期待

 クエルが目を開けると、再びこぶのようなものが二つ見えた。それにとても気持ちよく、柔らかいものの上に頭が乗っている。


 さっきイフゲニアに抱きしめられたのは、自分の夢だったのだろうか? それとも自分の男としての願望? だが両の頬からは間違いなく痛みを感じる。


「気が付いた?」


「フ、フリーダ!」


「もう、係官に体を支えてもらうだなんて、どんだけ貧弱なのよ。それに私がちょっと気合を入れただけで、気絶するだなんて、あり得ません!」


「気合?」


「そうよ。ちゃんと意識があるか、確認しないとだめでしょう。やっぱりクエルは体を鍛えるところからやり直しなさい!」


「そ、そうだね。イフゲニアさんは?」


 クエルの台詞を聞いたフリーダの目が、ぎらりと光る。


「気になるの?」


「いや、係官だから……」


「クエルのことは私に任せると言って、本部へ行ったわよ」


「ここは?」


「最初の集合場所。他の組は結果報告も終わって、解散になったみたい。どういう訳か、私たちの組だけは誰も戻ってこないのよね」


「そうだ。フリーダ、試合は?」


「もちろん勝ちました。クエルもジェームズさん相手に勝ったんでしょう?」


 フリーダがさも嬉しそうな顔をして見せる。


「どうしてそれを?」


「イフゲニアさんから聞いたわ」


「でも不戦勝みたいなものだよ。勝ちを譲られただけだ」


「おめでとう、クエル。勝ちは勝ちよ」


「うん。ありがとう。それにフリーダもおめでとう。これで僕らは……」


「ええ。国家人形師よ」


「もっとも、まだ候補生だけどね」


 それを聞いたフリーダが、指でクエルの額を小さくつついた。


「もう、素直に喜びなさいよ。そうだ。わたしからクエルにご褒美をあげる」


 フリーダは片手で髪を後ろへ跳ね上げると、顔をそっとクエルへ近づけた。クエルの唇がフリーダの熱い吐息を感じる。


「ここで昼寝をしていたのですね!」


 互いの唇が触れ合う直前で、背後から大きな声が聞こえてきた。フリーダが慌てて顔を上げる。クエルも、背中にバネを仕込んでいたみたいに飛び起きた。振り返ると、ムーグリィを始め、セシルにヒルダ、ルドラの四人がこちらへ向かってくるのが見える。


「クエル様、こんなところで寝ていると風邪をひきます」


 かなりの速さで駆けてきたセシルが、侍従服の上に羽織っていたコートをクエルへ差し出した。いかにも心配そうな顔をしているが、深紫色の目がじっとクエルを見つめている。


「セ、セシル、僕は大丈夫だから……」


「ご心配なく。クエル様と違って、


「そうよ。年下のセシルちゃんにまで心配されるだなんて、クエルは色々と軟弱過ぎ。だからイフゲニアさんにまで介抱されたりするんです」


 それを聞いたセシルが、さらに冷たい目でクエルをじっと見つめる。


『ま、まずい!』


 クエルの額から一筋の汗が流れ落ちる。あの黒い影などより、こちらセシルの方がよほどに恐ろしい。


「それよりもおなかが減ったのです。みんなで夕飯にするのです!」


「そ、そうだね!」


 クエルはセシルの視線から逃れて、ムーグリィに同意した。その先でみの虫みたいな何かが、吹く風にぶらぶらと揺れている。サンデーに首根っこをつかまれたスヴェンだ。クエルはスヴェンに肩をすくめて見せると、大きくため息をついた。





「こちらへ座らせていただいても?」


 その声に、競技場を見下ろすベンチに座っていた男性は、日に焼けた顔を上げた。視線の先には黒いコートを羽織った細身の男性が立っている。


「ジークか?」


「死ぬほど忙しいが口癖のお方が、優雅にお茶を飲みながら、選抜の観戦ですか?」


 その台詞に、日に焼けた男が真っ白な歯を見せて笑う。


「忘れたのか? 俺は休み、いや謹慎中だよ」


 その台詞に、細身の男は苦笑いを浮かべつつ、日に焼けた男の隣へ腰をおろした。


「忘れてましたよ。まだ謹慎中でしたね。もっとも、東領の連中に派手にやられた割には人的な被害はなし。実は休みが欲しかっただけじゃないですか?」


「おい。さぼりたいだけで、枢密委員からのつるし上げを食らう酔狂などいるか?」


「さあどうでしょう? 少なくとも一人はいる気がします」


 その台詞に日に焼けた男性が肩をすくめて見せる。


「それよりもジークフリード、ローレンツ家の次期当主で、若手官僚筆頭のお前こそどうした? 氷の心臓を持つと噂されるお前でも、血を分けたマクシミリアンのことは気になるのか?」


「ま事務処理しかできない私などより、弟の方がよほどにローレンツ家本来の才能にあふれています。この程度の茶番では、心配のしようもありません」


「だろうな。やはり息子クエルの方か……」


 そうつぶやくと、男は日に焼けた顔を、誰もいない競技場へと向けた。


「省ではすでに死んだことにしています。でもあなたがここにいるところを見ると、やんごとなき方々は、そう思っていないようですね」


 そう告げると、ジークフリードは誰も座っていないベンチとテーブルをちらりと見る。


「エンリケの唯一の手掛かりだ。誰もほったらかしなんかにしないさ。おかげで、とある方から国庫に損害を与えた分はちゃんと働けと言われたよ」


「だとしても、自分の部下相手に、あれはやりすぎでは?」


「おれのささやかな楽しみだ。奪うな」


 ニヤリと笑って見せた男性へ、今度はジークフリードが肩をすくめて見せる。


「あなたの技を知っていても、殺されずにいるだけで良しとしましょう」


「ジーク、丁度いい機会だ。人形省を牛耳っているお前に相談がある」


「牛耳っているとは人聞きが悪いですね。十分に休んで、表の仕事王都守護隊へ復帰したくなりましたか?」


「まさか。おれの左遷についての相談だよ。期待の新人の様子を、もっと近くで眺めたいのさ」


 そう言うと、男性は日に焼けた顔へ白い歯を浮かべつつ、皮のつば広帽をポンと叩いた。

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