3.ボブディランと創作小説
9月5日 月曜日 午前10時32分
夏の暑さがまだ残る午前の休み時間。僕は教室の自分の席で必死に自分に言い聞かせる。
(大丈夫だ侍。自分なりに色々調べた。人にも聞いた。きっと話を合わせられるはずだ)
何度か息をのんで、僕は意を決して左隣の席の女子――僕が想いを寄せる少女、麻霧 葉を横目でちらりと見る。自分と同じ年齢のはずなのに、僕にはその姿がどこか大人びて見えた。彼女は休み時間になると決まってイヤホンで音楽を聴いている。アンニュイな表情で窓の外を眺める葉には、氷のような鋭い美しさがあり気品すら感じさせられる。僕はその上品な城砦を攻略すべく勇気を振り絞る。
「あ、あの……!」
「……何?」
僕が話しかけると、葉はつけていたイヤホンの右耳の方を億劫そうに外し、目線だけをこちらに向ける。イヤホンの先端は型落ちの音楽プレーヤーに繋がっている。
「その、何聞いてるのか気になって」
「……」
葉から帰ってきたのは重々しい沈黙だ。僕の五臓六腑が即時撤退を求めをキリキリと痛んでいる。
「えっと、最近僕もよく音楽聞いてて……麻霧さんいつも何聞いてるのかなって……」
どんな演説家も顔負けの主張をする胃痛を無視して、なんとか言葉を紡ぎ出す。
「……ボブ・ディラン」
短くも明瞭な回答が葉から返される。やった! 会話が成り立った! 欲望に忠実な僕の内臓たちはたちまち手のひらを返し、冷静さを取り戻す。だがコンマ数秒後、僕の中の最高司令塔である脳が絶望を体全体に伝えた。
(……ボブ・ディランって誰?)
全く知らないアーティストの名前だ。悪友に聞いた流行りのポップシンガーでも、毎週サブスクのトップランキングに君臨するエモい歌詞が魅力の二人組でも、動画サイトでよく使われるK-POPグループでもない。もしかして僕の知らないマイナーなアーティストなのかもしれない。いやそもそも『ボブ・ディラン』という名前の曲なのかもしれない。想定外の言葉に僕の体からは冷や汗が噴出する。
「ボブ・ディランの『Desoleation Row』」
「へ、へぇ。いい曲なの?」
冷たい彼女の表情に美しさを覚える一方、焦りは募るばかりだ。自分の作り笑いはかなり醜いものになっていることに嫌でも気がつく。
「ええ、とてもいい曲」
「そうなんだ……」
僕の要領を得ない相槌を聞き終わった葉は、イヤホンをまた右耳に戻し自分の世界へ戻っていった。
僕はゆっくりと自分の机の方に向き直ると、休み時間の残りの時間をやり過ごすため、そして敗北感から逃げるために腕を机の上で組んで顔をそこに埋めた。
◆
「で、玉砕したんだ」
「玉砕してない、戦略的撤退だ」
昼休み、僕は教室で冷めた総菜パンをかじりながら、目の前の悪友、
人懐っこい顔つきで、暗め茶髪をウルフカットにしている琉衣は、実情を知らなければそこそこ可愛い女の子だと男は判断するだろう。スタイルもいいため、モデルの仕事だって出来そうだ。凡庸な顔つきの僕が共にいることで、その可愛さが際立っているようにも感じる。
「まぁ、葉ちゃん美人だからなー。目に見えて負けると分かるのに、突っ込む侍や男子たちの気持ちも分かるよ」
「まだ戦ってもいない、訂正してくれ」
琉衣は僕の苦々しい表情など気にせず、お昼のサンドイッチを大きく口を開けて齧りとる。本人も自覚はしているだろうが、この気さくな美少女だって男子にはかなりモテる。僕が片思いする葉が一匹狼のような孤高の美しさが魅力だとすると、琉衣は柴犬のような愛くるしさと明るさが魅力だ。葉の美しさに惹かれて玉砕した男子がいる一方、琉衣の可憐さに惹かれて告白し、泣かされた男子も多い。
そんな琉衣へのイメージを頭の中で巡らせていたところ、琉衣はごくんと大きな音を立ててサンドイッチを飲み込み、目を閉じて急に腕を大きく横に広げた。
「……何?」
「侍、私にしときなよ。きっと後悔しないよ」
しみじみとそう宣う琉衣のブラウスに覆われた胸が、腕を広げ背筋を伸ばしていることで強調される。だが僕の中の劣情がそれによって膨れがることはなかった。いや、むしろしぼんでいきさえする。
「そんなこと言ったって、レビューはよくならないぞ」
「そう! それだよ! 書いてたミステリーモノ、完結させたよ! どうだった?!」
琉衣は突然前のめりになり、机に体重をかけながら僕に顔をぐいっと寄せる。口元にサンドイッチのドレッシングソースがついた顔から、僕は思わず身を引いた。
気になる女子に声をかけることさえ一大イベントになる内向的な人間の僕が、何故この美少女と貴重な昼休みの時間を共にするのか。理由はここにある。僕は彼女の小説の数少ない読者で、専属レビュアーなのだ。
「送ってもらったやつ、一応読んだよ。そんなに感想が欲しければ部室に行けばいいじゃないか」
「やーだー。だって野郎の部員は胸しか見ないし、女の子は私の小説嫌いっていうし」
「二つ目に関しては気持ちは分からなくはない」
琉衣は僕の反論にむー、と頬を膨らませて抗議する。僕ら二人は形式上、当地方都市にある公立高校の文芸部員だった。僕は読書が好きなため。琉衣はバイトや友達と遊ぶのに時間を使うために、幽霊部員でも問題になりにくいという理由のため、同じ部活に所属していた。
だが僕らのような若輩者の思惑なんてものは上手く運ばないものだ。僕は読むのはいいが、書くのは苦手、というか嫌いレベルの人間だということに入部してから気づいた。逆に籍を置くだけだったはずの琉衣は、入部したときに書いたグロテスクな殺人事件の短編小説を僕がべた褒めしてしまったことで、物語を書くことの楽しさに気づいた。
そうして僕らは幽霊部員、もとい文芸部の独立愚連隊として活動するに至った。授業やらバイトの合間に書いた、文芸部員の誰しもが忌避する冒涜的描写の玉手箱である小説を琉衣は僕に送り、僕は感想を送る。互いにクラスは別だし、琉衣は放課後すぐにバイトに向かうので、二人揃って顔を合わせられるのは自然と昼休みになる。そのためこうやって毎日二人で喧々諤々と膝を突き合わせ、琉衣のグロテスク要素てんこ盛りの小説やら互いの近況について語り合うのだ。
「で、どうだった? 最後泣けた?」
「いや、途中で緊張感が無くなってそんな気分にはならなかった」
僕の辛辣なコメントに琉衣はうなだれる。彼女が書き終えたのは中編のミステリーだった。男女のバディの刑事が犯罪者の顔を剥ぎ取る猟奇殺人者を追う、というものだ。文芸部の部長を嘔吐させた彼女の持ち味であるグロテスクな殺人描写と、惹かれあう二人の刑事の恋愛模様が織り込まれた琉衣らしい作品ではあった。ただし、
「刑事二人が話の半分くらいでくっついた……彼氏彼女になったじゃないか」
「うんうん。あそこはかなり気合入れたんだ」
少しでも自分の作品を良くしようと、琉衣は顔を上げて僕に向き合う。この前向きさは僕の好きなところでもあった。
「描写は文句ないよ。でも恋愛要素がある作品で男女がすぐくっついたら、その後が消化試合みたいになるじゃないか」
「そういう恋愛小説の結構あるよ?」
「……くっつくまでの過程をもっと楽しみたいのに、急にそれが終わったらちょっと拍子抜けだろ?」
「……確かに!」
琉衣は空いている左手で膝を打つ。ひとまず納得してもらえたようで安心した。
「刑事たちの恋愛が終わっちゃったから、それ以降、並行して進む殺人鬼の描写が蛇足に見えるんだ。仲間外れにされてるみたいな」
「それは葉ちゃんにフラれたやっかみ?」
「うるさい、フラれてない」
僕は極めて素早く明瞭に、机に頬杖をついて真摯なレビューをからかう三文小説家の茶々を退ける。
「だから、それが重要なファクターでない限り、恋愛の成就は作品の最後に持ってくるべきだよ。今回のミステリーは特に成就後の関係がカギになるわけでもないし」
「ふむふむ、最後にするっと」
琉衣は画面が一部割れたスマートフォンを机に置き、僕のレビューをメモしていく。
「ほはには(ほかには)? はにはない(なにかない)?」
琉衣は残ったサンドイッチを口に押し込む。
「食べながら話すな……さっきは辛らつに言ったけど、実は結構好きな構成ではある」
「え?! ほんと?! やったー!」
琉衣は思わず立ち上がって両手を上げる。声のボリュームが大きく、教室で昼食をとる面々の視線を集めてしまった。どうして女子高校生という生き物はリアクションのテンションが高いのか。理解に苦しむ。
「恋する二人の『甘い緊張感』と、顔を剥ぎとる殺人鬼の『辛い緊張感』の違った緊張感の同居が途中まで上手く行ってて、飽きずに読めたよ」
恋愛がメインの小説はあまり読まないたちなのだが、その僕が先が気になって読み進めてしまったあたり、このバランス感覚は見事と言える。素直に賞賛すべきものだ。
「改稿して賞にだしても良いんじゃないか? 受賞もあるかもしれないよ」
前向きに努力する彼女の小説は、日に日にクオリティが上がっている。それと同時に彼女の好きなグロテスク描写にも磨きがかかり、読みにくくなっていることも事実なのだが。だからといって、僕しか彼女の物語を読まないのはあまりにもったいない。
「いやぁ、それはないない。侍が葉ちゃんと付き合うくらいない」
「はったおすぞ」
「きゃー侍こわぁい。でも、ちょっと危険な男も好きだよっ! やっぱり私にしときなよ!」
再度、自分の胸に飛び込むよう腕を広げる琉衣へ、僕は野良猫でも遠ざけるように手を払った。知り合った当初から、琉衣はこうやって僕にマウントをとろうとする。僕も最初こそ美少女からの好意を伝えられる言葉にどぎまぎしたが、その頻度があまりに多く、もう慣れっこになってしまった。彼女はまた慌てふためく僕の姿がみたいのだろうが、そうは問屋が卸さない。
「でもさ、こんな美少女の誘いを断っちゃうのにさ」
「自分で美少女とか言うなよ」
琉衣はにししと笑いながら椅子に座り直す。
「なんで葉ちゃんのことは好きになって、付き合いたいなって思ったの?」
僕は押し黙る。気恥ずかしさで顔が上気するのが自分でも分かる。
「やっぱり顔? 葉ちゃんお尻も胸もそうでもないよね」
「セクハラ親父か」
僕は卑しくも可憐な琉衣から視線を外し、周囲に葉がいないことを確認する。
「なんて言えばいいんだろう、今年のクラス替えで一緒になって、隣の席になって、普段の姿とか、ふと聞いたときの声とかすごく安心できて……」
目の前の悪友はにやにやしながら聞いている。黙れ僕の口蓋と内心叫ぶが、この想いを誰かに聞いてほしいという意志も確かにあった。
「でも、ちゃんと言葉にして『これ』ってのはないんだ。ほら、言うだろ? 好きなものはただ好きでいいって。理由付けすると嘘になるって」
「つまり顔が良かったと」
「話聞いてたか?」
恋愛の繊細さを理解しない彼女に、男女のラブストーリーを書かせないほうが良いと確信した。
「ごめんごめん。じゃあ、はずかすぃ話をしてくれたお礼に良いことを教えてあげよう」
さして反省もしてなさそうににやけながら、彼女は僕に顔を寄せ声を潜めて語る。琉衣からは男子からは絶対しないであろう、甘い香りが漂っている。
「この街にはね、魚人間が潜んでるんだって」
前言撤回。駅前の市場の匂いがしてきた。
「また小説のネタ探しにネットで変な都市伝説でも漁ったのか?」
数週間前にはお札を畳むと秘密結社の紋章が現れる、と与太話を聞かされた気がする。
「いやいや、これはマジのガチなんだって! うちのクラスで聞いたんだよ。ここ最近、駅前の繁華街とかアーケード商店街あたりで変な人たちを良く見かけるって」
人口密集地に多様性ある人種が流れ込むのは不思議ではないのではないか。反論を挟みたいが、悪友の主張をひとまず聞いてやる。
「それでね、仮面を被ったりやばげな仮装してる人たちがいるんだけど、その中に本当に本当の怪物がいて、それが海から来た魚人間なんだって」
彼女の語り口のせいなのか、まるで恐怖を感じない。それが僕の表情に現れたのを察してか、彼女は話を大げさに盛り始める。
「でねでね! その魚人間は夜な夜な川から街に上がってきて、繁殖のために女の子を攫っちゃうんだって!」
魚人間だけに、話に尾ひれと背びれがつく瞬間を見る。
「きゃー! 怖い! 侍、帰るときボディーガードしてよ!」
「……その『作り話』には欠陥が二つある」
僕は右手人差し指を立てる。
「ひとつめ。魚人間も『人間』なら女性別の個体がいるだろ。わざわざ人を攫う必要がない」
「侍と同じく、ふられちゃったのかも」
最初に中指を立てておくべきだったと後悔するが、後悔先に立たず。僕はしかたなくピースサインを作る。
「ふたつめ、生まれ持っての魚人間より、ハロウィン前から仮装して街を闊歩してる人間の方がやばい」
数秒の沈黙。
「……確かに!」
「いや最初に気づけよ」
こうやって僕の昼休みは無為に終わっていく。いつも通りの昼休み。いつも通りの日常だった、しかし数時間後、僕はこの時、悪友からこの話をもっと詳しく聞くべきだったと、後悔する事態に陥ることになる。
魚人間は本当にいたのだ。
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