エピローグ1――妙子

 あれからもう何年たったのか。僕は一人夏の函館の空の下に立っていた。西の空が薄くオレンジがかっている。そんな夕暮れも近い快晴の夏空を見上げた。あの頃の空はいつも鈍色でしょっちゅう白い雪が降り注いでいた。季節だけではない。街も変わった。あの飲み屋通りや繁華街には冨久屋もサンシーロももう無かった。


 見上げていた視線を元に戻す。あいかわらずの鉄骨とガラスでできた眩しい駅舎。

 そして僕からわずか五メートル手前に一人の人影を見つけ僕は全身の筋肉が硬直する。その人影の方もそうだったろう。セミロングの髪、そして夏らしい、でもやっぱり地味な服装に身を包んだ彼女は妙子さんだった。


 数秒の間僕たちは緊張した面持ちでお互いを見つめていた。懐かしくて甘酸っぱくて苦い記憶が一瞬にしてよみがえる。何年経とうと決して忘れ得ない記憶。


 どうすればいいのか、このまま何も見なかったことにして通り過ぎればいいのか。多分そうするのが一番いいのだろう。だけどあの頃胸に抱いていた甘い感傷のせいで、どうしてもそうする勇気が出なかった。


「こんばんは」


 彼女の口がそう動いたように見えた。そう思ったら僕はもうたまらずに夢中で一歩二歩踏み出していた。


「……こんばんは。その…… ご無沙汰しています……」


 と下らない言葉を口にする。


「あ、いえ、私の方こそ……」


 戸惑う様な笑みを浮かべて答える妙子さん。でもその先が続かない。沈黙が流れる。


「あ、あの、観てます。毎週、大河……」


「あ、ありがとうございます……」


 今年放送されている島津日新斉じっしんさい忠良をモデルにした大河ドラマ「色はにほへど」のテーマ曲は僕が作曲したピアノ協奏曲コンチェルト「火焔樹」のピアノ演奏は僕と藍の三手連弾だ。また僕自身も音楽担当からの依頼で主要な場面で使われる楽曲をいくつか作曲し、その中で藍の弾く哀切なピアノソロ曲も数曲BGMとして採用されていた。


「ああ、ええと、お、お元気にしてましたか」


「ええ、おかげ様で元気にしてます。そ入江さんは?」


 彼女から呼び馴れない言葉で呼ばれ僕は違和感を感じた。が、引きつった笑顔で無難な返事に成功する。


「もちろん。御覧の通り僕も元気にしています」


「よかった」


 緊張と照れた表情で髪を梳く妙子さんの左手薬指に光るものがあった。僕はほっとすると同時になぜか胃が重くなる嫌な感覚を覚える。妙子さんは緊張が解けない表情で話しかけてきた。


「奥様もすごいですね。テレビでご一緒しているのを何度も拝見しました」


「いや、恐れ入ります」


 僕は頭をかいたが、笑っていいところかどうかはよく分からなかったので表情は硬い。


 ここで言う奥様、とは藍のことだった。僕と同じ武蔵川音大に入学した藍はめきめきと頭角を現し、在学中に日本どころか世界でも注目される演奏家になる。在学中からクラシックだけでなく現代音楽、ジャズ、ポピュラーなど手広く演奏の幅を広げた。むしろこちらの方が自由を求める藍にとっての真骨頂だったのかも知れない。


 僕も作曲科在学中にいくつかのコンテストで非常に優秀な成績を残す事ができた。そこで藍の発案で、藍のリサイタルに僕の曲を何曲か入れたり、僕が作曲した三手連弾を弾くようにしたり、協奏曲の指揮を僕がとったりもした。この異色さが好評を博したのか、僕たちは「『婦』唱『夫』随」のピアニストと作曲家ユニットと見なされるようになっていった。テレビのクラッシック番組では二人揃ってゲストとして呼ばれることも多く、それ以外では現在も僕はクラシック番組で準レギュラーとして出演している。


 妙子さんを見てふと思うところがあった。これはどうしても伝えておかなくてはいけない気がする。


「あの……」


「はい」


 少し緊張してはいるが、あの頃と同じ柔らかな笑顔だ。


「この機会に是非お伝えしたいことがあるんですが…… よろしいですか」


「……はい」


 どんなことだろうといぶかしんでいる表情の妙子さんだったが、すぐに微笑む。


「それじゃあ、近くになじみの安くて美味しいお店がありますから、そこでどうですか」


「わかりました」


 そして僕らは連れ立って移動した。もう腕が触れ合ってもあの頃のように胸が高鳴ることはない。それはそれでどこか寂しかった。そして妙子さんお勧めの店にたどり着いた。




「しかし驚きましたよ。まさか冨久屋だとは。しかもこんなに大きなお店になって」


「こっちだって驚きましたよ。色々とね」


 カウンターの向こうから長さんが嬉しそうに答える。珍しく表情が豊かだ。妙子さんも嬉しそうに微笑んだ。冨久屋は手狭な旧店舗から今の店舗に引っ越し、数人の従業員も抱え繁盛していた。


「さて、今日はスズキとホッケのいいのがありますからそれを入れて刺身の盛り合わせというのはどうですか」


「いいですね、お願いします」


「それで、お伝えしたいことって?」


 気になって仕方がない様子の妙子さんに、僕は自分の右手を見せた。手の甲にうっすらと六~七㎝の白い傷痕がある。妙子さんにとっては忌々しい記憶だろう。表情が硬く曇る。


「実は少しずつ使い方に馴れてきたんです」


 不思議そうな表情になる妙子さん。


「馴れるものなんですか」


「はい。最初は親指だけならそれなりに使える程度でしたが、そのうち小指、人差し指と少しずつ使えるようになってきて。ただ薬指だけはまだまだ全然だめなんですけどね」


「そうなんですか……」


 妙子さんは不思議そうな顔のまま僕の右手を見つめている。


「そうすると弾き方を工夫するだけで、ある程度の曲はいずれ弾けるようになりそうなんです。まあ、僕は作曲家なんでもうそんなに弾けても仕方ないんですけど」


「そんなことありません! 素晴らしいです! ……よかった。本当によかった」


 妙子さんは両手で顔を押さえ今にも泣き出さんばかりだった。


「ですからもうそんなに背負わないで下さい。僕の右手はもう大丈夫です。四手連弾できる日も近いでしょう。もっとも右手に負担のない曲を僕が作曲することになるとは思いますが」


「わざわざそんなことを言うために…… お気遣いありがとうございます」


 妙子さんは神妙な面持ちで深く頭を下げた。


 その後は妙子さんの話に移った。


 あの日僕と駅ピアノで別れ、駅を出た途端、妙子さんはぶざまに転倒し泥水まみれになった。失意と悔しさと情けなさと悲しさでそのままおいおいと泣き出してしまったところ、妙子さんの一つ下で、妙子さんの前夫への損害賠償請求を担当していた原田弁護士が居合わせ、助け起こしてくれた。それを機に二人はゆっくりと交際を続け、ついに二月前結婚したという。


「よかった。それはよかった。本当によかったです」


 僕は救われたような気になった。妙子さんが新しい人生を歩んでいることに僕は心底安堵した。妙子さんの左手薬指に指輪を見た時の重苦しい気持ちは消えていた。


「そうだ」


 妙子さんがトートバッグから何かを取り出す。見てみるとそれは何と楽譜だった。


「実は今ピアノをやっているんです」


 得意げな顔をする妙子さん。どこか懐かしい表情だ。


「そうなんですか。今は何を?」


 妙子さんははにかんだ表情で楽譜を見せる。


「ふふっ、お恥ずかしい話ですがジムノペディの一番を」


「ええっ、すごいですね」


 すると今度はあの頃よく見た困り顔で僕の方を見る。僕は少し動揺した。


「それがなかなかうまくいかなくて…… 『苦しむように』というのがどうしてもわからないんです」


 妙子さんのことだ、きっと穏やかで柔らかくてむしろ心がぽかぽかと温かくなるような演奏になるに違いない。妙子さんにはそれがお似合いだ。


「それでいいんですよ」


「え?」


「妙子さんは妙子さんにしか弾けないジムノペディを弾くのがいいと思います。それはきっと誰にも真似できない唯一無二の演奏なんだと思います。自信を持って自分の好きなように演奏してみて下さい」


「はい、ありがとうございます」


 楽譜を抱え嬉しそうな顔でこちらを見る妙子さんに、僕は数年前の彼女を見て少し胸が痛んだ。


「こうして著名な作曲家の入江奏輔さんにアドバイスいただけるなんて思ってもいませんでした、光栄です」


「いやいや、著名とか光栄だとかなんてそんな、恐れ多いですよ」


 僕は慌てて手を振る。


 妙子さんが何かを思い出したかのような表情で少しうつむき小さな声で言う。


「思えば、最初からこうしていればよかったんですよね……」


「えっ?」


「私、少し後ろ向き過ぎたんです」


「……」


 僕は、そしておそらく妙子さんもあの時のことを思い出していた。あの日妙子さんが消えゆこうとした日のことを。しばしの間沈黙する。


「何を考えてるんですか?」


 妙子さんが燗酒を僕にお酌しながら訊いてくる。


「なんだと思います?」


「多分私と同じこと、かな?」


「そうですよ、きっと」


「ふふっ」


 その後もお互いの近況を話しているうちにすっかり夜も更けてゆく。冨久屋を出たあと妙子さんと僕は並んで大通りに出た。夜も更けてきたというのに結構な人込みだ。観光客だろうか。


「それじゃあ。今日はたくさんお話できて本当によかったです」


「僕もですよ。ご主人によろしくと言っていいのかわかりませんが、末永くお幸せに」


「ええ、入江さんもお幸せに」


 一瞬目が合う。初めて目が合ったような気がする。胸に甘酸っぱいものがこみ上げてきて僕は何かを言いたくなった。妙子さんの表情も一瞬今までと違った色を滲ませる。この時の僕たちは懐かしさに酔っていた。


「奏輔ー」


 右手少し遠くから声がした。誰の声かすぐに分かった。右を見るとそこに大きく手を振る藍が小さく見える。僕はひどく慌てた。ここで妙子さんと一緒にいるところを見られればどのようにな事になるか。僕はぞっとして左側にいる妙子さんの方に目をやる。


 誰もいなかった。


 さっきまで隣にいたはずの妙子さんは影も形もなかった。ただすぐわきをツアーらしき人ごみが口々に何かをしゃべりながらのろのろと歩いているばかりだった。呆気にとられるうちに藍が僕のところまでたどり着く。


「どしたの? 何かあった? 変な顔して」


 僕は深呼吸をする。藍に微笑みかける。


「いや、何もない」


「ふうん」


 藍は僕の右腕に腕を回し不思議そうな顔をした。


「でもなんかあった」


「ない」


「あーった」


「なーい」


 僕たちは言葉でじゃれ合いながら大通りを歩いて行った。あれは一体何だったのだろうか。ただの夢幻ゆめまぼろしだったのか。 いや違う。並んで歩く時のかすかに腕が触れ合った感触は確かなものだった。僕は妙子さんの「私が消えても探さないでね」の言葉をまた思い出していた。


◆次回

第50話 エピローグ2――藍

2022年8月25日 21:00 公開予定

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