Day2 金魚 少年、金魚を食う
少年の前には金魚の甘露煮が置いてあった。
「何十年ぶりかねぇ、金魚の甘露煮作るのは」
豪快に笑い声を立てる老婆が少年の隣りに座るお兄さんにも甘露煮の入った器を置く。
「ありがとうございます。まだこの郷土料理を作って下さる方がいてとても嬉しいです」
「何の、若い人が覚えてくれているだけで嬉しいですよ」
にこやかに会話するお兄さんと老婆を前にした少年は、笑みを顔に貼り付けていた。
なぜ少年が文化人類学者のお兄さんと一緒に金魚の甘露煮を前にしているのか。話はしばらく前に遡る。
少年は炎天の中、図書館へ向かっていた。まだ午前中だと言うのに太陽は元気に少年の頭を焼いている。落ちた汗が片端から蒸発するほど暑い。むしろ熱い。
半袖パーカーにジーンズ姿の少年は、夏休みもまだ始まりだと言うのに、宿題をしようとする殊勝な心意気を掲げていた。
「お、この間の少年じゃないか」
前から歩いてきたのは、少年が先日黄昏時に会った文化人類学者を自称するお兄さんだった。
「勝手に借りてきた服は怒られなかったかい?」
「洗って返したので大丈夫でしたよぉ」
平然とした顔でそう返しながらも少年は、女装していた事実を根掘り葉掘り聞かれるのではないかと内心焦っていた。
お兄さんはその焦りを見透かしたかのように微笑んで「同じ顔なんだから同じ人なんだと思ったんけど?」とだけサラリと言った。
「時に少年、お腹は空いていないかい?」
少年は怪しむ目でお兄さんを見返した。
「いかのおすしか……」
実に感心な小学生じゃないか、とうんうんと1人で頷くお兄さん。
「あの土地は知り合いにちゃんと許可を取ってフィールドワークに使わせて貰っていた土地だよ。君があの土地の持ち主の家の子なら身元証明出来てるって事だと思うけど」
「じゃぁこう言いますね、小学生も暇じゃないんですよ」
「プールもアイスも駄菓子屋もいつでもあるけど、金魚の甘露煮は今日しかないんだよ」
少年が断る暇もなく「さあ行くぞ、少年!」と声高らかに宣言したお兄さんに手を取られて(連行とも言う)、少年は知らない老婆の家に連れて来られたのだった。
「あらまぁ若い子が2人も婆のところに来てくれるなんてねぇ」
「先にお伝えしなくてすみません。こっちの少年は文化人類学に興味あるそうなので、連れてきちゃいました」
「1人も2人も同じだからね、良いのよ良いのよ」
ニコニコしながら出迎えた老婆は、早速2人を台所に通すと、蓋の開いたクーラボックスの中でゆらゆら泳いでいる金魚を見せた。
「用水路にね、誰かが小さい金魚捨てたみたいでねぇ。隣組で拾ってきた人がいたから譲って貰ったのよ」
「この感じは小さめの和金ですかね」
「種類はわからないけどね。さ、ちゃっちゃっと料理しますよ」
老婆は冷凍庫からアイスブロックを出してくるとドボンドボンと躊躇なくクーラーボックスに投入する。いきなり氷漬けになった金魚たちは、痙攣しながらゆっくり動かなくなっていった。
「小魚なので氷締めするんですね」
「これだけ小さいとね。一匹ずつ締めるのは結構大変だもの」
後ろで見ている少年の顔から血の気が引いているのに気がついた老婆が、にっこりと微笑んだ。
「残酷に見えるかな、若い子には。でもね、普段食べてるどの肉も魚も誰かが締めてくれてるんだよ」
小さく少年が頷いたのを確認すると、老婆は動かなくなった金魚を手に取ってまな板に乗せる。金魚の腹に包丁を滑らせると、慣れた手つきで内臓を除去していった。
「ワタを取らないと苦くなるからねぇ。生きて丸ごと煮る方法もあるんだけどね、若い子はこっちの方が良いかと思って」
内臓を取った金魚を串に刺すと、コンロにレンガを並べて、網も載せて、その上に串刺し金魚を並べ始めた。
「遠火の強火ね。これが一番魚が美味しく焼けるのよ」
やがてふっくらと焼けた白身魚のような香りが漂ってきた。
「甘露煮はこれからよ」
大きな鍋を引っ張り出してきた老婆は、鍋底に木の皮を敷き、その上に串から外した金魚を菊の花のように円状に並べ始める。
「こう見ると、金魚もフナの仲間だって感じがしますね」
「そうでしょう。昔はどの家でも作ったことがあったものだけどね」
梅干しを入れ、金魚たちがひたひたになるくらいに水を入れる。砂糖や酒もバサバサ入れる。どうやら目分量のようだ。
「強火で沸騰したら、後は弱火で2時間30分くらいかな。そのあと醤油も入れて1時間30分。最後に水飴を入れて混ぜて冷めたら出来上がり」
「時間かかるんですね……」
唖然とした少年が呟く。
「そうよぉ。昔は食事作るのはとっても時間かかるものだったんだから。今は甘露煮なんてスーパーで買えて楽よねぇ」
しみじみ言う老婆には長い時間を見てきた重さがあった。
「あら、もしかして今日食べられないと思った?」
ふと、少年とお兄さんの呆然とした顔を見た老婆が含み笑いをする。
「ふふ、昨日のうちに甘露煮作っておいたのよ。だから食べてもらうのは今のお鍋じゃなくて、こっち」
冷蔵庫からタッパーを老婆が引っ張り出すと、お兄さんの肩から力が抜けた。
そして、冒頭の状況になったのであった。
「ささ、上がって、上がって」
「いただきます!」
お兄さんはやたらと目を輝かせているが、少年の方は怖がっているのか奇妙な笑顔を引き攣らせている。
「おぉ、美味しいですね」
一口食べるなり、頬を押さえるお兄さん。
「せっかくだから食べなよ、少年!一生のうちに2回目食べられるかわからないんだから。勿体ないお化けが出ちゃうよ」
圧の強い笑顔のお兄さんに覗き込まれた少年は、嫌だとも何も言えなくなり、覚悟を決めて金魚の甘露煮を箸でつまんだ。少年の脳裏にはクーラーボックスで優雅に泳いでいた金魚や氷を入れられて動かなくなった金魚、ワタを取られて行く金魚の姿がフラッシュバックする。
金魚の白くなった目と視線が合ったような気がした少年は少し躊躇した。
「何のために生きて、何のために死ぬか──?」
お兄さんの言葉に少年が振り向いた。
「この金魚は用水路にいた。誰かが捨てたのか、生簀から逃げたのかはわからない。だけど、用水路の水は夏の間しかないんだよ。何にもならず、やがて干からびる為にただ生きるのが良いのか、誰かの一部となるのが良いのか。どうだろうね」
少年は唇を噛んで、考えている。
「金魚の気持ちなんてわからないから、僕の妄想だけど」
言い切る前。少年は金魚の甘露煮の欠片を口に放り込んだ。ゆっくり咀嚼した少年は噛み締めるように呟いた。
「おいし、い、です」
「そうかい。それなら良かったよ。婆も役に立てたね」
笑みを深くした老婆がお茶を啜る。
「良いですね、金魚の甘露煮。用水路に居ただけにちょっと臭みがありますけど、この甘じょっぱさは白米に合わせたらもっと美味しくなりそうです。身もふっくらしていて美味しいですし。うん、日本酒を冷で行きたいな」
「昼間からお酒ですか、文化人類学者のお兄さん」
「例えばの話ですよ。嫌ですねぇ」
「白飯くらい出しますよ。お味噌汁もつけましょうか。もうお昼ですからね」
「そんな時間ですか。いやはや申し訳ない」
「若い子がいると家の中が明るくなって良いのよ」
よっこいしょ、と言いながら立ち上がった老婆はひょこひょこと台所へ消えていった。
「そう言えば、なんで金魚の甘露煮だったんですか?」
白飯と一緒に一口食べてみたところから少年は箸が止まらなくなったようだ。もぐもぐ口を動かしながらお兄さんに聞く少年。
「金魚の甘露煮はこの町の郷土料理だよ。学校の授業には出てこないのかい?」
お兄さんに聞かれて少年は首を横に振る。
「授業に出るとは思えないねぇ、アタシが作ったのも何十年ぶりか忘れるくらいだからね。アタシの小さい頃は金持ちになれるって言ってハレの日に食べるモンだったけど」
「確か、金魚は富や幸運の象徴でしたね」
「そうそう。金魚は見た目が金色だからね、甘露煮にして食べるともっと光るから」
ふふ、と笑う老婆。
「だけどね、金魚を食べると脚気になるとも言われててね。だから、欲をかくとろくなことがないって意味もあると思うんだよね」
「金魚で脚気ですか」
「細かいことは知らないけどねぇ」
「脚気の原因はビタミンB1不足……とすれば、金魚の肉にはビタミン吸収を阻害する物質が入っているのか、ビタミンそのものを壊すのか……いずれにしても、昔の人の知恵でしょうねぇ」
「そうでしょうとも。古くから残るものにはきちんと意味があるものだと思ってますよ」
お土産と称して、それぞれ金魚の甘露煮を渡されたお兄さんと少年は、老婆の家から家路についていた。
「どうだった、少年?」
「金魚を食べようなんて考えた事なかったです」
「そりゃそうだ。僕もここの図書館で郷土資料を見るまで知らなかったよ」
あはは、と笑うお兄さん。
「プールとも駄菓子屋とも違う面白さがあったでしょ」
図書館には勉強のために向かっていただけだったが、訂正するのもどうでも良いと思った少年は「そう言うことにしておきます」とだけ答えた。それから公園の時計が目に入って声を上げた。
「あ、早く帰らないとでした!言ったより遅く帰ったら親が心配しそうなので、急いで失礼します」
「そうかい、よろしく伝えといてね」
駆け足で去っていく少年を見送ったお兄さんは、「説明口調すぎるよ」と半笑い呟いた。夏のぬるくて湿気を含んだ風だけが声を聞いていた。
家に帰った少年は、夕飯の時にも白ごはんと一緒に金魚の甘露煮を食べてみた。
甘じょっぱい金魚の甘露煮はほろほろと崩れて、少年の口内で溶けていった。誰もいない家の中、少年はまた唇を噛んでいた。
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