第2話 そのに

 そうして私たちは、灯台を二人で探すことにした。

 探すにあたって、小さな約束事もした。


 本当の自分自身の名前は教えない。

 ただそれだけだ。


 思い出探索のこの夏の間は、私は喜惠で、彼は隆之介である。

 くだらない自己満足ではあるけれど、彼といる私は「私」ではなく、かつて在りし日の「喜惠さん」だから、過去に置き去りにされた思い出を辿る行為も許されるだろう。

 二人の秘密を暴き立てるのではなく、二人の想い残しを解消するだけだと、都合の良い言い訳を作り上げたのだ。


 もちろん、夏の間は私も進学校である女学院に通っての補習があったし、コーヒーショップでのアルバイトもあった。

 彼は彼で、親戚の家に泊っていて、週の何日かは浜にある海の家でアルバイトをしていたし、遠浅の海は曾祖母たちがいた時代とは違って連日のように海遊びに興じる人間で満ちていた。


 それでも、夕暮れ時。

 帰る人波も途切れ、海の家も閉じてしまい、薄闇迫る頃には祭りの後のような静けさを海はたたえていた。

 寄せる波と返す波は、耳に届いても不思議と「静かだ」と思う。

 絶え間なく押し寄せ、遠ざかっていく潮騒は、シンと身の奥へと染みていく。


 夕涼みに海岸を歩く人のように、私と彼も砂浜を何度も歩いた。

 はじめは、ぎこちなかったと思う。


 喜惠さん、と呼ばれることも。

 隆之介さん、と呼ぶことも。


 どこか後ろめたくて、恐ろしくて。

 それでも、ふと顔を上げた先で、彼の澄んだ夜のように黒い瞳があると、胸の奥でかすかに甘い風が吹いた。

 かき乱されるほど強くはなく、気付かないほど弱くもない。

 掴もうと手を伸ばせばスルリと逃げてしまいそうな淡い甘さは、今の私が「私」ではなく「喜惠」だからかもしれないと、錯覚してしまいそうなほどもろかった。


 この夏が終わるのが怖いと思いながらも、この夏が早く過ぎれば良いとも思う私は、やはり冷たい人間なのだろう。


 想い惑う私の気持ちなど知らないまま、隆之介さんであるところの彼は、夏の半分も過ぎるころには私を見つけると屈託なく笑うようになっていた。


 夏の始まりに出会ったばかりなのに、私たちは旧知の仲のように肩を並べて、お互いの知っていることを語り合った。

 とはいえ、私は本当に曾祖母との記憶はおぼろで、怪物の眠る灯台につながりそうな記憶は、あの日の出来事だけだった。

 気持ちばかりで役に立たない私と比べて、隆之介さんはたくさんのヒントを持っていた。


 彼が持っていたトランクは、隆之介さんの遺品だった。

 手ごろなサイズの使い込まれたトランクの中には、大量のデッサンやイラスト。小さなオイルランプ。それから手帳が遺されていた。

 小さな落書きのようなものも丁寧に紐で綴られ、完成されたペン画や墨絵は一枚一枚大切に油脂に包まれていた。


 この浜を探し当てたのも、私を喜惠と呼んだのも、残された絵にモデルの名が記されていたおかげだった。

 そう、大量にある絵のほとんどが、女学生時代の曾祖母の姿を描いていた。

 

 手帳を見れば、隆之介さんは胸を患って、この海辺へ療養に訪れていたらしい。

 文字を描くよりも絵ばかり描いていた隆之介さんの、日記とも言えない覚書には、絵を描くのが趣味だとあった。

 調子のよい日は浜辺や海で絵を描いていて、そうこうするうちに、女学生だった曾祖母と出会ったらしい。

 出会った、といっても最初はすれ違うだけで、そのうち挨拶を交わして、一言二言言葉を交わすようになった。

 時代を考えればそれだけでも異例の距離の近さだが、学校帰りの制服姿が珍しくて、絵に描くのを申し入れたとある。


 そして、曾祖母は是と答えたのだろう。

 トランクの中に詰められた紐で閉じられた大量のデッサンが、その当時の隆之介さんの情熱と、少女時代の曾祖母の初々しさで満ちていた。

 当たり前だが、モデル、と呼べるほどの距離の近さではなかった。


 けれど、私の知らない少女時代の曾祖母がそこにいた。

 浜辺を歩く姿だとか、堤防にちょこんと腰かけている姿だとか、学生カバンを重そうに持つ女学生姿だとか、海を見つめる横顔とか。

 自然に息をして、そこにいるような、日常の一瞬。

 ほんの一瞬のきらめきを、隆之介さんは好んでいた。


 一枚。たった一枚だけ。

 完成されたと思わしき絵があった。

 習字に使った半紙ぐらいの大きさのその絵は、日常の一瞬を描いた他の絵とは明らかに差があって、ひどく幻想的で着色もされていた。


 真っ黒な海と、白く泡立つ波間に、ヒラリとほどけた赤いスカーフが漂う。

 白い灯台を腕に抱く、美しい少女。

 すがるように、護るように、封じるように。

 しっかりと灯台に腕を回している。

 

 絵の裏には、隆之介さんの文字で「喜惠さん」と書かれ、その下にまったく違う繊細な文字で「灯台の中には怪物が眠っている」と綴られていた。


 見た瞬間に、ブルリと身が震えた。

 これは、と思ったのだ。


 顔立ちは私にそっくりだけど、これほど綺麗な女の人は知らない。

 通りすがりの女学生を綺麗な被写体として描いたのではなく、描き手の目を通した感情も同時に、紙に写し取っているとしか思えない。

 美しく、綺麗であればあるほど、痛ましいほどの想いが透けて見えるようで、まったくもって手に負えない感情がわいて、名前を付けることもできない。

 赤いラインが襟にある銀鼠色のセーラー服は、伝統ある女学院のものだから今の私も着ているのに、私がどれほど頑張ろうと、こんな女には一生なれやしない。そう思った。


「この絵に、喜惠さん、と書いてあったのを忘れられなくて。初めて会った時。貴女のことを喜惠さんと、つい呼んでしまいました」


 違うとわかっていたのですが……と悪びれない言葉が続いたものだから、私は彼を見つめてしまった。

 不意を突かれたのだと思う。

 喜惠さんと呼ばれるうちに、私が私でなくなるような不可思議な心持ちになっていて、まさか、私への言葉が投げかけられるとは思わなかったから。


「似てますか?」

「ええ、とても」


 怯えがそのまま声に出たけれど、当然のようにうなずかれたので、私の心臓が強く跳ねた。

 描き残された「喜惠さん」は「隆之介さん」の目を通して見ると、とても美しい人だった。


 今の私は、喜惠さんの殻を上っ面だけなぞり、彼と目が合っただけで心を浮き立たせる愚か者で、中身が空っぽで、本当の私には少しも似ていない。

 そのはずなのに彼に目をやると、やわらかな微笑みがそこにあった。

 ふわり、と心の奥が温かくなる。


「それは、嬉しいです」

「僕もね、嬉しいです」

 

 お互いにそれ以上言葉を思いつかなかった。

 私たちはお互いを、喜惠であり隆之介と呼び合う不埒な関係だったけれど。

 私は私で、彼は彼であることも、忘れなくて良いのだろう。


 夏の間、私と彼は互いの身内の影を背負いながら、灯台を探した。

 けれど、本当はあの灯台と少女の絵を見たときに、気付いてもいた。


 怪物の眠る白い灯台は、きっと、実在しない。


 それでも、それを認めると私と彼の関わりも消えてしまう。

 だから二人して、見ないふりをしていた。


 それでも時は流れていく。

 夏が終わる。それが意味することを、私はつい失念していたのだと思う。

 久しぶりに午前中に彼と会い、喫茶店で向かい合って昼食をとっている時の事だった。


「明後日、帰ることになりました」


 唐突に彼が言うので、ぽかんと口を開いて言葉を失った私は、ずいぶん間抜けな顔をしていたはずだ。

 それでも彼は、可愛い、と小さなつぶやきを落とす。

 恥ずかしいほどに甘く、コロコロと転げ落ちた小さな飴玉みたいな言葉を、私はひろいあげたかったけれど、窓を閉めてもかすかに聞こえてくる波の音に紛れて取りこぼした。

 わきあがる感情が言葉にならず、なにをどう伝えればいいのかわからない。


「さみしいです」


 ようやくそれだけを、声にして絞り出せた。

 彼は笑って、そっと私の手を取った。

 短くて長いこの夏の間で、初めて感じる彼の体温は、想像していたよりもずっと温かかった。


「結局、灯台がなにか、わかりませんでしたね」

「日記でもあれば、わかったのですが。まぁ、故人の心の内を覗き見るなんて、褒められた事ではありませんけど」


 そうですね、とうなずいたところで、なぜかピンとひらめくものがあった。

 形見のように譲り受けた曾祖母の文机を使っているのだが、ひとつだけ不思議な引き出しがあるのだ。

 なんとなくなのだけど、その引き出しは見た目よりも物が入らないのだ。

 引き継いだ時におかしいと思ったけれど、取り外しても普通の引き出しだったし、振っても音もしなかったので、違和感を感じるなんておかしな子だと両親には笑われた。


 灯台と少女の絵がトランクの二重底に隠されていた時に、開けるための手順があるのを知って、これに似た感じのものがあったなぁと引っ掛かりを覚えていたけど、今、繋がった。

 曾祖母が大切な何かをしまい込むとしたら、あそこだと思う。


「あるかもしれません。曾祖母の日記」

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