第24話 教授

 暖房の効きが悪い寒々としたピアノ練習室。僕は呟く。


Larghettoラルゲット


 ピアノの音が流れる。


Larghettoラルゲット


 僕はもう一度言う。少し強く。言い聞かせるように。

 しかし音の歩みは変わらない。


Larghettoラルゲットっ! Largoラルゴじゃないっ、遅いっ、あと無視するなっ」


 僕は目の間でピアノを弾く藍の頭を丸めたノートでぽこんと叩いた。ピアノの音が止まる。


「いてっ、もお固いこと言うなよお」


 藍が不満そうにこっちを見る。


「それと結構すっ飛ばしてたけど、それもわざとか?」


「へへっ、さすがお耳がいい」


 茶化したような笑みが小憎らしい。僕はまた軽くぽかりとする。


「いてっ、この暴力教師」


「お前が基礎を習得し直したいと言うからこうしてわざわざ俺が出向いてきてるんだぞ。少しは真面目にやれ」


「真面目だよお」


「お前の表現力はすごい。それは間違いない。磨けばフランチシェクコンクールのファイナリストにだってなれる」


「まじ」


「まじまじ」


 僕は丸めたノートで藍の頭をポンポンと叩く。


「いてっいてっいてっ」


「ただし今のままじゃ100年どころか1,000年早い」


「だから教えてって言ってるんじゃないか」


「『だから』教えるとおりにしろ! もう一回最初から! こんなにあっさり暗譜できてんなら、一回でいいから寸分違わずに演奏してみろ! できるくせに」


「はあい」


 今度はきちんと楽譜通りに演奏する藍を後ろから眺めながらぼんやりと考える。確かにつまらない。こんな藍の演奏はつまらない。本人もつまらないのだろう、なかなかミスが減らない。僕はため息をついた。藍は極端すぎる。原曲を吹っ飛ばして、挙句解釈とアレンジの区別がつかない時もある。


 演奏が終わった藍が振り向く。


「今の調子でミスなく弾けたら今日はおしまい。あとは好きにしていいよ」


「えー、ノーミス?」


 藍はうんざりした顔になる。


「お前ならできる。自分の力をちゃんと引き出せ。集中するんだ。お前の地力をもってすれば難しいものじゃない」


「難しいんだけどなあ」


「これくらいは序の口だ。例えば千メートル走みたいなもんだ。千メートルを走れない選手には一万メートルは走れない。千メートルの積み重ねが出来る選手だけに一万メートルを走る力が備わる。基礎の積み重ねが出来て初めて人はもっと遠くに行けるんだ」


「別に走んないんだけどあたし」


「ものの例えだって。それに藍の弱点克服にもなる」


「弱点? なにそれ」


「ムラだ。藍の演奏はすごいけど、その都度違う。僕が聴いた中でも一つの曲で同じ演奏は一度もなかった。それをいいとする向きもあるのかもしれないが、僕に言わせれば藍の場合、単にコントロールが出来ていないだけだ。その場の雰囲気や気分だけで演奏しているからだ。いくら表現力が稀有でもそれでは話にならない。基礎がなってないからそういうことになる。もっと曲の本質を掴むんだ。それにはひたすら練習するしかない」


 藍はふくれっ面でピアノに向き直りはじめから弾き始めた。今度は随分いい。ノーミスとは言わないがだいぶ改善された。集中してい弾いているのがわかる。弾き終わるとやはりふくれっ面のまま呟く。


「つまんない……」


「そのつまらないことが連なる山々の向こうに面白いことがある。それも今まで以上に面白い新しい景色が」


「あたし山登んないんだけど……」


「ものの例えだって。上手くなりたいんだろう。コンサートホールで称賛されたいんだろう」


 鍵盤に側頭部を乗っける藍。でたらめな音が響く。


「わかんなくなってきた……」


 僕は呆れた。


「おいおい、一日目で挫折するなよ……」


 天才というものは困ったものだ。努力を知らない。いや、あれ?「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」って誰か言っていたな。藍にはその1%はある。間違いなくある。となるとあと藍に足りないのは残りの99%ということか。努力とひらめきが合わさってこそ真の天才と言えるわけだ。僕は言葉を変える。


「藍が努力できないなら僕の教授もこれで終わりだな」


 ピアノ椅子が倒れそうなぐらいの勢いで思いっきり振り向く藍。


「えっ、やだそれなんでっ」


「努力はピアノの基礎中の基礎だ。それが出来ないんじゃ僕が何を言っても無駄ってこと」


「むう」


 藍はまたピアノに向き直ると勢いよくショパンの夜想曲ノクターン第1番 変ロ長調 Op.9-1を弾き始めた。最初こそ無駄に力が入っていたが、すぐに落ち着いてくる。そしてやすやすと原曲通りノーミスで弾き終わった。


「やれば余裕でできるのに。やっぱ藍は天才だ」


 僕は半ば感心しながら称賛する。


「変におだてないでよ。あたしがあほみたいじゃん」


 へそを曲げた藍から笑顔が生まれることはなかった。でも藍がまがりなりにもその気になったのだから、よしとするか。これから演奏技術を一体どれだけ藍に叩きこむことが出来るだろう。


 僕は一計を案じていた。右手を負傷した僕の代わりにジュラフスキーに藍の演奏を聴かせてみてはどうかと。

 そして、その藍の演奏を聴いて果たしてジュラフスキーが何と思うだろうか。是非とも藍のことを気に入って欲しいと願う僕だった。

 これは藍にとって千載一遇のチャンスになるかもしれない。そう思うとおのずと僕の気持ちも引き締まった。


◆次回

第25話 ニュークラ

2022年7月31日 21:00 公開予定

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