桃原に花の咲く頃(六)


 ホン大慶ダーチィと名乗った壮士を前に、ホージェはしばしの間、固まってしまった。

 どうしたものか考えあぐねているらしくもあり、改めて先の自分の行いの中に恥じ入るものを見つけたようでもある。

 いずれにせよこの応対で〝かなえ軽重けいちょう〟を問われるとでも思ったのか、何捷の面差しは慎重なものとなっていた。


 その横顔を、明璇ミンシォンは、シュイユィンの腕の中から見ている。

 徐云――彼女にとっての〝小云シャオユィン〟――が怪我するかもしれなかった危機を、この少年何捷は払ってくれたのだ。

 感謝の意を伝えたいと、明璇は静かに声をかける時機タイミングを見計らっていた。

 そうして中々声をかけられないでいると、何捷が背筋を伸ばし、両の腕を突き出すようにした。伸ばした右の手を握り、左の手のひらで包むようにして一礼する。拱手きょうしゅの礼だ。拱手された方――洪大慶も、やれやれと綻びそうになる表情を引き締め、同様に拱手を返した。

「ご忠言、いたみいります。たしかに剣を下ろさなかったのはわたしの非礼……」

 先ほど処士を相手にしたときの〝投げやりな物言い〟とは打って変って、声までも凛として、年齢とし不相応な落ち着きを見せている。

「…――己が未熟さを忘れた軽挙でした」

 さて、洪大慶はというと、そう殊勝に出られれば、いよいよ何とも言えぬ笑みとならざるを得なかった。〝以後は気をつけられよ〟と軽く手を振ってその場を去ろうと背を向けようとする。

 明璇は、ようやく声をかけられる段となったと判じた。

 そのとき……、

「――お待ちを! 先生は境丘の学士とのこと……」

 何捷のわずかに上擦うわずった声が洪大慶の動きをとどめた。

「お願いします! わたしを、弟子にしてください」

 懸命の声音とともに、いま一度、深々と拱手をした何捷の肩に、切り揃えた黒髪が流れる。

「…………」

 これにはさすがに洪大慶も面食らった様子となった。何捷の深く下げられた頭を見下ろし、真に困ったような表情となる。

 と、中年男の、これは愉快愉快といった哄笑が聞こえてきた。徐云が、その笑い声にハッとそちらを向く。その際、洪大慶の表情かおがほっとしたように変わったように云には見えた。

 人垣を割って、背は人並みだが恰幅かっぷくのいい、黒染めの質素な着衣を纏った中年の男が姿を現した。


南宮ナンゴン老師せんせい!」

 果たして現れたのは、やはり境丘界隈に住む墨家、南宮ナンゴンタンだった。

 南宮唐は、思わず声を上げていた徐云を置いておいて、先ず何捷に向かって言った。

「雛が若鶏を困らせておるわ。だがこの大慶ダーチィは、弟子を育てられるほどの器に育ってはおらぬぞ。まだまだ自分のことで精一杯……」

 その言葉に拱手をして応える洪大慶の表情は、やれやれ助かった、と言わんばかりなものだった。

 そんな洪大慶を見て、何捷もまた拱手をして南宮唐に頭を下げる。

ホージェ……と言ったか。そういう訳だ。もうこれ以上この男を困らせるのは止めたがよいが、いやあそれにしても、そなたも中々に……」

 何捷は拱手したまま伏せた顔を強張らせたが、そのことをわかっていたのは、この場では南宮唐だけであったか……。

「なるほど、たしかにここ境丘門で騒いでみせることで耳目を集めようとした先の男はあざといといえるが、そなたはをまんまと利用した……いや中々、中々。――ああ、わしは境丘に学ぶ南宮ナンゴンタンという」

 南宮唐の丸い坊主頭の乗った顔には人懐こい笑みがある。が、その目は笑っているのかいないのか……。

「まあ、そうまでして境丘に学びたいという熱意は買うが、そなたくらいに目端が利けば、師は選ばねばな。互いに禍患かかん(不幸)となろう。大慶ダーチィ故、要らぬ苦労を背負わせるな」

 からからと笑ってそう言う南宮唐に、何捷はとっさに応える言葉がなかった。見透かされていたのだ。そのことに、自分で自分に溜息が出そうになる。

 だが、

 ――ここで退いてしまっては何の意味もなくなる……。


 何捷は、若いなりにその頭脳を働かせ、あれこれと思案し始めるのだったが…――。

「そなたのような〝一癖ある〟ものでも招じ入れてくれるような度量の広い男をひとり知っておる。紹介状を書いてやろう」

 そのように申し出た南宮唐に、何捷は拱手を解いて怪訝となった顔を上げた。

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