番外編2.アルフォンスとシャルロッテ
シャルロッテは窓の外を見上げて、切なげな吐息を漏らしていた。
十二歳の少女のものとは思えぬ、憂いに満ちた眼差しを曇り空へと向けている。
今日はこれから一雨来そうな天気だ。山の端は霧でにじんでおり、室内の空気もどこか湿った気配がする。
しかしシャルロッテが気にしているのは、午後の天気ではない。
「惚れ薬、かぁ……」
シャルロッテが考えているのは――セシリーが作ろうとしたという薬のことだ。
魔女の血を継ぐというセシリー。
飛竜などの古代の魔法生物と同じで、現代に魔女はほとんど残っていないとされる。セシリーの正体についてもシャルロッテは箝口令を敷くことにした。
といっても、ジークに従う聖空騎士団が情報を漏らすことはないだろう。彼らは強い絆で繋がった家族のような関係なのだから。
そしてシャルロッテにとってのセシリーも、今や大切な友人なのである。
彼女は自分を愛する様子のないジークに魔法が込められた薬を飲ませたという。グレタも夫と結婚する前に一服盛ったのだそうだ。
「好きな人ができたら、惚れ薬がほしくなるのかしら?」
恋を知らないシャルロッテには、彼女たちの気持ちが分からない。
恋愛には憧れるが、男の人は怖い。それに、自分が自由に誰かと恋できるような身の上でないことも分かっている。
兄たちは嫌がるかもしれないが、いざとなったらシャルロッテは政略結婚して、他国の国王か王子にでも嫁ぐことになるだろう。
別にそんな自分を不幸と思っているわけではないが、自ら幸せをつかみ取ろうと努力しているセシリーたちを見ていると、なんともいえない気持ちにさせられて。
「もしかしてシャルロッテ殿下。惚れ薬を飲ませたい相手でも居るんですか?」
「!」
シャルロッテはぎくりとした。
そういえば――すっかり忘れていたが、現在は護衛の騎士がひとりついていたのだ。
そいつは気配を消して、壁に背中を預けて佇んでいた。
侍女は用事があって部屋を出ている。今は二人きりだったのだ。
最近のシャルロッテが、少しだけ男性への態度を軟化させているので、侍女たちはちょっぴり気を抜いている。それはシャルロッテも同じだった。そうでなければ、気配を消しているからといってそいつが部屋に居るのを忘れたりはしなかっただろう。
「――ぶ、無礼なことを言わないで! 下半身のくせに!」
「無礼でどうもすみませんねぇ」
へらへらと笑う男――聖空騎士団副団長アルフォンスを、シャルロッテはキッと睨みつける。
この遊び人っぽい伯爵家の三男が、シャルロッテはどうにも苦手だ。
目つきが凶悪で近寄りがたいジークは、喋ってみると案外ふつうで、セシリーのことを語る彼を見ているとシャルロッテは心がぽかぽかするのを感じた。
だが、アルフォンスの場合は違う。彼は外見通り軽薄な男だ。
王城内で見かけたときは、たいていいつも違う令嬢を連れ歩いている。軽薄ナンパ男は、シャルロッテにとって忌むべき下半身の筆頭と言える。
「それで? 惚れ薬がほしいなら木の上から取ってきてさしあげましょうか」
「……っ」
揶揄するようなことを言われ、シャルロッテはむーっと口の端を歪める。
子どもっぽいと言われたくないから、ピンクブロンドのウェーブがかかった髪先を引っ張って口元を隠す。そんな仕草こそ幼いのだと、本人は気がついていない。
「わ、わたしには惚れ薬なんて必要ないわ。それに意中の相手だって居ません。もしも何かの間違いで、そういう人ができたとしても――師匠にお色気術を習えばいいし!」
つっけんどんと言い返すシャルロッテ。
ちなみに師匠とシャルロッテが呼び慕う相手はグレタである。子持ちの母親とは思えぬほどお色気むんむんなグレタに、シャルロッテは強い憧れを抱いていた。
匂い立つようなお色気――あれに憧れぬ女子は居ないだろう。
(師匠は本当にすごい人……またセシリーと一緒に遊びに来ないかしら……)
昨日も三人でお茶を楽しんだのだが、最近はランプス家の親子と過ごす時間が楽しくて、シャルロッテは恋しく思ってしまう。
セシリーに言われて、現在シャルロッテは侍女の力を借りてマーケットの準備も進めているのだ。市井で開かれているようなものではなくて、知り合いの令嬢たちを集めて小物を売るような会を考えている。もちろんセシリーも参加してくれるので、シャルロッテは準備に張り切っている真っ最中である。
「……お色気術、ですか」
だが、アルフォンスは何やら暗い顔をしている。
いったい何が言いたいのだろうか。シャルロッテはむかむかしてくる。
いつもは聞いてもいないのに饒舌に語り出すアルフォンスだ。お喋りばかりで護衛にならないから外してくれとジークに遠回しに頼んでいるくらいだ。
しかしジークがシャルロッテを軽視しているのか、キチンと意図が伝わっていないのか、事あるごとにアルフォンスが護衛に寄越されてしまう。困ったものだとシャルロッテは思う。
長い髪をかき上げて、シャルロッテは顔を背ける。
「そ、そういう下半身こそ、惚れ薬なんて必要ないんでしょうね。それほどの下半身なら、女子のほうから近づいてくるでしょう」
ああ、いと哀れなり。
まるで見た目ばかりは華麗な花の蜜を、一心不乱に求める蝶の群れ――アルフォンスに騙される女子たちのことを思うと、シャルロッテは涙が出てくる。
そうして涙をにじませていると、アルフォンスが珍しいものを見たように目を見張っている。
次はなんなのだ、とシャルロッテが思っていると。
「シャルロッテ殿下。もしかしてやきもちですか?」
「、…………は?」
「オレがモテるのが、いやなのかなって」
(はい?)
シャルロッテは死に際の魚のように、口をぱくぱくとさせる。
それはいったいどういう意味だ。やきもち? 誰が?……シャルロッテが?
(……わたしがやきもちを焼いている、ですって?)
もはやシャルロッテには理解不能の戯れ言である。
「か、勘違いしないでちょうだい。わたしはあなたに騙される可哀想な少女たちに同情しているだけよ!」
「そうですか? てっきりオレは」
「う、うるさいうるさいうるさーい! もういいわ、出て行ってちょうだい! アルフォンスの下半身はいっつもうるさいの! これなら団長やシリルの下半身のほうがよっぽど信頼できるんだから!」
癇癪を起こしたシャルロッテはきぃきぃと喚く。
シャルロッテはおしとやかな姫君。普段はこんな風にみっともなく喚いたりはしない。
だけど、なんでか、アルフォンスを前にするとシャルロッテはお猿さんもかくやというくらい取り乱してしまうのだ。それはきっと、アルフォンスがいつもシャルロッテをからかうから――。
バン!
と硝子を叩く強い音がして、シャルロッテは固まった。
――もしもここにセシリーが居たならば、「か、壁ドンだわ! 憧れ!」と大騒ぎしていたに違いない。
だが、残念ながらこの場に騒がしい彼女の姿はなく。
壁際に縫いつけられるように挟まれてしまったシャルロッテは、呆然とアルフォンスを見上げた。小柄なシャルロッテは、首が痛くなるくらい持ち上げないと、アルフォンスと目が合わなかった。
アルフォンスはこれ見よがしに溜め息を吐きながら、強い光を湛える目で、至近距離からシャルロッテを睨んでいた。
視線が合うだけで、シャルロッテはぞくりとする。男の人の上半身とこれほど近くで向き合うのは、数年ぶりのことだった。もうこれだけでシャルロッテはびっくりして、腰を抜かしそうになる。
「焼いてないって言いながら、オレを焼かせる。……ずるい方ですね、姫殿下は」
「え……なに……」
「お色気術なんて、やめてくださいよ。これ以上ライバルを増やしたくない」
アルフォンスのやたら色っぽい囁きの意味が、シャルロッテの頭には理解できない。
理解できない、その結果――。
シャルロッテは叫んだ!
「――だ、だ、誰か来てええええっ! 下半身が暴れてるううううっ!!」
聞こえが悪すぎる悲鳴を上げるシャルロッテ。
アルフォンスがびくりとする。その隙にさっと逃げ出したシャルロッテは、口の横に手を当ててなおも叫びまくる!
「十二歳の女の子相手に下半身んんんんんんっっっ!」
「ま、ちょっ、オレが悪かったですから! 大人げなかったですから!」
優雅なる白亜の宮殿には、しばらく少女の悲鳴と謝る青年の声が響き渡ったという――。
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