第7話 黒いアレ…
「にゃーーーーー!!!!!」
「と、藤次さん?!!!」
梅雨のジメジメした日曜日の朝。
洗面所から藤次のなんとも言えない悲鳴が聞こえたので、何事かと絢音は向かってみると、廊下で腰を抜かした彼の姿が視界に飛び込む。
「ど、どうしたのよ。変な声出して…」
「で、でででで出た……」
「何が?」
「ご、ごごっ、……いや、口出すんのもイヤや。あの、黒い…飛ぶ虫…」
「黒くて飛ぶごのつく虫……?」
んー?と、首を傾げて考え込んでいたら、カサカサと、洗面所の壁に走る黒い影。
「ひっ!!!!」
青ざめ、絢音の足元に縋り付く藤次。しかし…
「ああ。なんだ。ゴキブリ…」
「へっ?」
狼狽する自分とは対照的に、絢音は冷めた目で目の前のゴキブリを見つめると、徐に履いていたスリッパを脱ぎ、狙いを定めてそれに叩きつける。
乾いた音と共に、木っ端微塵になったゴキブリの亡き骸をティッシュに包んで捨てると、絢音はにっこりと、呆ける藤次に笑いかける。
「これで良い?」
「……えっ、あの…おま、こ、怖ないんか?ご、ごき…」
「たかが虫じゃ無い。大体、この長屋古いでしょ?しょっちゅう見てるから慣れたわよ。駆除剤や色々手は尽くしてるけど…梅雨時だからかうじゃうじゃ出てきて…やんなっちゃう。」
「うじゃっ……!!」
戦慄する藤次を他所に、絢音は溜め息混じりに呟く。
「バルサン焚いてみようかしら。それとも、ワンプッシュでいなくなる薬剤?でも、あれって死骸が沢山出るから、掃除大変なのよねぇ〜。ねえ、どう思う?」
「いや…その…死骸って、どれくらい?」
「さあ?でも、1匹見たら物陰に30匹って言うじゃない?なら、それくらい?」
「さんッッッッ!!!?む、無理やっ!!!そんなん見るのも触るんも無理ッッッッ!!!!やるんなら、ワシおらん時にやってくれっ!!!後生や!!!!」
そう言って盛大に土下座をするので、絢音は眉をへの字に曲げて訝しむ。
「やあねさっきから。言ってるじゃない。たかが虫だって。毒があるわけでも噛み付くわけでもないのに、何が怖いのよ…」
「なにて…全人類、産まれた時から植え付けられたこの不快感と恐怖を、どう説明せいっちゅうーねん!!」
「全人類って、おおげさねぇ〜。まあ、いいわ。殺虫剤の場所教えておくから、これからは自分で処理してね。じゃあ、朝ごはんの用意があるから。」
言って、スタスタとその場を去っていく絢音の小さな背中が、妙に頼もしく見えて、藤次はポツリと呟く。
「人は、見かけによらんな…」
結婚2年目。まだまだ彼女の知らない面が沢山あるのだと思い知りながら、藤次は再び、洗面所で身支度を再開した。
【終】
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