第26話 雪華コンクール
ジュラフスキーとの約束の日。僕が駅ピアノに着くと、そこには既にジュラフスキー(の通訳)と歓談する藍の姿があった。藍はすっかりリラックスした表情で親し気に会話を楽しんでいるように見える。本当に大物だ。僕はがちがちに緊張しながらジュラフスキーに挨拶をした。
「こんにちは。またお会いできるなんて光栄です」
ジュラフスキーもにこやかに答えてくれた。
「こんにちは。私も会えてうれしいです」
ジュラフスキーは早速話の本題に入ってきた。
「さあ、君が今までどれだけ学んで成長したか見せて下さい」
「それが、そうもいかなくなってしまったんです」
僕は自分の右手の甲をジュラフスキーの前に掲げた。その手の甲には一本の細くて白っぽい線が浮き上がっている。
「なんですって。これは一体、どういうことですか。教えて下さい」
通訳の声も緊張している。
「知り合いの女性を刺そうとする前夫を止めに入って切られました」
「何てことですか。前夫が? 元妻を?」
「自分の手を守れなかった僕はピアニスト失格です。ですが後悔はしていません。この傷は僕の勲章です」
その言葉に藍の表情が硬くなる。しかし僕はそれに気付くことはなかった。
「そうですか」
「はい」
言葉少ななジュラフスキーは明らかに落胆しているようだった。
話を持ち掛けるなら今かも知れない。
「よろしいでしょうか」
「なんですか」
「僕の代わりと言っては何ですが聴いてほしいピアニストがいます」
「どなたでしょう」
一歩前に出てジュラフスキーの前に立つ藍。
「私です、先生」
その笑顔は自信に満ちていた。
驚いた顔をするジュラフスキー
「
「あ、あの、ちょっと待ってください彼女は僕のパートナーと言うわけではなくてですね、いやちょっと聞いて下さい、お願いですから」
僕の重要な主張は通訳に見事にスルーされた。
「何を弾いて下さるんですか」
笑顔を見せるジュラフスキー。だが見方によっては藍に良い演奏ができるのか値踏みをするような目つきにも見える。
「それは聴いてのお楽しみです」
挑むような目つきで不敵な笑みを浮かべる藍
ぱたぱたと小走りにピアノ椅子まで行き、すとんとピアノ椅子に座る藍。ゆっくり手を掲げるとそっと鍵盤にタッチする。驚いたことに緊張のかけらもない。いつもの演奏の時と全く同じだ。演奏する曲はリストの超絶技巧練習曲集第11番 「夕べの調べ」変ニ長調。十二曲ある超絶技巧練習曲の中ではかなり簡単な方なので、藍でも本気になれば正確に弾けるだろうと踏んでいた。あとは藍の表現力がどれほどジュラフスキーに届くかだ。
始めジュラフスキーは少し不思議そうな顔をしていた。しかし、それは次第に驚きと喜びが一体となった表情に変わっていく。僕が聴く限りでは今のところ藍の演奏はパーフェクトだ。このまま最後まで弾き切ってくれよ。
ジュラフスキーが驚き呆れ嬉しそうな表情のまま軽く首を振る。何がしかつぶやいていたかも知れない。
ほぼノーミスで演奏が終わると、大きな拍手を送り「ブラボー!」と歓呼の叫びを上げるジュラフスキー。通訳も手を掲げて大きな拍手を送っている。勿論僕もだ。今までの練習よりよい出来だった。本番でベストの結果が出せるとはなんてくそ度胸だ。
こちらまで小走りで戻って来る藍。少し顔が上気している。
「素晴らしい演奏。ユニーク。ユニーク。そしてユニーク。実に美しい。初めて聴きます。なんと言うことでしょう」
興奮してしゃべるジュラフスキーの言葉を通訳が早口で翻訳する。
「これだけの表現を誰から学んできたのですか」
僕が口を挟んだ。
「誰からも学んできません。彼女は自然や風景など、様々な心動かされるものや、人々との交流から直接学びました」
「驚くべきことです」
興奮冷めやらぬジュラフスキーは改めて藍の方を見る。
「技巧的にはそれなりでしょう。ですがそれはもうどうでもいい。あなたの豊かで独創的な演奏は稀有のものです。私はまるで夏の祖国の町並みを歩んでいるような気がしました。そして夕暮れの鐘の音。本当に素晴らしいです。出来ることならこのままモスクワ中央音楽院に連れて帰りたいです」
モスクワ中央音楽院だって? 僕は想像以上の結果に笑い出しそうになった。モスクワ中央音楽院と言えば世界でも屈指の音楽学校で、藍がかつて在学していた桐光学園とは比較にもならない。一方で僕の目標としてはせいぜい顔を覚えてもらえばいいくらいにしか思ってなかった。あとは藍の人懐っこさで繋いでいければ役に立つコネになるのではないか、程度に。
このモスクワ中央音楽院に連れて帰りたい云々の話はどれだけ真に受けていいのか分からないが、これは大きなチャンスかもしれない。僕は切り出した。
「彼女はその強い個性ゆえなかなか適応できる組織がなく苦労しています。名門ではありますが旧弊にまみれた日本の音大はわずか五日で退学しました。学校組織内部との軋轢に繊細な彼女は我慢ならなかったのです」
ジュラフスキーはひげをいじりながら楽しそうな顔をする。どうもこの話が気に入ったようだ。
「なるほどなるほど。真の天才にはありがちな話だ」
僕は驚いた。そう言うってことはつまりジュラフスキーもまた藍を天才と認めたということか。僕は自信を持った。
「なので現在の彼女は、ここで一日数曲を弾くくらいしかピアノと接する機会がないのです。僕は現状を大変憂いています」
本当は音楽教室のピアノ練習室を借りてそこそこ練習はしているのだけれど。
ジュラフスキーは目を閉じ、ひげをいじりながらうんうんと何度も頷く。僕の言葉を待っているようだ。そこで僕は最後の勝負に出る。
「僕は彼女に、その才能に見合った音楽教育を受けさせてやりたいのです。もし先生のお恵みでご紹介いただける学校があればすぐにでもそこで学ばせてやりたい」
要はジュラフスキーのコネを使ってどこか捻じ込んでもらえる音大はありませんか、ということで、かなりえぐいお願いではある。藍はまた僕の隣に密着せんばかりに近づいていて緊張の面持ちを見せる。
ジュラフスキーは軽く天を仰いで笑った。
「なるほどいいでしょう。先ほど言いました通り、モスクワ中央音楽院はいかがですか? あそこ以外にあなたを置きたくはない。それは大きな損失になりますから」
これまでの藍の評価からすれば過大評価ではないかと思えるほどのジュラフスキーの言葉だ。
藍をモスクワ中央音楽院に迎えたいというあまりの結果に僕たちは顔を見合わせた。藍が思いっ切りハグしてこようとしたので僕は全力でもってそれを阻止した。でも気持ちはわかる。
「ただし」
ジュラフスキーが今までと違う笑顔で僕たちに話しかけてくる。あ、この顔はヤバい。危険信号だ。藍が時折見せる笑顔と同じで、何かいたずらを思いついた時の顔だ。
「コンクールに出てみて下さい」
「コンクール?」
僕と藍はハモった。
「
通訳は分厚いファイルの束から一発で探し当てたコンクールのパンフを僕たちに渡してくれる。
「これです。よいしょ。ちなみに金賞を取ると私…… あ、私ではなくジュラフスキーとですね、連弾できるんですよ。今年からの新しい企画です」
僕たちはパンフを眺める。確かにジュラフスキーも写っている。
「これに出て下さい。そして金賞を取って私と連弾しましょう」
僕は急に不安になった
「あの、金賞を取れなかったらどうなるんでしょう」
ジュラフスキーの顔は実に嬉しそうだ。
「その時はモスクワ中央音楽院の話はなしです。大丈夫です。
楽しそうな顔をするジュラフスキー。一方僕は心の中で歯噛みした。ジュラフスキーめ、藍を試しているな。
思いっ切り僕に寄りかかる藍。僕が持ってるパンフをのぞき込みながら、あっけらかんと言う。
「うん、じゃあやってみよっか」
「えっ」
そのあまりにものんきな発言に僕はびっくりした。
「んっ?」
そんな僕の不安そうな顔が不思議だと言わんばかりの表情でほほ笑む藍。いつものことだが僕は楽天的な藍に呆れた。が、ジュラフスキーの言う通り、うまくいかなかった時のことを考えたって仕方がない。僕は深呼吸をして少しだけ平常心を取り戻した。藍を身体から引き剥がして言う。
「まあいいか、とにかく受けてみよう」
「うんうん、あたしジュラフスキー先生と連弾してみたい!」
「私もしてみたいです。その日がとても楽しみです」
この日はお互い手を振ってそのまま解散となる。ジュラフスキー一行を見送ったあと、僕たちは駅のベンチに腰掛けた。脚をバタバタして興奮の冷めやらない藍。
「あー!いきなり留学先決まっちゃった! おじさまになんて言おうかなあ!」
僕はチラシの裏の詳細を詳しく眺めながら呆れたように言う。
「まだ全く何も決まってないんだが。とにかく目の前の課題をクリアしよう。
このコンクールを通じ、とにかく藍を高く売りたい。ふとあることを僕は思いついた。
「なあ藍」
「うん?」
僕にしては珍しく不敵な笑みを浮かべる。
「どうせなら変わったことをやってみないか?」
この実に僕らしくない言葉にきょとんとした藍。しかしすぐさまその眼がキラッと光る。
「いいね。そういうの大好き」
藍もまたニヤリと笑った。
◆次回
27.譜面とクリスマスイブと野心
2022年8月2日 21:00 公開予定
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