10.ハイソックス
穏やかな昼下がり、大きなガラス戸のから差し込む陽光はまばゆい。ガラス戸の向こうに見える庭の緑も、新緑のそれから濃くなり、いよいよ夏らしくなるのだと、季節の気配を示していた。
差し込む光が直接あたらない位置にテーブルが用意され、緑の深まる庭を楽しめるよう爽やかな香りの茶葉で紅茶が
「ルードったら、ずいぶん思い切ったのね」
「本当だよ。僕がいかなかったら、ルードの可愛さが引き出せず、宝の持ち腐れになるとこだった」
「ジュリーも面白かったみたいね」
「……まぁ、背中で遊べるデザインする機会なかったし」
朗らかに微笑まれ、ジュリアンはバツが悪そうに少し視線を逸らした。亜麻色の髪は今日も毛先を縦に巻いており、その仕草すら可憐に映る。
社交シーズンぶりにあった友人、ガートルードは髪を少年のように短くし、ドレスを着るのをやめていた。だからこそ、背中が見えるし、パンツスタイルだからこそ脚のラインが重要となる。ドレスとは違う点を活かすデザインが必要となり、お抱えの仕立て屋マダム・パトリスとともに創作意欲に駆られたのは確かだ。デザインが決まるまで、議論はずいぶん白熱した。
そういったところを、友人を基準にした話で見透かされ、ジュリアンはいささか気恥ずかしかった。自分をよく知る彼女には敵わない。
「あ。今度はイヴォンもおいでって、旦那が」
「え? 侯爵は女性嫌いでいらしたのに、いいのかしら?」
ガートルードではなく、アシュリーからの誘いと聞いて、招待された令嬢イヴォンは目を丸くする。
「ルードの友人なら歓迎するってさ」
「あら、仲良くなれたみたいでよかったわ」
ガートルードのもう一人の友人、イヴォンは伝言を受け取り、嬉しそうに微笑んだ。
ジュリアンが帰るとき、アシュリーの方から提案されたのだ。次はイヴォンも一緒に、と。彼女の話題は、ジュリアンとガートルードが話すときによく出ていたから名前を覚えたらしい。プラムペタル領は国境に面していて遠方になるので、令嬢一人が簡単に訪ねられるものではない。だが、ジュリアンの業務交渉に同伴すれば、一介の令嬢イヴォンでも小旅行気分で行くことが可能だ。
ガートルードの現在の風貌からして、社交シーズンになって再会できる可能性は低い。友人と手紙以外で言葉を交わしづらくなると、覚悟のうえで、ガートルードはアシュリーのもとへ嫁いだのだ。彼はそんな彼女の状況に、ジュリアンとの会話で気付いたらしい。
彼の提案に、ガートルードの方が驚いていた。彼女は好奇心旺盛なので、瞳を輝かせることはあっても、あまり驚くことがない。雷がいい例だ。そんな彼女があんなに驚くとは。別れ際にいいものを見れた。
「おかしかったよ、ルードってば目まんまるにしてた」
「じゃあ、侯爵はまだルードにちゃんと伝えていないのね」
イヴォンの指摘に、ジュリアンも肯定する。
「うん。あれは自覚してるかも怪しい」
「ふふっ、侯爵は思ったより可愛らしい方みたいね」
遠目には怖かったけれど、まだ覚束ない一面があると知り、イヴォンは会いに行っても大丈夫な気がした。歳も身分も上の男性に失礼かもしれないが、だからこそ恋愛関係に不得手な点が可愛いものに映る。友人のガートルードが好いた相手なのだから、悪い人物ではないと解ってはいたが、ジュリアンの話を聞いて親しみが湧いた。
友人を憎からず想ってくれているようなら、きっと親しくなれることだろう。
「僕の方が、ずっと可愛いと思うけど」
ふとそんな拗ねた呟きがイヴォンの耳に届く、声の方を見遣ると、口を小さくへの字にしたジュリアンがいた。本人の申告通り、拗ねた様子すらとても愛らしい。
「ええ。こんなに可愛い人、ジュリー以外に見たことないわ」
可愛くて堪らないといった様子を惜しみなくイヴォンが伝えると、ジュリアンの表情も満足げなものへ変わった。その様子すら可愛らしく、イヴォンの笑みは消えずにいた。
シーズンオフの時期だというのに、わざわざ王都に戻って自分に報告するジュリアンの思いやりが嬉しい。イヴォンは、ガートルードと同じく子爵令嬢だ。王都近郊に町一つ分ほどしかない小さな領地があるだけで、シーズンオフの避暑も招待でもなければ遠出することもできない。
一方、ジュリアンは避暑にも適した立地に領地がある伯爵令息だ。プラムペタル領からギンコーブランチ領へ向かうとなると、王都を通過するルートは遠回りである。ガートルードの様子を早く伝えたかったから、と彼は自身の欲求を押し通したようにいうが、親しくなった相手への情が深いゆえの行動だ。
中身も含めて可愛らしい友人に、イヴォンの笑みは深くなるばかりである。
「ジュリー、よかったわね」
「何が?」
ガートルードの状況を伝え、安堵したはずの友人からなぜか自身のことをあげられ、ジュリアンは首を傾げる。こてりと首を傾げる様も愛らしいと、イヴォンは小さく笑った。
「だって、ジュリーらしく話せた
ジュリアンが常にドレスを纏うため、社交界では
アシュリーは、彼の主張に耳を貸し、そういった外見の人種なのだと見なした。あとになって、初対面から骨格で違和感を感じたとまでいわれたのだ。ジュリアンが男性であることを疑わず、真っ向から目をみて話すアシュリー。その反応が珍しいものであると、本人は気付いていなかった。
「今度会うとき、名前で呼んだら?」
「……別に、旦那は旦那で充分だし」
名前で呼び合えばさらに親しくなれるとイヴォンが提案すると、ジュリアンはぶっきらぼうに返した。素直に頷かない様子からすると、慣れておらずどう反応したらいいのか戸惑っているようだった。
チークよりもわずかに増した赤みで、照れているのだと判り、イヴォンは目を細めて友人を愛でる。こんな少年らしい一面もあると知れて、彼女の心は弾む。
「なら、私が名前を呼ぶ許可をもらう方が先になるかもしれないわね」
イヴォンがそうおどけてみせると、ジュリアンの視線が彼女に向いた。思案げなジュリアンがまっすぐに見つめてくるものだから、イヴォンは視線をはずすことができなかった。
「僕にやきもち妬かせたいの?」
「そうね? ジュリーが焦ったら、とは思ったわ」
先に親しくなった相手が、あとから知り合った者とより親しい友好関係をもったら、泰然としたところのあるジュリアンでも焦るか、惜しく感じるのではと思ったのは確かだ。彼に初めて同性の友人ができそうなので、イヴォンは背中を押すつもりで発言した。なので、ジュリアンの問いに頷く。
「そうなったら、妬いてあげるよ」
ジュリアンは満面の笑みを浮かべる。その極上の可憐な笑顔に、イヴォンはなぜか悪寒を感じた。
「そろそろ、友達でいるのやめようと思っていたから、ちょうどいいし」
テーブルから席を立つジュリアンは、イヴォンにとって不穏なことを口にした。
なぜ友情が
嫌われるほど彼に嫌なことをしてしまったのであれば謝ろうと、イヴォンが決意したときには、ジュリアンが目の前まできていた。
彼女が謝罪のため口を開くより先に、彼は
「旦那に会ったら、君の最愛として紹介してくれる? 僕の可愛い人」
彼の言葉を何度か頭のなかで
「な、え、いつから……??」
「ルードに紹介されたときからかな」
「そんな最初から!?」
初対面からだなんて聞いていない、とイヴォンが抗議すると、言っていないもん、とジュリアンは悪びれずに答えた。
イヴォンにとっては衝撃の事実だ。彼女は可もなく不可もなく、本当にどこにでもいる平凡な令嬢だ。器量が悪い訳ではないが、ガートルードのような綺麗な銀髪もしていないし、ジュリアンのように周囲の目を引くほど可憐でもない。好かれる要因に心当たりがなさすぎて、イヴォンは困惑を極めた。
「大丈夫。これから、ゆっくり教えてあげるから」
自分の想いが信じられれないのなら、いくらでも解るように説明するとジュリアンは微笑むが、イヴォンはむしろその笑みに安心ができなかった。反射的に結構です、と断りが口からでそうになって、彼女はぐっと堪える。断りを口にすると藪蛇になりそうな気がした。
「もしかしたら、僕も背が伸びるかもしれない。けど、ずっと君の好きな可愛い僕でいるから、安心して惚れるといいよ」
その笑みは、いたずらに成功した少年のようだった。とても愛らしいが可愛くない。愛らしさで和むどころか、心臓がやけに騒がしい。
もう惚れてしまっている場合はどうしたらいいのだろうと、イヴォンは途方に暮れた。
ガートルードと再会したときに、自分はどんな顔をすればいいのか。
楽しみだったはずの友人との再会に、イヴォンは不安を覚えたのだった。
ジュリアンがプラムペタル領を去ってから、幾日かが経過した。
アシュリーは宣言通り、ガートルードに護身術の指導をするようになった。第一部隊の隊長キムが指定したのと同様、週に二回。ジュリアンが訪問中より減りはしたが、アシュリーに確実に会える時間が日常的に増えてガートルードは嬉しかった。
国一番の剣の使い手と謳われるだけあって、アシュリーは武術のこととなると真剣に指導した。ガートルードが真面目に取り組むものだから、思わず熱が入ったのもある。指導にあたってみて、キムが彼女を熱心に指導しようとした理由を実感した。
ただひとつ困るのは……
「っと、悪い」
「いえ?」
初歩の型が実戦でどう活きるのかを説明したアシュリーは、文字通り手取り足取りの状態で教えていた。その際、思ったより顔が近くなっていたことに気付いて、アシュリーは身体を放す。
何を謝罪されているのか解らないガートルードは、小首を傾げる。その瞳がまっすぐにアシュリーを見上げた。
時折、指導の集中が切れて彼女との距離感に戸惑うことが増えた。どう接するのが正解なのか解らない。
女性に稽古をつけたことがないからだと思いたかったが、戸惑うのは稽古のときに限った話ではなかった。
自分を見上げる瞳に怯んだり、はにかんだ笑みに目を奪われては我に返り焦る。好意を向けられると、前以上に動揺するようになった。ガートルードはいつも通りなので、おかしいのは自分の方だと、アシュリーも解っていた。
そもそも、あいつが余計なことを言わなければ……!!
護身術の指導後、冷静になるためにも執務室に戻り、領地管理業務にあたっていたアシュリーは、机にのった拳を強く握りこむ。容姿だけは可憐な食えない男を思い出し、期待したほど冷静さは取り戻せていなかった。
最近領民から受けた相談の内容を、陳述書として記しながらも、彼の思考は業務外のことが大半を占めていた。年月含め陳述書をまとめておくと、今後類似の案件が発生したときに参考となる。何代か前の領主が手記として行っていたことを参考に、アシュリーは陳述書と対応書類を分けて残すようにしていた。もちろん関連付けはしているが、時間が経てば他に新しい手段を講じることができる場合もあるし、他の事案に対策が流用できる可能性もある。分けておいた方が後々活用しやすいのだ。
ペンを走らせつつも苦悶の表情を浮かべる主人を見て、書類の追加や整理に執務室を出入りするカルヴィンは、生真面目な性格のなせる業だと感心した。
そんな執事からの視線に気付けないほどに、アシュリーは葛藤していた。ジュリアンの思惑通り、彼のした指摘により、アシュリーは否応なしにガートルードと男女の関係であることを意識させられていた。ガートルードの服が女性らしく仕立て直されたこともそれに輪をかけている。
夫婦となる書類にガートルードがサインしたあと、アシュリーはすぐに教会に申請せず、一度彼女の親へ確認の手紙を送った。彼女が邸にいる報告も含め婚姻に関して意向確認をしたのだが、彼女の父親ベックリー子爵から数日後に届いた返事は、娘をよろしく頼むといった旨のものだった。娘の想う相手ならば妻とともに祝福する、と。
全面的な賛成が返り、彼女がこちらにくる際に書き残したという手紙には、一体何が書いてあったのかが気になった。
アシュリー側も両親、特に母親が婚姻を推奨していた状況のため、使用人たちも彼女を歓迎こそすれ反対などしようがない。
とどめが、嫁いできたガートルード本人だ。彼女は心を偽らず、自分に好意を伝えてくる。その眼差しや反応を、今や愛らしいと感じてしまっている自分がいる。
誰も止める者がいない。それが、アシュリーにとって問題だった。
夏の暑さも本格的になってきて、川へ涼みにいくのにちょうどよい頃合いになった。ガートルードにつれてゆくと約束したような状況で、そろそろアシュリーから声をかけねばならない。しかし、彼は彼女を誘えずにいた。
約束した場所は、虫や動物を除けば二人きりになる。ガートルードが川遊びをする際、腿まであるハイソックスを脱ぐので、護衛の配置も距離をとらせる予定だ。仮にも令嬢である彼女の素足がなるべく他人の目に触れないように、との配慮である。
単なる配慮だと自身をいい聞かせるも、抑止力がない状態で二人になるのはまずい気がしてならない。
アシュリーは自分が理性を保てばいいだけと解っている。しかし、彼女の言動で平静でいられないことが、これまで何度もあった。だから、調子を狂わされない自信がなかった。
ガートルードが川遊びを楽しみにしていると知っているので、誘わない選択肢はない。それゆえに、アシュリーは頭を悩ませるのだった。
思考が堂々巡りしては、一旦思案を放棄し業務に専念する。そして、またふと、楽しみにするガートルードの顔が浮かんでは悩む。
そうしてずるずると躊躇っているうちに、また幾日かが過ぎてしまっていた。
「アシュリー様、何か悩んでいらっしゃるんですか?」
夕食後のお茶のとき、悩んでいる原因が問うた。気遣いげなガートルードの眼差しを見返すことができず、彼はそっと視線を逸らす。
「どうもしない」
「けど、最近、ここがとても険しいですよ」
そういって、ガートルードは自身の眉間に人差し指をあてた。指摘され、アシュリーの眉間にしわが寄る。
「ほら」
本人にお前のせいだと答える訳にもいかず、アシュリーの表情はいえない分だけさらに険しくなった。
彼があまり笑わないとガートルードは知っている。しかし、最近は普段より険しいことが多い。せめて普段の状態まで戻ったらと思う。彼の様子について、料理長や侍女のターラなどにも訊いてみたが、のらりくらりと
「私で駄目なら、誰か話せる相手に相談しましょう?」
心配であることを伝えるため、ガートルードは席を立ち、アシュリーが逸らした視線の先で屈んだ。その
見上げてくる瞳に、アシュリーは根負けした。
「……大したことじゃ、ない」
そう、大したことではないのだ。彼女を川へ誘うだけで。ただ自分が一人で勝手にいろいろ気にしすぎているだけのこと。
「他の人にとって大したことがなくても、その人にとっては大したこともあります」
悩みは得てしてそういうものだと、ガートルードは目元を和らげる。どんな悩みだったとしても、彼女は馬鹿にして
「川、に……」
アシュリーは吐露しようと試みたが、それ以上は続かなかった。
躊躇する様子に、自分にいいづらいことだとガートルードは察する。川と聞くと、先日川へ涼みにいく約束を彼としたことを思い出す。もしかすると、それに関わることなのか。
約束とはいっても、話の流れでした口約束だ。忘れられて流れても仕方ないほど、他愛のないものだった。だというのに、彼はそのことを覚えて気にしてくれていたらしい。
覚えていてくれたことは、ガートルードにはありがたいが、彼はそのせいで悩んでいる様子だ。自分にいいづらくなる悩みが何か思案し、彼女はひとつの可能性に絞った。
「あの……、お忙しいなら一人で川へいきますので、場所だけ教えていただけますか?」
あえて表現をぼかして、ガートルードは苦笑した。彼が自分と一緒にいくことが嫌なのではないかと思い至った。自分としては彼と二人だったら嬉しいが、そもそも二人でいくことになったのは川の場所をガートルードが知らないからというだけだ。川にいきたがっているのは自分で、彼は特にいきたい訳ではない。それなら、きっと仕事を優先したいことだろう。
解っていたことだが、やはり楽しみにしていたのは自分だけだったとガートルードは残念に思う。浮かべた笑みには如実にそれが表れていた。
食事の時間以外にも、護身術の稽古の時間が増えただけでもよしとしよう。彼が自分のために時間を割いてくれたことは本当に喜ばしいのだから。
逃げ道を用意されたアシュリーは戸惑う。頭の片隅で、こんな顔をさせたかった訳じゃないと思った。
アシュリーがいい淀んでいる間に、ガートルードは立ち上がる。
「教えていただくのは、今度でもかまいませんので」
回答を急かしたことを申し訳なさそうに、ガートルードが席に戻ろうと踵を返す。その手首を、アシュリーは思わず掴んでいた。
振り返ったガートルードは不思議そうに彼を見つめる。
「……道が、舗装されていないから、一人では危ない」
ガートルードを直視できないまま、アシュリーは彼女の案を却下した。
「お前が暑さにやられても、困る」
だから、と次の言葉を後押しするための理由をアシュリーは重ねてゆく。
「暑さが辛いときは言え。つれていく」
少しばかり判りづらい誘いだったが、日取りはガートルードを優先するということだ。ぼそりといわれた誘いに、彼女は笑顔を咲かせた。
「はいっ」
事前に予定を決めずとも、自分が会いたいときにアシュリーに会える許可をもらえ、彼女はとても喜んだ。
ぎこちなくも自分から誘うことに成功し、アシュリーは内心安堵する。こんなに一苦労するとは思わなかった。けれど、喜ぶ彼女を見ていると悪い気もしない。
本当に彼女といると調子が狂う。そう零された溜め息には、わずかばかりの笑みが含まれていた。
朝から陽射しが強い日、ガートルードは走り込みのあと、腿まであるハイソックスを穿き、ショートパンツの下からでているガータベルトでそれを留めた。
朝食の際、その姿を認めたアシュリーがびくりと一瞬硬直した。今日は暑いですね、とガートルードがいうと、彼はそうだな、とだけいって頷く。少し間をおいて、陽射しが一番強くなる昼下がりでいいかと時間を確認され、ガートルードはもちろん首肯した。
アマースト邸の背面に位置する山はそれなりに標高が高く、続く山脈と比べると少し低いかというぐらいだ。アシュリーの知る川は、邸のある
人が通れるよう道幅分は草木が伐採されているが、それはあくまで通った人間が必要に応じて切り取った分だけであり、獣道よりいささかマシかという道だ。先をゆくアシュリーの背中を、ガートルードは追う。
彼は軽装だが、帯剣していた。どうしてか彼女が問うと、伸びた枝などが通り道にあった場合に切り落とすためだという。可能性の低い危険に対してより、そちらの目的の方が大きいらしい。そんな用途で騎士用の剣を使っていいものかとガートルードが首を傾げると、アシュリーは使わないよりマシだと返した。
地面は木の根が
「わっ」
「ルード!」
気を付けてはいたが、木の根で足を滑らせ、ガートルードは後方に転倒しそうになる。しかし、すぐに振り返ったアシュリーに腕を掴まれ、事なきを得た。
「気をつけろ」
「は……はい」
驚いた心臓が不整脈を打ち、ガートルードは半ば呆然としながら返事をした。彼女の様子から返事だけでは安心ができなかった彼は、彼女の手首を掴んだまま歩みを再開する。
引かれるまま素直に足を運びながら、ガートルードは自身の手首を見下ろす。握る手は熱い。平熱がアシュリーの方が高いのだろう。筋肉量が明らかに違うので、それも納得のことだった。
「あの……」
「また
ぶっきらぼうだが、心配してくれていると判る声音だった。だから、ガートルードはそれ以上問うことはしなかった。
先ほどまた名前を呼ばれた。今、手を繋いでいる。そのひとつひとつを意識して、落ち着いたはずの心臓がとくんとくんと弾んでゆく。握られた手から移った熱で、掴まれた部分がじんわりと熱いが、自分の頬とどちらの方が熱いだろうとガートルードは思った。
二人が言葉少なに歩くうち、視界の拓けた場所にでる。途端に、清涼な風がふわりと届いた。
「わぁ……っ」
ガートルードの口から、感嘆が零れた。
水がせせらぐ音がその場を満たし、流れる水面がきらきらと陽光を反射する。聞いていた通り、川幅は狭く向こう岸がすぐ見える。底が透けて見えるほど浅いので、しばらく歩けば簡単に渡れることだろう。
座れるほど大きな岩がいくらか集まるところに、這った木の根が手伝って段差を作っていた。滝とも呼べないその段差の下段が一番深いようだった。それでも、ガートルードの膝を超えるかどうかの深さだが。
「本当に涼むのに最適ですね」
川辺に近付いたガートルードが、喜んで振り返ると、彼女の銀糸の髪が陽光に反射したこともあってまばゆく感じ、アシュリーはわずかに眼を
「さっそく、涼んでいいですか?」
わくわくと期待を込めた眼差しで乞われて、駄目だといえる訳がなかった。アシュリーは、ああ、いうだけの頷きを返す。
アシュリーの許可をもらい、ガートルードは大きめの石に片足をのせ、ガーターベルトをハイソックスから
それから、大きな石の一つに座り、ショートブーツを揃えて脇に置いた。ガートルードが、するすると片足ずつハイソックスを脱いでゆくと、普段は晒されない彼女の素足が露わになった。
座っていた石のうえに、干すようにハイソックスを置くと、彼女は水際まで慎重に足を運ぶ。近付くと、小魚が泳いでいるのが判った。魚たちを極力驚かせないよう、そっとつま先を川の水に差しいれる。思った以上に水が冷たく感じ、ガートルードはひゃっ、と小さく声をあげた。
そこで、やっとアシュリーははっとする。
「水の中は滑るから、気をつけろ」
「わかりました」
注意を促すと、彼女は素直に頷いた。
一連を眺めてしまってから、眼を逸らすべきだったとアシュリーは気付く。我に返ると、心臓が穏やかではなくなる。口元を片手で覆うと、頬に触れる指先が熱さを感じた。他にみるものがなかったせいだと無理やり結論付けて、彼は今さら視線を逸らした。背後のことなので、ガートルードはそれに気付かない。
水の冷たさが気持ちいいや、魚がいたなど、楽しんでるからこそ零れる感想はせせらぎとともにアシュリーの耳にも届く。彼に報告するでもない途切れ途切れのつぶやきでは、彼女が楽しそうであることは判っても、どういう状況なのかまでは判らなかった。しばらくして、足元が滑りやすい水辺こそみていなければならないと気付き、アシュリーは視線を彼女へと戻した。
視線を戻すと、ガートルードは膝下五センチほどまで水に浸かる深さの場所で、歩いていた。ただそれだけの光景がきらきらと輝く。水面の反射した光が、彼女の髪や瞳をきらめかせ、脚などの肌をまばゆく見せていた。
アシュリーが言葉をなくしていると、ふいに彼女の瞳がこちらに向いた。
「アシュリー様も涼んではどうですか? 気持ちいいですよ」
屈託なく笑うガートルード。
「大丈夫だ……っ」
「けど、少し顔が赤いようですが?」
暑さのせいではないとはいえず、アシュリーは渋々靴と靴下を脱ぎ、ズボンの裾をまくって足首だけ川の水に浸けた。そのまま、近くの岩に腰掛ける。
「ね。涼しいでしょう」
「そうだな」
足首を浸けるだけでも、川の水の冷たさは判った。ガートルードに同意を示しながら、川の水が少しでも熱を冷ます助けになればいい、とアシュリーは思った。
無邪気にはしゃぐ彼女をみて、わずかに罪悪感と不満がもたげる。自分を信頼して彼女は安心して楽しんでいるのだろう。だというのに、ふとした瞬間に視線が肌の色に吸い寄せられることがあり、申し訳なくなった。また、彼女は一向に警戒心をもたないのでこちらばかりが心労を食らう。信用されすぎていることを問題に感じるし、なんだか
一度気にしてしまうと、自分ばかりが動揺させられていることが情けなくあり、苛立たしくもある。
「……本当に俺が好きなのか?」
「え」
目を丸くするガートルードの反応で、アシュリーは疑問を口にのせてしまったことに気付く。
いってから口をつぐんだところで意味がないと解っているが、アシュリーはつい黙り込んでしまう。日頃から好意を伝えてくる相手に対して失礼な発言だと解ってはいる。疑うようなことをいって謝るべきだろうが、疑問であることは否定できなかった。基本的に、女性に遠ざけられるのを歓迎するような態度の自分だ。彼女に好かれる要因があるとは思えない。
彼女のデビュタントのとき、彼女の望む言葉をいったのが自分でなかったら。そんな仮定がよぎる。
彼女は感覚はともかく、ごく普通の令嬢だ。見合いのときはロクに顔も見ていなかったが、そのときから一般的に可愛い容姿をもった少女だった。邸に訪ねてきてからも、彼女の美醜に大きな変化はない。なのに、アシュリーは近頃、彼女の愛らしさに動揺してしまうようになった。それは、服装が変わったからではない。
こんな自分でも愛らしく感じる少女なのだ。彼女が求めれば愛を返す男など他にもっといることだろう。
ガートルードを信じられないのではなく、アシュリーは自身を信じられなかった。彼女に想いを向けられるには不相応だ、と。それなのに、縁を切るつもりが毛頭ない自分は
彼女が傍にいるのが当たり前になっていた。手放す考えが浮かばないほどに。
気が付くと、ガートルードが目の前に立っていた。真上に近い太陽で陰る彼女の表情は、少し歪んでいた。怒ったような、悔しそうな表情に、そういえば彼女の怒った顔をみたことがないな、とアシュリーは思う。
ガートルードは、アシュリーの手を掴むと、その掌を自身の心臓の上に当てた。シャツ越しに柔らかな感触が掌に伝わり、アシュリーの頭は真っ白になる。
「っこ、これぐらい好きです……!」
とくとくと脈打つ鼓動は速い。その脈動は言葉よりも雄弁だった。
「何、して……!??」
「私、胸ないから分かりやすいかと」
「いや、そ……っ」
それでも感触はあるのだといいかけて、アシュリーは口をつぐむ。すでに精一杯な彼女の羞恥を煽るのは憚られたし、口にしては自分も余計に掌のなかのものを意識してしまいそうだ。
「アシュリー様から触れられたときは、もっとどきどきしています……」
文房具を買いにいく前に、そのままでいいと頭を撫でられたときも、峠を越えた翌朝、顔色を確認するために頬に触れられたときも、心臓が飛び跳ねた。ガートルードは、今も頬が熱いことを自覚している。それを想い人に晒すのは恥ずかしいが、眼を逸らしたら伝わるものも伝わらないと、まっすぐにアシュリーを見つめる。
彼はどうにかこの状況から解放されたかった。それはもう今すぐにでも。鼓動から、感触から、眼差しから、色んなものが伝わってきてアシュリーには堪ったものではない。
「こうなるのはアシュリー様だけです」
「っわかった!」
わかったから、とアシュリーが観念すると、ガートルードは手に込めていた力を抜いた。アシュリーは彼女の胸元から手を離すことはできたが、その手は彼女に掴まれたままだ。力強く握られている訳でもない。けれど、彼女の両手を振り払う気にはならなかった。
「……私は、アシュリー様しか好きになったことがないので、本当は、どうしたらいいか分からないんです」
令嬢同士のお茶会で恋愛の話題はよくのぼる。けれど、ガートルードには色仕掛けできるような豊かな胸もないし、アシュリーは媚びられることを嫌う。着飾ったりなどの見聞きした手段は、彼に使えないものばかりだった。自分を偽らないで彼の前に立つしかできない。心を偽らず伝えることが、彼女のとれる唯一の手段だった。
「伝えるしか、できなくて……」
家族よりも、友人よりも、彼の傍にいることを選んだ。彼でないと駄目な理由の証明は、これまでの言葉と態度で信じてもらうしかない。
「それすら、信じてもらえないのは、どうすればいいんですか」
ガートルードは、触れたら壊れそうな笑みを浮かべた。
「すまない」
すんなりと謝罪の言葉がでる。アシュリーは、壊れ物を触れるように、そっと彼女へ手を伸ばした。頬に手を当てると、わずかに緊張するものの拒絶はしなかった。くっと何かを堪えるようにして、アシュリーを見返してくる。まるで視線を逸らしてはいけないかのように。
「お前を疑ってはいない。さっきのは八つ当たりみたいなものだ」
だからすまない、とアシュリーは謝罪をくりかえした。想いが明確になっている彼女と違い、自分は想いを探る段階で彼女にうまく伝えてやれない。それがもどかしく感じた。
拙く、充分に伝えられない。
口惜しげに眉間に力を込めるアシュリーを、ガートルードは不思議そうに目を丸くした。
自分のために、言葉を探って悩む彼は、とても真摯で誠実だ。自分の想いに向き合おうとしてくれていることが判り、ガートルードは胸がいっぱいになる。
頬を薔薇色に染める彼女を目の当たりにして、頬に触れる手に力がこもった。ガートルードの
視界が互いの瞳しか入らなくなり、吐息が
バサバサ、と羽音がし、アシュリーたちは思わずそちらへ向いた。見上げると、木々から数羽の鳥が夏空へ羽ばたいていくところだった。
静寂がおりる。川のせせらぎが明瞭に聴こえるほどになってから、ぎこちなくアシュリーの手がガートルードの頬から離れた。互いに視線を合わせず、俯く。
しばらくそうしていたが、アシュリーは俯いたまま立ち上がり、ぽつりと呟いた。
「帰るか」
「……はい」
ガートルードは頷いて、身支度を整える。用意していたタオルで水気を
帰り支度が整うと、視線が会わないままながら手を差し出される。足場の悪さを気遣ってのものだと解っていながらも、ガートルードは胸を高鳴らせ、彼の手を掴んだ。
山道を歩きながら、足を滑らせぬよう繋がれた手を見つめる。広い背中で、見上げても彼の表情は判らない。確かに繋がれた手が、ガートルードには希望のように思えた。
とくりとくりと鼓動する心音で、風で葉擦れる音や鳥のさえずりなどが霞んでしまう。なのに、呟く彼の声は確かに耳が拾うのだから不思議だ。
「……また、涼みに来よう」
「はい」
またがあることに、ガートルードは密かに喜ぶ。ほんのわずかでもいい。彼が、自分と一緒にいたいと思ってくれたら、嬉しい。
帰るまで、アシュリーの顔を窺い知ることはできなかったが、邸のドアにたどり着くまで手は繋がれたままだった。
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