第42話 冬の終わりに咲く花に

 藍の熱が下がってから数日経っていた。僕は藍に誘われ藍の部屋で二人で飲んでいた。かすかな北風がまだ冷たい夜だった。

 主な要件は藍のリサイタルのチケットだ。白く雪の結晶をあしらった凝ったデザインのチケット。それを藍は柄にもなく照れくさそうな笑みを浮かべて手渡してくれる。僕は必ず聴きに行くと約束した。だがそう言った後、胃にずしりと重いものを感じる。妙子さんの顔が思い浮かぶ。これは妙子さんに対する裏切り行為ではないのか、と。

 僕たちは藍のモスクワ行きの話題については完全に避けていた。僕はこのまま藍と離れ離れになるのは耐え難い思いがある。だけど、僕にとってはこのどっちつかずの状況を解消するいいきっかけなのかもしれない。そう思ったりもした。だから僕はその時まで何も考えずに藍との会話を楽しみたい。

 僕たちはまた音楽談議に花を咲かせていた。話はいつの間にか花火にまつわる曲になっていた。絢爛豪華なヘンデルの王宮の花火の音楽、華麗なストラヴィンスキーの花火 Op. 4、それにドビュッシーの前奏曲集 第2集、花火。

 そんな話をするうちにすっかり酔って赤い顔をした藍が突然「あっ、そうだ!」と大声を出して部屋の奥にしまわれていたクラッシックなデザインのキャリーバッグをまさぐり始めた。得意げな顔をして取り出したそれはまさしく手持ち花火だった。据え置き型の噴出し花火もある。


「どうしたんだそんなの」


「前住んでたところで余らしたのを持ってきちゃった」


「おいおい火気持ち歩いちゃだめだろう」


「へへっ、まあそう言わずに。ねっ、花火しようよ」


「花火? この寒い中?」


「そっ、この寒い中」


 僕はしばし考えていたがコートを手にする。たまにはいいか。


「でも寒いからあまり沢山はできないぞ」


「だあいじょうぶ。もうちょっとしか残ってないもん」


 外の風は止んでいた。バケツがないのでたらいに水を張る。それを持って一階にある藍の部屋から表に出た。目の前の駐車場にたらいを置いて向き合ってしゃがみ込む。藍が手にした花火の先に百円のガスライターで火をつけると、シューっと音を立てながら銀色の炎が噴き出る。藍はきゃあきゃあ言って喜んだ。僕も自分で花火に火をつける。今度は緑の炎が噴き出てきた。それを見て嬉しそうな歓声をあげる藍。噴出し花火を地面に置いて火をつけるとやはり派手な火花を噴き上げる。これを見て藍はまたきゃあきゃあと声をあげ、僕の腕にしがみ付いて喜んだ。花火に照らされはしゃぐ藍に僕はみとれた。そんな自分に僕は胸が苦しくなった。僕がこんなことを感じていいのか。そんな資格があるのか。妙子さんにひどく申し訳ない気がして自分が許せなかった。

 たった五本しかない手持ち花火はあっという間に燃え尽きた。すると藍はなぜかまた得意気な顔をして線香花火を十本ほど見せる。これにも火を点けてみる。

 オレンジ色の小さな火の玉がオレンジ色の火花をちちっ、じじっと散らしながら最後はぽとりと地面に落ちる。さっきの手持ち花火の華やかさと違って静かで、それはまるで人の儚い人生を見ているように厳かな気持ちになった。


「あたしさ」


 しばらく無言で花火をしていた藍が小さく口を開く。


「学校で孤立してたって言ってたじゃん。だから学校でむしゃくしゃするとこの間言ったみたいにケーキを焼いたり、あと花火もよくしたんだ。線香花火も。これってなんだか気持ちが落ち着いてくるんだよね。ぎゃーぎゃーうっさいおめーらだってこの火みたくジュって儚く消えてくんだぞって思ったら少しすっとした」


「……」


 僕は改めて藍の苦悩の片りんを見た。幼少時に両親を亡くし遠縁のおじさまに預けられ、音楽教室から追い出され、中高と孤立した生活を送り続け、繊細さゆえに大学生活に耐えきれなかった藍。


「色々苦労したんだろうな。大変だったな。よく頑張ったな」


「へ? そんなことないよ…… そんなこと、ない……」


 藍は目を指で拭う。伏し目がちに少し怒った声で言う。


「もうっ、奏輔のせいだぞっ」


「えっ、なにが? 僕何かしたか?」


 その時藍はボソッと何かを言ったが僕にはよく聞き取れなかった。


「いや、何だって?」


「知らない! 何でもない!」


 ふくれっ面をした藍はそっぽを向いた。

 夢中で線香花火に興じる藍そのハシバミ色の瞳に映るオレンジ色の瞬き。僕はその美しさにすっかり魅了された。もっと近くで見たい。無意識のうちに顔を近づける。そんな僕に藍が気付いてこちらに顔を向ける。僕は藍の頬に手を添えた。藍は不思議そうな表情を見せる。そのまま僕は顔を近づけ、ついに僕たちの唇は触れ合った。二秒間触れ合った唇同士が離れる。

 藍はきれいな目を大きく見開き驚いた顔をしていた。アパートの部屋に勢いよく駆け込む藍。思い切りドアを閉め鍵をかける。僕は自分のしでかした衝動的な失敗に慌てた。


「藍! すまん藍、藍!」


 ドアをたたいても返事はない。


「僕が悪かった、本当に悪かった許してくれ!」


 薄い扉の向こうから藍の震える声が聞こえてくる。


「帰って」


「でも……」


「いいから帰ってよ! 帰ってったら!」


 僕は自分の軽率な行為を恥じ、後悔したものの、何度ドアを叩こうとも藍がそれに答えることはなかった。僕は激しく自分を責めながら一人歩いて帰宅する。自分で自分が情けない。


 自室に帰ってメッセージを送る。当然既読にすらならない。まだ寝るにはかなり早い時間だが、僕は薄くて硬くて冷たい布団に潜りこむ。スマホを抱えて返ってくるはずのない返事を待ちながら。

 僕は生まれてから今までで一番深い後悔をした。


◆次回

第43話 涙

2022年8月18日 21:00 公開予定

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