産む。
千鶴
兆
二〇一八年 八月——
朝方五時半。布団に横になっていた私は、下半身の違和感にパチリと瞼を開ける。
バチン、とひとつ音がした後。川の流れの速度で感じたそれに、私は飛び起きて即座にトイレへと駆け込んだ。念のために着けていたナプキンが役に立つ。
止めたいのに止まらない。下腹部あたりにぎゅっと力を入れるも、果たして今自分がその川の流れを止めようとしているのか、はたまた助長させているのか、頭の中がこんがらがって身体がうまく命令をきかなかった。
まさか、お漏らし?
大人と言われる年齢を過ぎて早数年。このような違和感を感じたことは初めてだった。
だがその違和感の正体に私はすぐに気が付く。
「ねえ。ちょっと、起きて」
「ん、もう起きる時間?」
「いや、ごめん、来たかも」
「なにが」
「おしるし?」
「え」
「破水、したっぽいです」
「……嘘っ!」
抜け殻になった私の布団の隣、大口を開けていびきをかいていたパートナーは、私の言葉と共に揺り動かされた肩をくるりと翻して飛び起きた。いや、跳ね起きた。
「えっと、なんだっけ。どうするっけ。入院セット? 病院に連絡するよね。あ、車のエンジンかけとかなきゃ。乗っていける? 痛い?」
寝起きの頭でよくそこまでの思考を働かせられるものだなと、パートナーの優しさに少し感動する。そしてそんな彼の反応をみて、これから始まる一大イベントへのふたりの足並みが揃っていることを確信し、私はこれまたちょっぴりだけ嬉しくなった。
「まだ痛みはないかな」
「そっか。でも急がなきゃね」
私が病院に電話を入れると、状況を聞いた電話口の女性はすぐに来院するように私に言った。
季節は八月。日が沈めば少しは涼しくなるとはいえ、まだまだ暑さの残る外気。パートナーが車を動かす為に出て行く際、開いた玄関の扉からもわりと湿り気を含んだ空気が室内に侵入してきた。
「あの、聞いてます?」
パタリと閉まった扉の先は薄ら明るくて。今日という一日の始まりに高揚感と緊張感と、やったるぞ! なんていう変な気合いを抱きながら、私は室内をうろうろしては意味もなく冷蔵庫を開けたり閉めたり。
「あのー」
そうして自分の心に折り合いを付けるのに必死になっていた私は、耳に当てたスマートフォンの向こうの声をほとんどスルーしてしまっていたことにハッとする。
「え、あ、すみません」
「気持ちはわかりますが、落ち着いて。間違いなく破水です。そうなるとお産は急速に進みますので、なるべく身体に衝撃を与えない様に、尚且つ迅速にこちらへ向かってください。あ、正面玄関は開いていませんから、裏に回って勝手口のチャイムを押してくださいね」
電話を切ってから家を出るまでは早かった。事前に資料をもらって揃えていた入院セット、財布に携帯。充電器をカバンに詰め込んで、目が覚めてからここまで僅か十五分。
身体に衝撃を与えず、かつ迅速に——
外に出て、車の助手席の扉を開けてくれたパートナーにお礼を言い、重たい身体をシートに沈める。荷物やらなんやらを後部座席に放った彼は、いそいそと運転席に乗り込むと私に向いた。
「えっと、とりあえずなんか食べる? お腹空くよね。長丁場になったら体力持たないし。あ、でも胃になんか入れたらまずいか」
「なんで?」
「押し、出されちゃわない?」
そんなわけ、あるかいな。
彼の言葉にそんなことを思いながら。その日、私の身体は三十八週と六日間お腹に留めた生命体を、遂に外へと出そうとしていたのだった。
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