03.オムレツ



翌日、ガートルードは一人で厨房に訪れていた。


「どうでしたかな?」


年老いた料理長は好好爺とした笑みで、迎え入れた少女に訊ねると、彼女は口惜しそうに答えた。


「味が、しませんでした……」


「塩もふってませんでしたからなぁ」


当然だと料理長は可笑しげに目を細めた。

料理長の言葉に、ガートルードは自身の洞察力と記憶力の足りなさを恥じた。昨日の夕食にあったオムレツは、彼女自身が作ったものだ。事前に料理長が作るのを見せてもらったはずなのに、見た通りに作ることができなかったのだ。


「焼く時間は同じぐらいだったはずなのに、ちょっと苦かったです」


「火力が強すぎですな。あと油をひき忘れていました」


「……早くて全部を覚えられませんでした」


「ワシは慣れておりますから」


熟練ゆえと言われても、簡単そうに見えた料理を思いきり失敗したガートルードは釈然としない。卵を混ぜて焼くだけだというのに、大変悔しい。料理の基礎だから、とオムレツから練習するように言われたが、子供のような失敗をするとは思っていなかった。未経験の分野とはこうも不馴れさが顕著に表れるものなのか。

昨日、必要な場所案内を受けたあと、ガートルードはカルヴィンにもう一つ案内してほしい場所があると言った。それが厨房だった。

挨拶だけか、食事のメニューに要望があるのかとカルヴィンは思い、快く了承する。しかし、その想定は半分合い、半分外れた。

厨房を訪ねたガートルードは、食事を残したくないからと自身の食べられる量を伝えた。そして、最低限でいいから料理ができるようになりたい、と料理長に教授を願った。驚くカルヴィンを他所よそに、料理長がそれを了承し現在に至る。

食材を無駄にしないように、という点において、ガートルードと料理長の意見が一致し、昼食と夕食の準備の際に一食分、自身の分だけのオムレツを作ることとなった。味見も自分でだ。

料理はガートルードがしてみたいことの一つだった。これまでは周囲が令嬢としての在り方を求め、怪我をする可能性のあることはできずにいた。

ガートルードは物心つく頃には、自分が周囲と違う感覚を持っていると気付いていた。

最初は木登りだった。従兄弟いとこが木登りをしていたので、自分もしたいと言ったところ、ドレスが汚れるからと止められた。そのとき、ガートルードはならばドレスを着なければいいではないか、と思った。

しかし、自分を含め三人も子供がいるベックリー子爵家はそう裕福ではなく、着る服を自由に選べなかった。姉のお下がりか、自分用に新しく買ったとしても合わなくなったあとに妹にあげられるよう妹の好みに寄せた。ガートルードにはドレスしか選択肢がなかった。

嫌ではなかったが、嬉しくもなかった。着飾ることに興味がなかった彼女にとって、ドレスは令嬢という枠に填まるための制服だ。それに目を輝かせ、悩む姉や妹に共感することがついぞなかった。

他にも令嬢として課せられるもののほとんどがガートルードには興味がないものだった。彼女は、怪我をしたとしても自身で行動して得る経験に興味があった。男になりたいのではなく、女であるだけで行動が制限されることにずっと納得がいかなかったのだ。

アシュリーの見合い相手の候補に自分もあがったのは、彼女にとって僥倖ぎょうこうだった。見合いをして、同じ感覚を持つ相手と確証を得て、どんなに心がおどったことだろう。


「失敗を経験したことですし、奥様に合わせて教えましょう。あとは一人でもできるようになるまで、くりかえし練習ですぞ」


「はいっ、今度は綺麗に卵を割ります!」


ぐっとこぶしを握って気合いをみせるガートルードに、料理長は喉を鳴らす。


「最後の試験は、坊っちゃんに食べてもらいますからな」


料理長の言葉に、ガートルードは拳をほどき、胸元で指先同士を合わせて揉みはじめる。


「……上手になったら、アシュリー様は食べてくれるでしょうか?」


おずおずと躊躇ためらいがちにガートルードは呟いた。まだ先のこととはいえ、素人の自分が作った料理を食べてもらえるか、少なからず不安だった。

先ほどとは、うってかわって自信のない様子のガートルードは、ずいぶんとしおらしい。はっきりと受け答えする彼女しか知らないアシュリーやカルヴィンが見たら、さぞ驚くことだろう。

少女の愛らしい悩みに、料理長は微笑み、ぽんと背中を優しく叩いた。


「このワシが教えるんですから、大丈夫です」


「はい……っ」


頑張ります、とガートルードは表情を綻ばせた。

アマースト邸にきてからの料理が美味しかったことは自分の舌が知っている。その料理を作った本人に保証してもらえ、ガートルードはとても頼もしく感じた。

昼食時のオムレツは、一コ目は失敗したが、二コ目の卵は綺麗に割れた。からを取り除き損ねたようで、少しばかりじゃりっとしたが、昨日と違いちゃんと味がした。



食後の運動がてら、ガートルードは邸周辺を散歩することにした。

邸が視界に入る範囲に限定して、迷わないよう幅広の道を優先して歩く。田園が広がり、空が広い。

田園の向こうに川が見えた。アシュリーに許可をもらえそうなら、川にも行ってみたい。これから暑くなるから、素足を浸せばきっと涼しいことだろう。

やってみたいことが増え、ガートルードはわくわくする。アシュリーは呆れはするかもしれないが、きっと令嬢らしくしろという理由で彼女の行動を制限することはない。それを解っているから、ガートルードは彼の元にきたのだ。

ふと前方の交差する道を大勢の人が横切ってゆく。男性ばかりの彼らはほとんどが息を切らしながら小走りしている。走る彼らの中で、唯一意気揚々としているのは先頭の男ぐらいのものだ。

目の前を左から右へ過ぎてゆく彼らに興味を持ったガートルードは、自分も駆け、彼らの列の後方についていった。


「こんにちは。しんどそうですね」


「ほんと、だよ。飯食ってすぐとか、吐きそう……」


前方を見たまま、声をかけた青年が走り込みの愚痴を吐露する。どうやら昼食後から走り込みをしているようだ。ガートルードが食休みをしてから散歩に出かけたことを考えると、なかなかの長距離を走っていることになる。

それは大変そうだ、と感想を持ち、何の訓練か追加質問をしようと青年を見遣ると、もう走るので精一杯の様子だった。

話が聞けないと判断したガートルードは、走る速度を速め、先頭にまでたどり着いた。先頭の彼だけは、後方にかけ声を呼びかけるほどに元気だ。


「恐れ入ります。これは何の訓練でしょう?」


「なんだ、坊主。兵士は訓練してなんぼだろう」


愚問とばかりに先頭の男は返す。ガートルードを一瞥しただけの彼は、格好から彼女を少年と判断したようだった。後に続く青年らはなぜ少女が、と疲弊しながらも驚く。


「……アシュリー様の、私兵ですか?」


国境がある領地を持つ貴族は、防衛のため、一定数までであれば私兵を持つことが許されている。同盟を結んで長い友好国付近の領地では無用の長物と縮小傾向にあると聞くが、アマースト侯爵家所有のプラムペタル領ではしっかりと機能しているらしい。


「おうよ。アシュ様の領地を守るのがオレらの仕事だ」


にっかりと笑う男は誇らしげだ。ガートルードは、アシュリーが愛称で呼ばれるほど領民に慕われていることを知った。


「素敵なお仕事ですね」


それが嬉しくて、彼女も微笑み返す。


「そういや坊主、見ない顔だな」


ようやく疑問を持った先頭の男が、速度を落とし止まる。後に続く青年らは、助かった、と肩で息をしながらしばしの休憩をとる。

誰何するための停止と理解し、ガートルードは男が向き合ったと同時に挨拶をした。


「申し遅れました。ガートルードと申します。ルードとお呼びください。アマースト家には昨日きたばかりなんです」


「アシュ様ん家の新入りか。オレはキム・ダンカン・ブライトン、第一部隊の隊長だ」


新しい使用人と断じたのはキムだけで、他の兵士たちはぎょっとする。昨日、アマースト邸に初めて女性が訪ねてきたと噂になっていたからだ。青天の霹靂のような出来事は広まるのが早く、厨房に食材を届けた男を情報源とするそれは、周辺の家々の夕食の話題にのぼった。

訪ねてきたのは令嬢だったと。男が来訪の理由を訊ねると、領主である侯爵に嫁ぐためと答えたという。ならば、その令嬢はアシュリーの妻ないし妻候補だ。侯爵もようやく年貢の納め時か、と笑いあったばかりだ。

銀髪だったという外見特徴も、彼らの目の前の少女は満たしている。すぐさま侯爵夫人である可能性に気付いた兵士たちは、キムの誤認識を正そうと首を横にぶんぶん振った。

しかし、キムの女性の識別方法は、髪が長く、スカートを穿き、凹凸おうとつのある身体、それらの条件を満たしているかどうかだ。髪が短く、男物の服を着、平坦な胸のガートルードを女性と認識できなかった。

キムは鍛えること以外は単純な思考をしている。つまるところ、筋肉バカだった。

焦る兵士たちに反して、ガートルードはキムに誤解されていることに気付きながら、否定することもなく微笑んだ。


「キム隊長は立派な筋肉をお持ちなだけあって、さぞお強いのでしょうね」


「おうよ。剣術以外ならプラムペタル一だぜ」


剣術においてはアシュリーが国一番の使い手のため、キムは二番手だ。

国境を含む領地のなかでも、兵の平均戦闘力が高いであろうプラムペタルでアシュリーに次ぐ実力者とは。彼の筋肉が伊達ではないと、ガートルードは理解した。


「隊長の強さを見込んで、お願いがあるのですが」


「何でも言いな」


褒められて機嫌をよくしたキムは、あっさりと安請け合いする。彼の返事を聞き、ガートルードはありがとうございます、と微笑んだ。


「護身術を指南いただけないでしょうか。アシュリー様の負担になりたくないんです」


出歩くにも距離があれば護衛が必要になる。しかし、ガートルードに護身の心得があれば、その数を減らすことができるだろう。

ガートルードの頼みに、キムは沈黙した。来たばかりの新人の出すぎた要望と捉えられたのか、はたまた女性だと気付いたのか。相手の真意が見えず、ガートルードはじっと答えを待った。

すると、キムは彼女の二の腕を掴んだ。


「筋肉が足りねぇ。腰も細っこいし、体幹はあるみてぇだが」


腕の筋肉量を確認したキムは、呟きながらガートルードの腰を両手で掴んだ。気付いていないとはいえ、令嬢、しかも領主の妻かもしれない女性へ無遠慮に触れるキムに、兵たちは声にならない悲鳴をあげたり、口をパクパクさせどうにか気付かせようとした。

虚を突かれ驚いたものの、目を丸くしただけのガートルードは気にしていない旨を伝えるため、兵たちに微笑みかけた。


「オレたちについてきただけで息を切らしてちゃ、教えられねぇ。まずは体力つけろ。毎日邸の周りを一周しろ、昼間は暑いから早朝にな。それでバテなくなったら、また来い」


最低でも一ヶ月はかかるだろう、とキムは達成目安を立てる。

体力をつけろと言うからにはどんな過酷な訓練メニューを告げるのか、と兵たちは戦々恐々としていたが、意外に妥当な訓練量に安堵した。キムは鍛えたいと望む者に真摯に向き合う男だったと、彼らは思い出した。走り込みの時間帯を体力消耗の少ない時間帯に指定したのも、ガートルードが熱中症で倒れないように配慮してのものだ。


「わかりました。体力をつけて出直してきます」


キムをまっすぐに見上げて、ガートルードは頷いた。


「ルードの心意気は気に入った。待ってるぜ」


「はい」


キムに、頭をわしゃわしゃと撫でられる。それは彼が部下を褒めるときにやるクセだった。臆面のない笑顔で期待を寄せられると、ついそれに応えたくなってしまう。そういった求心力があるゆえに、彼は隊長として慕われ、厳しい訓練にもついてくるのだ。

ガートルードもこれからする努力を激励され、こそばゆい心地になる。知らず頬を染め、はにかむ。

少女らしいガートルードの様子に、兵たちの数人は胸部を押さえた。自分たちの領主はずいぶん愛らしい妻を迎えたようだ。

さっそく明日から始めると宣言して、ガートルードはキムたち第一部隊の面々と別れた。その背を見送り、兵たちは一抹の不安を覚える。


「隊長、あんまりルード様に気安く触らない方がいいですよ」


「なんでだ? 貴族出の使用人にしちゃ話の分かる奴だったじゃねぇか」


「いや、だって、ルード様男じゃ……」


「わっはっはっ、いくら女みてぇに可愛いツラしてるからって、疑ってやるなよ」


兵の一人が、認識を訂正しようとしたが、一向に通じなかった。むしろ、バシバシと勢いよく背中を叩かれてしまう。

認識が雑なのはキムの方なのだが、これは言っても聞かないだろうなと兵たちは諦観した。いつかスカート姿のガートルードを見れば認識が改めるだろうと彼らは見越したが、実はそのいつかが来るか自体怪しいことを彼らは知らない。

とても有意義な散歩をしたガートルードは、兵たちに不憫に思われてるなんて、思ってもいなかった。



夕飯は少し遅くなった。

支度は夕暮れ時に整っていたのだが、アシュリーが仕事に没頭して時間を忘れたためだ。これまでであれば、食事をさげ、主人が空腹を覚えたときに軽食を用意できるようにするところだ。

しかし、今回は違った。ガートルードがアシュリーがくるまで待つ、と食卓で宣言したのだ。

彼女だけでも温かいうちに食事をとってもらいたかった執事のカルヴィンは弱った。姿勢を正して椅子に座ったまま頑として動かない様子に、いくら空腹になろうと宣言を覆さないだろうとみてとれた。

そのため、アシュリーに状況を伝え、同席を頼んだのだ。さすがに待たれていると解っていながら仕事を続けられるほど、アシュリーは冷酷ではなかった。

むっつりと不服そうにしながらも長机の対岸に座るアシュリーを見て、ガートルードは満足そうに微笑む。


「まだ少し温かいですよ」


「……お前は頑固だな」


「家族なんですから、同じ家にいる以上、食事は一緒の方がいいです。それに、温かいうちに食べないともったいないじゃないですか」


そして、一度に早く片付けられた方が厨房も助かる、と付け加えられる。年配の料理長もいるというのに長年邸にいるアシュリーの方が部下への配慮が足りない事実を指摘され、返す言葉がなくなった。

長い付き合いだからこそ、融通を利かせてくれる部下に甘えてるところがあるとアシュリーは自覚させられた。ガートルードは自身のしたいことを通すための理屈を述べているだけで、アシュリーを責めるつもりなどない。ただ相手を納得させるために、道理に叶う理屈をあげたのだ。

だからこそ、余計にアシュリーは気まずくなった。彼女は改善を求めてくるが、謝罪は要求しない。非を自覚したというのに、謝罪する機会が与えられないのは、大層居心地が悪かった。


「……俺と食事しても面白くないだろう」


食事中、ぽつりとアシュリーが零した。

アシュリーは、食事に同席しない方がいいと思っていた。女性、しかも八つも歳の離れた相手と楽しめる話題など持ち合わせていない。生真面目さから表情が固い自覚もある。ロクに喋りもせず、その場しのぎの愛想笑いもできない男との食事なんて、ガートルードには苦痛でしかないだろう。

彼の意見を聞いて、ガートルードはきょとんと目を丸くする。


「好きな方と食事できて、楽しいですよ」


アシュリーは口に入れたばかりの肉を喉に詰まらせかけた。それをぐっと堪え、咀嚼して飲み込む。ガートルードは自分に一目惚れしたようなことを言ってはいたが、それは単に同好の志を見つけた歓喜にしかすぎず、彼女の利のために嫁いできたのだと思っていた。だから、彼女の言葉に動揺した。


「アシュリー様は私と食事するの、嫌ですか?」


「いや……」


「なら、ご一緒しましょう」


嫌かと問われれ、即座に否定を返してしまった。幸せそうに食事を堪能するガートルードを見ているのは悪くない。令嬢の苦手な部分を取り払っている彼女を、女性だからという理由だけでアシュリーは拒絶できなくなっていた。

アシュリーの短い返事に、ガートルードは嬉しげに笑う。

だからか、先ほどの好きな方、というのが妙にアシュリーの耳に残った。

食後のお茶になってからは、手頃な話題が浮かばないアシュリーの代わりに、ガートルードが今日体験したことを嬉々として話した。

散歩して、空が広く、通り抜ける風が清々しかったと語るガートルード。彼女が話すと、聞いてるアシュリーまでその光景が浮かぶようだった。


「そうそう、その際に、第一部隊の方たちとお会いしました」


「キムたちに会ったのか?」


「はい。みなさん、初対面の私にも優しくしてくださいました。隊長が、私を男性と思われたようで、他の方々がとても気遣ってくださったんです」


ガートルードがにこやかに話すものだがら、アシュリーは内容の奇怪おかしさに気付くのが遅れた。自分の部下が、思っていた以上に単純思考だったと知る。


「……それは、キムがすまない。気を悪くしただろう」


「いえ、まったく。隊長は楽しい方ですね」


言葉通り、気にした素振りを微塵も感じさせず、ガートルードは楽しそうだ。一般的な女性なら気分を害しているであろうことも、彼女は平然としている。

さすがに真意と思えず、アシュリーはいぶかしんだ。


「男だと思われてもいいのか?」


「アシュリー様には、私が女性に見えているのでしょう?」


「ああ」


「なら、他の方には私と認識いただければ、構いません」


アシュリー以外の者には、性別をどう解釈されようと些末なことだと彼女はのたまう。何故自分の認識を確認されたのか、アシュリーはガートルードの真意が解らなかった。

首を傾げる代わりに、疑問に眉を寄せる彼を見て、ガートルードは可笑しそうだ。


「いつか、アシュリー様に伝わったら、嬉しいです」


今は解らなくていいと微笑まれ、アシュリーは釈然としない心持ちになった。

そのあとは、キムの話題をきっかけに、第一部隊の序数の意味をガートルードに訊ねられ、アシュリーは地区ごとに警護管轄を分けていることを説明した。そんなただの説明であっても、ガートルードは興味深げに耳を傾ける。

それは、カルヴィンたち使用人たちの眼には、会話らしいものに映った。本人は気付いていないが、それなりに長い時間ガートルードと談話しているのを、カルヴィンたちは微笑ましく見守るのだった。



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