗く狭い路地。暗視ゴーグルのお陰である程度の視界は確保できていても、その道中には障害物や身を隠す場所は無数にあるし、逃げ道も豊富だ。目標に狙いをつけるために立ち止まれば、それだけで見失ってしまう危険性がある。だから兵士たちはとにかく追いかけるしかなかった。
しかし、青年は突如として身を翻し、進路を反転させた。青年の予想外の行動に不意を突かれた兵士たちは躊躇し、狙いを付けるのが遅れてしまった。
彼らより一瞬早く、クライドは道端の資材コンテナを踏み台に、跳躍した。一気に間合いを詰めて兵士の懐に潜り込むと、カエル跳びの要領で掌底を突き上げ、顎を砕く。そしてすぐさま、もう一方の兵士を後ろ手に絞め上げ、その首を圧し折った。
クライドは、声を発する間もなく事切れた兵士の身体をゆっくりと横たわらせ、遺体のポケットから手榴弾らしきものを取り出すと、再び走り出した。
「……追手は、殺したのですか?」
まるで何事もなかったように平然と合流した青年に対し、ソフィアは不安そうに問う。
「彼らも必死だということです。その覚悟もなく徒(いたずら)に武器を取るのは愚者のする事です」
彼は淡々と、冷たく言い放った。この有無を言わさない説得力は、やはり幾多の死線を潜り抜けた者だからこそ為し得るものなのだろうか。
「さあ、行きましょう」
青年に促され、ソフィアは再び前を向いた。だが。
「――撃てッ‼」
突然の号令と共に、静かな路地に再びの銃声と火花が弾けた。
先回りしていた別のチームが彼らに狙いを定めていたのである。
「ソフィア!」
クライドは咄嗟にソフィアを庇うように抱きよせ、物陰に身を隠した。そして、先ほど斃した兵士から〝拝借〟していた
しかし、そうして一呼吸置いた直後、クライドの足に激痛が走った。
「クライド⁉」
見ると、青年の脚からは多量の血が流れていた。先の奇襲によって被弾したのだ。
これではロクに歩くこともままならないだろう。ならば、と彼は冷徹に判断した。
「仕方がない。ここは俺が食い止めます。貴女はジェームズ様の元へお急ぎなさい」
「そんな! 貴方はどうなるんです!?」
「ふたり一度に敵の手に落ちるよりはマシです」
「しかし!」
その声を遮るように、クライドはソフィアの目を見据えながら、静かに告げた。
「目的地はもうすぐそこです。自分の務めは十分に果たしたでしょう」
まっすぐにこちらを見つめる彼の目に、並々ならぬ決意を感じる。この青年の覚悟を無駄にはできない。ソフィアは断腸の思いで頷く。
「クライド……わかりました。どうか、御無事で」
「ええ、貴女も」
先ほどまでの冷徹な表情からは想像もつかないほどの、優しげな笑顔を浮かべ、クライドはソフィアをビルの隙間から密かに逃がした。その姿を満足そうに見送ったあと、彼はビルの壁に背を預け、ずるりと滑るように腰を下ろした。
やがて煙が晴れ、兵士たちが手負いの青年を取り囲んだ。そこへちょうどエヴァンズのチームが合流しようとしていたのだが、指揮官の到着を前に抜け駆けを図った数人の兵士が、まるで舌舐めずりするかのように、ゆっくりと青年に近づいていく。
「――待て! 早まるな!」
少女の姿が見えないのを不審に思ったエヴァンズが、すぐさま部下たちを制止させようとするが、彼らは既に青年の領域に踏み込んでしまっていた。
「もう手遅れだ――」
青年が言うが早いか、エヴァンズたちの眼前が一瞬のうちに眩い閃光に包まれた。
音はなく、周囲への衝撃波や粉塵も一切ない。辺りは夜の静寂に満たされたままである。
明らかに手榴弾などによる爆発ではない。不自然で理不尽な現象が、そこには起きていた。
青年が座っていた場所を中心に半径五メートルほどの空間に存在していたモノだけが、まるで巨大なアイスクリームディッシャーで抉り取られたかのように消失してしまっていたのだ。
彼が
その有様を目の当たりにした兵士たちは、仲間の無残に変わり果てた姿に思わず絶句する。
エヴァンズはその光景を目に焼きつけながら、苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てた。
「くそッ……オカルティストめ……ッ」
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