10.擬態とマスク
9月6日 火曜日 午後7時45分
僕と葉はターミナル駅の西側。アーケード商店街にあるベンチに二人で並んで座り、行きかう人々の中から、今夜の狩りのターゲットを遠くから観察していた。
「こんばんわー! 居酒屋どうっすかー?」
「今夜の店決まってますかー?」
「今なら席すぐご案内できますよー!」
夜のアーケード商店街は居酒屋のキャッチで溢れていた。元々この街の夜の店は、AIAのアジトがある飲み屋街付近の店が栄えていた。しかし数年前の新型感染症の流行時に飲み屋街の店舗は軒並み営業を自粛。結果、その時も営業を続けていたアーケード商店街近くに点在する、良くない居酒屋に客が流れるという事態が起きた。現在も飲み屋街よりアーケードから裏路地に入ってすぐの、ぼったくり居酒屋の方が繁盛しているという状況になってしまっている。飲む場所で病気なるかならないかが変わるわけではないのに、そういった行動をとった過去の大人たちの思考が、未だに僕には理解できなかった。
「レプトこれを見て」
物思いに耽っていた僕に、葉は小型の双眼鏡を差し出す。僕は双眼鏡を覗き込み、先程まで葉が見ていたターゲットを観察する。僕が見た限り、そいつはただの居酒屋のキャッチにしか見えない青年だった。身長180センチ代。根元が黒くなっている金髪で、店の名前が書かれた前掛けを付けている細身の男子大学生風のアルバイト。通行人に声をかけず、スマホをいじっているその姿は、昨夜遭遇したような悍ましい魚人間には到底見えなかった。
「麻霧さ……アルミ、あれが本当にインスマスなの?」
訝しげに葉を見る。だが葉はこちらに目を向けず、自前のリュックサックの中身を取り出していた。
「インスマスは人間に擬態することができるの。歳をとると難しくなるけど、あれくらいの年齢なら、ほぼ完ぺきに擬態できる」
彼女は僕をみないまま、自分の首筋を指さした。
「でも特徴は残る。やつらには鰓があるのだけれど、擬態中もうっすらその跡は線として見えるの」
僕は改めてキャッチの青年を見た。確かに首筋に黒い線のようなものが三本見える。ただ双眼鏡越しだからか、しわのようにも浮き出た血管にも見え、鰓のように見るのは難しかった。
「あいつが一人になったところを狙う。それまでは張り込みと準備」
葉はリュックサックに入れていたアルミホイルとガムテープでマスクを作っているようだった。手際よくアルミホイルを張り合わせ、視界確保の穴を指で開ける。
「アルミは専用のマスクを用意しないの?」
「ええ、これが一番いいわ」
マスクを完成させると、それを折りたたんでミリタリージャケットのポケットにしまい、二つ目のマスクを作り始める。
「凝ったマスクを一つ持つより、戦闘中に壊れたときにすぐ替えられるマスクを二つ持った方が安心よ」
自分はDWを耐えられるらしいが、そうでない可能性がある人物がマスクの選択をするなら妥当な判断だ。
「紙製だと雨に濡れたら破れる。ビニールは加工が面倒。布製も同じく。消去法でアルミホイルが一番扱いやすかった。だからこうしてるの」
冷静な口調に相違なく、彼女の理論には隙が無かった。彼女の理路整然とした狩りの作法に感心していたところ、僕のスマホが鳴った。アーケード街の騒がしさの中では周囲の気を引くものではなかったが、葉は僕を咎めるように睨む。
「ご、ごめん。すぐ戻る」
僕は葉に頭を素早く下げ立ち上がり、彼女から少し離れたところで通話に出た。
『やっほー今何してるー?』
スマホの向こう側から琉衣の声が聞こえてきた。
「……なんにも。珍しいな通話かけてくるなんて」
しかもよりによって今。普段は作品の完成もメッセージで報告するのに。
『いやぁ、バイト上がったらクラスのみんなと会ってさー。今みんなで駅前のサイゼ行こっかって話になってるの』
僕はこの後彼女が口にする言葉を知っている。その返事はもう僕の舌先まで到達していた。
『みんな、今朝のこと気になってるみたいだよ。まだ図書館にいるなら、よければ侍も一緒に来な――』
「無理だ。金がない」
本当のことだった。クラスメイトたちにはリーズナブルで長く居られる所でも、僕にとっては5日分の夕食代が一瞬で消える場所だ。祖母の受け取る年金を無駄遣いはできないし、かといって保証人がつかない未成年のバイトを雇いたがるところもない。なので僕の財布は常にギリギリだ。
「いつも誘ってくれてるのにごめん」
『いいの、いいの! 気にしないで!』
琉衣も何かと機会があればこういったことに誘ってくれるが、その度に断ることに罪悪感と羞恥心を覚える。祖母を施設にいれた時、金がない僕を見かねて琉衣がクレープを奢ってくれたときがあったが、あれほど恥ずかしかったこともない。僕は友人と対等の立場でいることすら難しいのだと思い知らされたから。
『あっ、もしかして今、葉ちゃんとデート中だったりー?』
当たらずとも遠からず。ジェンダーレスの時代にふさわしくないが、女の勘は実在するのだという考えが強くならざるを得ない。
「いや、一人だよ。これから家に帰る」
『そっか、気を付けてね』
嘘がばれた様子はないが、琉衣の声は不機嫌そうだ。僕はきわみの言葉を思い出し、相手が目の前にいないにも関わらず平手を顔の前で立てる。
「ごめん。本貸す約束、すっぽかした」
『ばーかばーか、今更思い出したかー』
いつも一緒に食べる昼飯を、今日は葉と食べてしまった。AIAへの加入の話で混乱していたこともあり、すっかり約束のことが頭から抜け落ちていたのだ。約束を反故にした追及を口頭でする権利くらい、琉衣にはあるだろう。
「明日、必ず渡すよ」
『おっけー……ああ、約束を破る男でも許しちゃう私は心が広いなぁ』
その通りなのだが、そこまで恩着せがましく言われると、謝罪の気持ちはたちまち萎んでいく。
『侍、そんな優しい私にしときなよ!』
「はいはい、じゃあまた明日」
琉衣が何か言いかけていたが、僕はそのまま通話を終了させた。すかさず琉衣からのスタンプの嵐が僕のスマホに現れるが、返事は後だ。今は他に急ぎの用がある。僕が走って葉の元へ戻った時、彼女は丁度ベンチから立ち上がるところだった。
「奴が動くわ。行きましょう」
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