魚人殺しのレプト

習合異式

1章 だから僕は魚人間を殺す

1.だから僕は魚人間を殺す


 10月20日 木曜日 午後11時10分


 優しく雨が降る繁華街の裏路地を、奇怪で悪趣味な姿をした男が走る。


 僕だ。


 ゴムで出来たトカゲの頭部を象ったマスクをかぶり、返り血がすぐ払えるようなポリエステル製のダークブルーのウインドブレーカーと、目立たないグレーのカーゴパンツに身を包んでいる。それが僕、青座あおざ はべるの現在の姿だ。

 1ヶ月と少し前、僕は取るに足らない、つまらない、何者でもない17歳の高校生だった。でもこの1ヶ月と少しの時間が僕を好きな人のため仮面を被り、夜の街を疾走し、この世の悪を刈り取る男へ変えた。


 今の僕はヒーローだった。


『<レプト>、東側から追い込む。二人で仕留めましょう』


 マスクの奥。耳に装着したインカムから涼やかで、雨で重たくなる街の空気を取り払うような少女の――僕の好きな人の声が聞こえる。<レプト>というのは<奴ら>と戦うときの僕のヒーローネームだ。好きな人が僕を呼ぶ声は、僕の頭を冷まし、同時に熱くする。彼女の期待に応えたい。その思いで地面を蹴る足の強さが増す。


「Gyuuuuuuuiiiiii!」


 僕が追跡の速度を上げたことに呼応するように、ビル群で出来た壁を乱反射して、追跡している<奴>の名状しがたく、おぞましい吠え声が街に響いた。

 好きな人の声の余韻を消し去るようにこだましたその雄たけびは、僕の機嫌を悪くするのに充分だった。

 路地の袋小路に僕が辿り着くと、そこにはこの世に存在が許されていることが憚られるような、醜悪な見た目をした怪物が僕を待ち受けていた。


 都市の僅かな光に曝された<奴>は人ではなかった。僕は怪物、トカゲ男の偽物だが、目の前の相手は紛れもない怪物だ。

 大きく曲がった背。異様なほど青白く、たるんだ皮膚。かぎ爪のついた手の指の間にはヒレのような膜が張っている。<奴>の頭部にある口は前方に突き出し、薄い唇からはギザギザした小さな歯が覗き、目玉は異様なほど巨大で黒く濁っている。強いて簡潔に形容するなら、この怪物は魚の頭を持つ人間、魚人間だ。

 これが僕の戦う敵。<インスマス>だ。忌まわしき邪神の末裔にして、仄暗い陰謀の流布者。他種族を孕ませることで生きながらえる卑しい魚人間。それが<インスマス>だ。


「Ia! tougun ftan Cotuluf!」


 インスマスは聞くに堪えないチャントを叫び、カエルが跳ねるような動きで水たまりだらけの地面を駆け、自分を殺そうとする僕に対し、起死回生の突撃をしてくる。インスマスは単純だ。対処法を知っていれば恐れるに足らない。僕は落ち着いて背負ったリュックサックから得物を取り出す。

 取り出したのは長さ50センチほどの黒い金属製の棒だ。先端の一方が曲げられてあり、両端が鋭利な棘のような形状になっている。金梃バールのようなものが形状としては近いだろう。僕はそれを両手で持ち、曲がった先端部を地面に向け構える。

 曲げた背で分かりにくいが、このインスマスは背が高く、攻撃のリーチも長い。僕の武器を見て自らが有利と判断したそいつは、かぎ爪を僕のマスク付きの顔に突き立てようと大きく腕を振る。


 しかしその攻撃は僕に届くことはない。インスマスのかぎ爪が僕の体に突き立てられるより早く、僕は金梃状の武器を振り上げ、持ち手ついているスイッチを押す。スイッチが押された瞬間、金梃の先端が50センチほど延伸し、鋭利な突起がインスマスの醜く足るんだ下あごに突き刺さった。

  顎と下に穴が開いたインスマスは痛みから逃れるよう僕から距離を置き、防御態勢をとる。


「Gyhiiiiiii!」

「悪いな。ただのバールじゃないんだ」


 インスマスは自分が勝てないと判断したのか、雑居ビルの非常口を見つけると、一目散に背を向け逃れようとする。


「逃がさない」


 僕は手に持っていた金梃状の武器の、もう一方の曲がっていない先端をインスマスに向けると、先程とは別のスイッチを押し込んだ。「バシュッ」という音と共に、尖った金梃の先端がミサイルのように飛び出し、インスマスのふくらはぎに突き刺さる。インスマスは再度襲ってきた痛みに苦し気な唸り声をあげた。発射された先端は棒状の本体とワイヤーで繋がっており、僕が再度、発射した時と同じボタンを押すとワイヤーが巻き戻り、まるで魚釣りのように転倒してうつぶせになったインスマスを僕の方へ引っ張る。


<VAL(バール)>。対インスマス用に開発された武器はやすやすと、必死の抵抗を見せるインスマスを僕の元まで引き戻した。

 あたりに人がいないことをマスクの狭い視界で確認すると、僕は手に持った<VAL>本体の曲がった尖った先端をインスマスの頭頂部に振り下ろす。

 汚らしく、短い断末魔が聞こえた後、インスマスは絶命した。



「レプトごめんなさい、間に合わなかった」


 インスマスにトドメを刺した直後、背後からイヤホン越しではない、僕の好きな人の声が聞こえた。僕は振り返る。

 こういう時、いかに彼女が美しいかを語るべきなのだろうが、それは叶わない。身長が僕より少し低い彼女もまた、今は素顔が見えない。ミリタリージャケットに身を包み僕を見上げる彼女の顔もまた、マスクで覆われているのだ。

 僕とは違い、彼女のマスクはお手製だった。アルミホイルをガムテープで張り合わせて袋のようにし、目の部分にのぞき穴をあけて視界を確保している。そこから覗く彼女の切れ長で意志の強さを感じさせる目が、僕のトカゲマスクの顔を見つめている。


「大丈夫だよ<アルミ>。追い込みありがとう」

「私は大したことしてない。すごい、今夜ので10体目」


 僕の好きな少女――アルミと呼ばれたアルミホイルの覆面の少女は、インスマスの死体に視線を落とし、僕に近づく。僕も自然と死体に視線が向く。インスマスの死体はすぐに劣化が始まる、死亡してから十数秒も経つと、その青白くたるんだ皮膚は緑色に変色し溶け始める。現に今仕留めたインスマスの死体も既に原型をとどめずにいた。数分も立たないうちに骨格だけになるが、その骨も脆く、明日の朝には粉々になっているだろう。

 僕がインスマスの死体から顔を上げると、アルミはその手製の覆面を破って取り外していた。卵が割れるように、彼女の美しい顔が現れる。

 色白の肌が裏路地にもたらされる粗雑な光を受け映し出される。都市の夜が忘れてしまったような深い黒の髪は、肩よりも長く伸び、雨に輝く。その薄い唇からもたらされる彼女の称賛に僕が酔いしれていると、アルミ――麻霧あさぎり ようは僕の体に抱き着いてきた。僕は硬直し、今しがた怪物の命を奪った武器を地面に落とす。


「レプト、あなたに会えてよかった」

「……ありがとう」

「あなたが居れば、こいつらなんて怖くない。街の人たちも安心して眠れる」


 僕の耳には葉の言葉の殆どが耳に入っていなかった。心臓がサイレンのように拍動し、体温が高まる。幸い、僕はまだマスクを取っていないのでにやけきった顔は見られていない。


「ずっと、ずっと一緒にいて。私の最強のヒーローでいて」


 マスクの狭い視界のせいで葉の表情を見ることは叶わない。しかし熱を帯びた声でそう懇願する葉の言葉は、僕にはすべてを肯定する理由になった。

 僕は冷静を装って彼女の両肩に手を置き、ゆっくりと体を左右に揺らす。

 そんなこと頼まれるまでもない。大したことではないということを語るように、彼女と踊る。葉もそれに答えるよう、僕に合わせて体を揺らす。裏路地で怪物の死体を足元に、僕らはワルツを踊る。こうやって好きな人と触れあいたい、彼女の細い体に頼ってもらいたい、自分の欲望を満たしたい――


 だから僕は魚人間インスマスを殺す。

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