第28話 イベントとクリスマスと澱む心
その翌日、藍の勤めているニュークラ、
藍の指定通りの時間にサンシーロに行った。少し狭いお店は内も外もクリスマスらしい飾りつけをしていている。きらびやかなものが苦手な僕でもなんとなく気分は盛り上がってくる。こういう華やかさは久しぶりだ。座って待っていると、藍、いや唯がサンタのコスプレをしてやってきた。肩を出した際どい衣装で、僕はその可愛らしさに目を奪われた。
「こんばんはー、唯です。今日来てくれてありがと」
どこか他人行儀ですました様子の唯。ここでしか見せない化粧姿はきれいで、これはこれで僕は好きだ。
「あ、こ、こんばんは……」
唯の衣装のぺったんこの胸元が際どくて僕はどぎまぎが止まらない。
「ふふっ。楽しんでいって下さいね」
両手で僕の手をぎゅっと握る。柔らかで指の長い手の感触に僕はドキッとする。
「今日はなんだかいつもと違うな」
「そお? いつもとおんなじよ?」
僕のお酒を作りながら涼しい顔で言う唯。いつもとは違う様子の唯とは言え、結局話すことは変わらず、ほとんどが音楽のことだった。好きな指揮者は誰かとか楽団はどれかとか、そんな話で三時間も盛り上がる。おしゃべりに興じながらも僕の目はサンタコスの唯に釘付けだった。唯は相変わらず僕にしなだれかかってきていたが、僕はもうあえてそれを止めはしなかった。
お会計の時、唯からサンシーロの外で待ってて、と言われる。外で三十分ほど凍えて待っていた。するといつもの質素な格好で化粧も落とした藍が大きな紙袋を持ってお店を出てきた。笑顔の藍は僕を見つけると駆け寄ってきて抱きついてくる。僕はそれをしっかりと受け止めた。
「ねえ奏輔、あたし可愛かった?」
僕は少し照れながら答える。
「あ、ああ、可愛かった」
「だめだよ」
「えっ、なにが?」
「『すごく可愛かった』って言ってくれなきゃ」
少しふくれっ面をする藍に僕はたじたじとなる。
「あ、ああ、『すっごく』可愛かった」
と僕は辛うじて答えた。
「んふ」
藍は僕にしがみ付いたまま胸に頭を擦り付けてくる。僕はそのさまが可愛くてつい藍の頭を撫でてしまった。つややかな髪の感触が気持ちいい。
「さっ、アフターしよ」
「アフター? どこで。情けない話だが金ならもうないぞ」
「ん、あたしんち。この前来たでしょ」
「ああ」
「もうあらかた準備できてるし、さ、急ご」
「お、おおいっ」
藍は僕の手をきゅっと握ると引っ張って走り出す。その薄くて指の長い藍の手の感触はやはり心地のいいものだった。
藍はお店から持ってきた紙袋から骨付きチキンやケーキまで取り出してくる。
「すごいな、こんなに」
「へへっ実はお店のあまりもの」
「なんだ、いいのか?」
「食べて美味けりゃいいの」
「いや、そういう問題じゃなくてさ」
小さなちゃぶ台に小さなキャンドルを二つ置いて火を点け灯りを消す藍。
「おお、部屋はぼろいが雰囲気は充分だな」
「ぼろいは余計」
茶化した僕は藍に足で蹴られた。
隣り合って座った僕たちはチキンとケーキを肴に安酒をちびちび飲みながらまた音楽談議に花を咲かす。小さなテーブルを鍵盤に見立て連弾をして笑い合う。いつの間にか僕の好きなアシュケナージの話になり、延々と僕が一人語りしてしまった。
僕の独演会にしばしの間が生まれると、いつの間にか僕の隣に座っていた藍の指先がそっと僕の右手の指先に触れる。僕はそれを振り払わなかった。いや、振り払うことができなかった。少し冷たくて柔らかい藍の指の感触が心地よかった。藍の指は僕の手の甲を撫でる。
「なに」
少しぞんざいな調子で藍に問うた僕の声は少し上ずっていたかも知れない。
「ん」
藍は答えにならない答えをそっと吐くと、僕の右手甲の傷を指でそっとなぞる。
「これが…… この一本の線が、あんたのピアニスト人生をだめにした……」
「……ああ」
でも後悔してない。そう言おうと思った。
「あんたは全然詳しく教えてくれないけど、あたしこんな目に合わせた奴絶対に許しはしないから」
「許さないって、どうするんだ?」
「ぼこぼこにしてやる」
目を光らせて眉間にしわが寄る藍の顔。僕は藍が妙子さんとその前夫をぼこぼこにしているシーンを思い浮かべた。
「ははっ」
「なんで笑うんだよ」
「いや、すごく藍らしいなって」
「もお」
「ふふっ」
そろそろ頃合いかなと思った僕は、バックパックから派手でクリスマスらしいラッピングがされたプレゼントを引っ張り出す。
「わあ」
藍は目を輝かせてラッピングを乱暴にはがす。中に入っていたのはざっくり編まれたオフホワイトのマフラーだった。
「お前いつも寒そうな格好してるだろ」
目を輝かせたまま、さっきより顔を赤くしてこっちを見る藍。
「嬉しい! 嬉しいよ!」
早速首に巻く藍。
「ああ、よく似合ってる。あったかいか?」
「うんっ! すっごいあったかい!」
喜色満面の藍。
その藍からのプレゼントはいずれも暖かそうな手袋と靴下だった。
「うん、ありがとう藍」
「へへっ、奏輔の程じゃないけどね」
「そんなことない。嬉しいよ」
マフラーをしたまま藍が僕の右手の指に指を絡ませてくる。そのまま僕にしなだれかかる。いつもなら引き剥がすところだが、今日に限ってはそれが出来なかった。いつもは強気なのに時々こうして甘えてくる藍が愛らしかった。
「もう寝ろよ。だいぶ回ってんだろ。布団ひくぞ」
「こうさせて……」
小さな声で呟く藍。僕は藍の好きにさせた。藍は僕の腕に腕を絡ませ、さらに寄りかかってくる。
「あたしね」
「うん」
「あんたが言うから練習やってるんだから」
「は? 自分のためじゃないのか。そもそも自分から言い出しといてそれはないだろ」
「ううん。奏輔のため八割、自分のため二割」
「なんだそれ」
「ふっ、だから、これからもレッスンよろしくね」
「はは、頑張るよ。でも一番に頑張らなくちゃいけないのはお前自身なんだからな」
「はあい」
僕はこうして藍とピアノの話をするのが好きだった。僕と藍とは確かにピアノで繋がっている。強い絆がある。一方で僕は思った。僕とすがちゃんの間にはどんな繋がりがあるのだろう。その時僕の右手が疼いた。そうだ、この傷。僕とすがちゃんは、僕のピアニスト人生を終わらせたこの傷で繋がっている。そんなものでしか僕とすがちゃんは繋がっていない。そう思うと僕は暗澹たる気分にさせられた。
「どしたの」
ハッと我に返る。
「いや、なんでもない」
「何か考えてたでしょ」
藍の声はどこか問い詰めるような響きがあった。
「いや」
「うそ」
「うそじゃない」
藍の二本の腕が僕の腕をぎゅっと締めつけてきた。薄い胸の感触がわかるくらいに。キャンドルに照らされた藍の尖った鼻が見える。
「今日だけでいいからあたしのことだけ考えててよ……」
その言葉に僕は胸がつまりそうになった。
「……そうする」
二人で言葉少なに酒をあおる。
藍が僕から身体を離すとマフラーをほどいた。それを僕と藍の両方の首に巻き、また僕の腕にぎゅっとしがみ付く。僕は藍のなすがままだった。
僕の右肩に頭を預けていた藍が無言になったので覗き込んでみると眠っていた。マフラーをほどき、この間と同じように布団をひいて藍を寝かす。その傍らで僕はちびちびと酒を飲みながら藍を眺めていた。
藍と過ごす生活。それを想像してみる。きっとピアノの響きに満ちた生活だろう。しかし、もう満足にピアノが弾けない僕にとっては、それはどれほど苦痛に満ちた日々か。ましてや藍のような天才、異才の
それとは別に、藍そのものについてはどうか。いつもがさつで人を食ったようなふざけた態度を見せる。しかし不思議とそれを嫌味とは感じさせない。むしろ魅力に感じる時すらある。くるくるとよく動く瞳は時折僕の目と心を鋭く射抜く。身体と腕は細くとも、柔らかに僕にまつわりついてくる。さっきの藍の手の感触を思い出した僕はぞくりとした。もう一度、その手に触れたいと思った。その時いつも柔和な表情の妙子さんのことは完全に僕の頭の中から消えていた。
僕は藍に向かって手を伸ばした。その時あの傷が目に留まる。この傷が、と僕は自分の手の甲を見つめる。キャンドルの明かりに照らされた白っぽくて細い筋。この細い傷痕さえなければ僕は藍ともっと対等に過ごせたのだろうか。いいや、違う。それは思い上がりだ。こいつは正真正銘の天才だ。たとえ僕に傷がなかったとしても、僕のような凡人にはとうてい手が届くような相手ではない。
僕の心は二分されていた。藍の吸い込まれるような魅力と、藍への嫉妬と。僕は穏やかな寝顔で安心しきって眠る藍に触れることもできずに、その
◆次回
第29話 初詣
2022年8月4日 21:00 公開予定
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