番外編・咲苗
僕がバイトから帰宅した時、妙子さんがおやつを用意して僕の帰りを待ってくれていた。だがそこにもう一人の人影を見つけ僕は戦慄する。藍じゃない、もっと子供で、僕のよく見知った誰かは、玄関で絶句し硬直した僕に向かって全速力で走ってきては僕の首根っこに飛び付く。
「お兄ちゃんっ!」
僕は後頭部をしたたかにドアにぶつけた。
「がっ」
僕は彼女を力いっぱい引き剥がすとその顔をまじまじと見つめる。
「
言いたいことは山ほどある。
「まあまあ、お茶でも飲みながら話そうよ。ねえ妙子さん」
「そうですね。さ、こちらへどうぞ」
妙子さんもにこにこして僕を座るように促す。僕は渋々いつもの場所に座った。小さいテーブルを真ん中にして僕から見て左に妙子さんが、右に咲苗が座る。
「それで? 一体いつまでいるつもりなんだ?」
僕はぶすっとした声で咲苗に言った。
「え? 別にあたし帰んないけど」
心底不思議そうな声で咲苗が答える。
「はあ? 学校はどうするんだ? もうすぐ中三だろ? 受験は?」
「エスカレーター式だから楽勝だし。それにお兄ちゃんと違ってあたしってば勉強できるんだもん」
得意げな顔をする咲苗。確かにこいつは頭がいい方で学校の成績もよかった。
「咲苗ちゃんは急にいなくなったお兄ちゃんを追ってここまで来たんだそうです。健気な話じゃないですか……」
妙子さんはそう言うと目の端を拭った。
「いやっ、妙子さん。何を吹き込まれたのか知れませんが、とにかくこいつは――」
「こいつは何?」
咲苗はニヤッと笑う。
「まさかこの寒空の下、その健気な妹を放り出すわけじゃないよねえ」
咲苗は僕のところまでやってきて、僕の肩に手を置き耳元で囁く。
「ここにおいてくれなかったらお父さんとお母さんにばらすから。ここにいることも妙子さんのことも」
「きさっ……!」
僕を見下ろすとゲスいくらいのドヤ顔を浮かべる咲苗が心底憎らしい。
「ねっ、わかるでしょ? お兄ちゃんに選択の余地なんてものはないの」
「くっ……」
咲苗は巧妙にも妙子さんに背中を見せているので、この咲苗の表情は見えない。見たらきっと認識を新たにしただろうに。
その妙子さんがいつもの通り夕ご飯を作ると言う。嘘くさいほどにはしゃぐ咲苗。その咲苗の提案で三人でスーパーに出かける。咲苗が地元の食べ物を食べたいと言うので、函館の郷土料理ではないが妙子さんの地元帯広の豚丼を作ることになった。妙子さんがレジで精算する間僕と咲苗の二人きりになる。
「おい」
「あたし、『おい』って名前じゃないよ。咲苗」
「お前、善良で疑うことを知らない妙子さんは
「なんのこと? あたし『ろーらく』なんてしてないよ?」
にやにや笑いを抑えきれない様子の咲苗に僕はいら立った。
「でもいい人だね。妙子さん。あたし好きだな。ねえ付き合ってるんでしょ?」
「ノーコメントだ」
「ふうーん」
さらに大きなにやにや笑いを浮かべる咲苗。
「私、お姉ちゃんになるならあんな人がいいなあ。すっごく優しくてお母さんみたい」
帰宅後、妙子さんと咲苗は豚丼を作る。仲間外れの僕は一人寂しく楽譜や作曲の本を読む。豚丼をいたく気に入りお代わりまでした咲苗は、牛になるのも構わず食べ終わって即横になる。途端にそのまま座布団を枕にして寝てしまった。妙子さんが毛布を掛ける。
「元気いっぱいだったのにやっぱり疲れてたんでしょうねえ……」
咲苗の額に手をやり慈しむように髪を梳く。
「靴なんてひどいものだったんですよ。穴の開いた夏物で、この若さでどれだけ苦労をしたのか……」
「そ、そうなんですか」
僕には咲苗が何をどう思って僕のところにまで来ようとしたのかはわからない。だけどそこには相当に強い意志があったのだろう。僕は少し申し訳ないような気がした。
「……ばか」
咲苗の口がそう動いたような気がした。
妙子さんが帰った後改めて咲苗を寝かす。布団を敷いてそこに寝ぼけ眼の咲苗を寝かす。僕はその横でごろ寝する。これは新しい布団を買ってこないといけないかも知れないな。
「お兄ちゃん……」
いつの間にか目を覚ました咲苗が僕の方を見て切なげな囁き声をだす。
「なんだ」
「こっちおいでよ。寒いでしょ」
「ああ寒い。が、妹と
「変なの。あたしが小学校までは一緒に寝てくれたのに」
「小二までだ。お前がどうしてもって言ったからじゃないか」
「うん…… ね、じゃあ代わりに手繋いでくれる?」
僕はめんどくさいながらも手を差し出した。
「ありがと。優しい」
「優しくなんてない。今だってお前をどうやって追い返そうか必死になって考えてるんだぞ」
「…………」
「おい聞いてるのか」
「すうすう……」
咲苗は秒で寝落ちしていた。僕はため息をつくと妹に手を握られたまま目を閉じた。
◆次回
第52話 番外編・咲苗2
2022年5月27日 10:00 公開予定
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