蝶葬

田所米子

 麻友子の誕生日、十月二十日の花の一つは麻だ。小学生の時、学校の図書室の本で知ったのか。それとも市の図書館だったか。もしくは、当時はいた友人の本で、だっただろうか。もはやあの頃のほとんどは曖昧だが、これはだけはっきり覚えている。まるで青空を舞うカラスアゲハのように。

 十月二十日の花は他にも、竜胆――ちなみに竜胆の花言葉は「悲しんでいるあなたを愛する」だ――だとかブッドレアだとかエキザカムだかがある。けれどもあの頃の麻友子は、美しく可愛らしい花ではなく、麻の方が気になった。紹介文は片隅に追いやられ、写真すら載せられていなかったのに。自分の名前に麻が使われているという単純な、子供らしい理由で。もしかしたらこれは運命なのかもしれない、なんて考えてみたりもした。丁度、難しい言葉を使いたがる時期だったのだ。

 麻の花言葉は運命、宿命、結果だ。高校一年生になった、今の麻友子はそれを知っている。いつどこで、どのように知ったのかは覚えていないが。

「おはよう、麻友子。ごはん食べて今日の分の宿題終わらせたら、お父さんの花のお世話、お願いね。せっかくの夏休みなんだから」

 雑にマーガリンが塗りたくられた、焼かれてもいない食パンを一枚差し出された。母は娘相手に今日も愛想笑いを浮かべている。

「うん」

 わたし、パンにはマーガリンじゃなくてジャム派なんだけど。

 もうずっと呑みこんできた愚痴を、麻友子は今日も賞味期限間近の半額のパンとともに呑みこんだ。

 欧米人にはウサギ小屋ならぬ鳥籠と笑われそうな小さな借家が麻友子の家だ。だが鳥籠でもご立派に、あるいは一丁前にブロック塀で囲まれている。その一画で父のは、育てられていた。

 確かにこの植物の花は淡く幻想的な、晴れ渡った春の空さながらの青をしている。この花が大嫌いな麻友子も、その点だけは素直に認めていた。だけど、花を目的として育てているのでは決してないのに。万が一誰かに聴かれてもいいようにと、念には念を入れさせられているうちに、花と呼ぶのが癖になってしまったのだ。

 何にせよ、四か月弱で二メートル以上に成長することもあるこのは、今日もすくすくと育っていた。喘息持ちの麻友子よりも、よほど。

「おー、マユ。今日も頼むなあ」

 麻友子よりも先に起きて食事を済ませていた父は、丁度出勤する間際だったのだろう。スーツに臭いが移るだろうに一服していた父は、麻友子に気づくと最近目立つようになった目元の皺をますます深くした。

「なんか欲しい物あったら、買ってきてやろうか? ケーキとか」

 喘息持ちとしては、ケーキを買ってきてくれるよりも煙草をやめてほしかった。だが、そんな愚痴は言うだけ無駄だと骨身に染みている。

「えー、そんなのいいよ。子供じゃないんだし」

「おっ、一丁前に大人気取りか? ダイエットでもしてんのか? もしかして、気になる男の子とかできたのか?」

 彼氏ができたところで家に連れてこられるはずがないのに、揶揄ってくる父が鬱陶しくてならなかった。

「うるさいなあ、もう。ほら、さっさと行かないと、会社間に合わないよ」

 一体誰のせいでという苛立ちは押し殺し、適当に張り付けた笑顔で父を見送って、繁茂する植物に向き直る。許可を取った者でないと栽培できないはずの麻は、僅かとはいえ麻友子の身長を越していた。そろそろ刈り取らなければならないだろう。

 いくらブロック塀が隠してくれているとはいえ、背が高い人に覗きこまれたら、いつ法律違反が発覚してもおかしくはない。ゆえに母はあえて、麻を育てている一画で洗濯物を干しているのだ。これで我が家の塀に近づく男は、下着を狙う不審者だ。

 蝉の鳴き声が融けた生ぬるい風が、作り物の花の匂いを漂わせる洗濯物と、生い茂る葉を揺らす。いっそ竜巻でも台風でも来て、目の前の存在を全部吹き飛ばしてくれたら。麻だけでなく、ウサギ小屋同然の家も、家具も、台所で朝食の後片付けをしているはずの母も。もちろん麻友子も、できれば南アメリカ大陸の森まで。そう願ったのは、これで何度目なのだろう。自分自身ですら定かではなかった。



 父がいつ大麻栽培に手を染めたかは、例のごとく曖昧だ。麻友子が小学生になる少し前か、もしかしたらランドセルを背負いだした頃だったかもしれない。ただ、切っ掛けだけははっきりしていた。

 当時父は失業していて、就職活動が上手くいかないストレスに追い詰められていた。父は若い頃に起こした事業が失敗し、借金は払えたものの住む所が無くなったので、母の故郷であるこの島に逃げてきた身である。苦境について相談できる友など、あの頃の父には一人もいなかった。なので、失業前よりも煙草を咥える頻度は多くなる。

 父はあの頃、一日に一箱は空けていただろうか。すると当然、麻友子の発作も多くなった。だが、月に何度も麻友子を病院に連れて行く余裕は、パートに追われていた母にはなかった。金銭的にも、時間的にも。

 ならば母方の祖父母の家にでも麻友子を避難させればよさそうなものだが、母と麻友子は母方の祖母に嫌われていた。母と麻友子は、祖母が大嫌いな、若かりし頃の祖母を騙してこんな島に連れてきた祖父に似ているから。

 盆か正月でもないのに母が麻友子を実家に連れて行くなど、父に煙草をやめてくれと頼むぐらいありえない。盆と正月だって、顔を出さなければこんな時だけ電話してきてねちねちと説教されるので、致し方なく足を運ぶだけだ。でなければ、祖父の死後は麻友子にだけお年玉をくれなくなったクソババアの顔など、誰が好き好んで見に行くものか。

「血が悪いんだよ。この子の身体が弱いのは血のせいであって、あんたのせいじゃないさ。ほら、前に話しただろ?」

 いつかの盆。線香の煙を吸って咳き込む麻友子に狼狽える父に、祖母は実の娘や孫には決して見せない優しい笑顔を向けていた。祖母は娘である母も孫である麻友子も嫌いだが、父のことは密かに気に入っているのである。同じ島の外の人間だから。

「あんたもねえ。とんだ不良品を掴まされちまって、可哀そうにねえ」

 祖母の嘲笑混じりの言葉を聴いて、麻友子の背を摩る父は安堵の笑みを漏らしていた。直接目にはしなくとも、気配で分かった。以来、麻友子の喘息は母の――正確には母方の祖父の血ゆえであり、父の煙草のせいではないということになっている。それゆえ母は、父や麻友子に対して異様に下手に出るのだ。父に対しては、自分の血筋をきちんと説明せずに結婚したという咎ゆえに。麻友子に対しては、弱い身体に産んでしまったという負い目ゆえに。

 だから母は、父が島の外から麻の苗を持ち帰ってきても、父を止めようとも交番に駆け込もうともしなかったのだろう。本当は、父に対しても麻友子に対しても、悪いなんて欠片も思っていないだろうに。麻友子の治療費を稼ぐためだなんて名目は嘘っぱちだと、すぐに見抜いただろうに。現に父は、花の栽培で稼いだ金のほとんどを家にはいれていない。大方、島の外のキャバクラだかに貢いでいるのだろう。

「どう? 宿題、進んでる?」

 部屋で苦手な数学の問題と睨み合っていると、母が麦茶を持ってきた。頼んでもいないのに、煩わしい。おかげで、集中が途切れてしまった。

「早くそれ終わらせて、お父さんのお花の世話をしてね。お父さんが麻友子のために頑張ってるの、分かってるでしょ?」

「……うん」

 絞り出した返事は、麻の世話をしろという部分と、父は麻友子のために法を犯しているという部分の、一体どちらに向けたものなのだろう。やはり麻友子には分からなかったが、構わなかった。

 扇風機がはためかせるプリント集の表紙に記した自分の名前は、皮肉そのものだった。

 麻のごとく元気な、友達の多い子。

 自分の名前に込められた願いは、こんなものだろう。七歳までは神の子と言われていた時代の人間は、魔除けと健やかな成長を願って、麻の葉模様の着物を着ていたのだという。麻友子だって、他人に付けられてさえいれば、いい名前だと感心できただろうに。麻友子は健康も友情も持っていないのだから、全くの名前負けだった。

 父が本格的に大麻栽培に乗り出す前は幾人かいた友人は、時の流れと共に皆離れていった。遊びに行ってもいいかと言われても、麻友子が断ってしまうから。でも父と母に、たとえ友達でも家の敷地に入れてはいけないと約束させられたからには、言いつけに従わないといけない。

 麻の世話をしたくないからというわけではないが、数学の問題はちっとも進まない。これもまた祖母に言わせれば、血が悪いということになるのだろう。

 気分転換がしたくて、表向きは両親に会うために島外に行く父が数年前、お土産として買ってきてくれた蝶の図鑑を開く。田舎の、レンタルショップに併設されている本屋には決して置かれない大判の図鑑の紙は、しっかりとしていて厚かった。印刷もうっとりするほど鮮明である。沁みる汗でひりついた目に飛び込んできたモルフォ蝶は、アクアマリンという宝石に似てもいた。それでもこの青い蝶は、実物の方がもっとずっと素晴らしいのだろう。石ころなどより生きた宝石の方がよほど美しいに決まっている。

 モルフォ蝶の翅のメタリックな青は、大麻の花の青とどこか通じるものがある。それでも麻友子は、本土をも越えた遠い遠い海の向こう、アメリカ大陸の南の森に棲むという蝶にいつも見惚れてしまうのだ。ヒマラヤの青いケシことメコノプシスは、麻薬成分は含まれていないと分かっていても、嫌いになってしまったのに。



 生ぬるい潮風が、麻友子の肩甲骨の辺りで切りそろえた髪を揺らす。母方の祖父の先祖が代々眠る墓は、海が見下ろせる小高い丘の上にある。真夏の日差しを跳ね返す紺碧の水面は、あと数時間もすれば赤く灼けるのだろう。

「暑いわね、麻友子ちゃん」

 島の外で就職して結婚した母の兄の、麻友子より四歳年上の娘。つまり従姉は、アイプチで二重にした目蓋を青いアイシャドウで彩っていた。土で汚れたことなど一度もなさそうな爪にはマニキュアも。

 偏向パールの輝きとマニキュアのターコイズブルーは、いずれもモルフォ蝶の鱗粉を連想させた。もしモルフォ蝶の鱗粉を目元に塗ったら、たとえ視界だけでも大麻に囲まれたあの家から抜け出せるのだろうか。妖精の粉のごとくきらきらと輝く鱗粉を指先に擦りつければ、もう大麻の世話などしなくともよくなるのだろうか。

「この子には話しかけなくていいんだよ、莉奈。この子は昔っからどうしようもなく愛想がなくてねえ」

 とりとめのない思考に耽っていると、従姉の問いかけに答えるより先に、祖母に割り込まれてしまった。祖母は難関大に一発で合格した頭の良い従姉を、孫の中で一番自分に似ていると、特に可愛がっているのだ。つくづく従姉にとっては失礼な話である。祖母は、祖父の無駄に良かったらしい顔だけでこの人は良家の生まれに違いないと信じ込み、この島まで付いてきた程の馬鹿なのに。

「そうだぞ麻友子。お前は折角可愛く生まれたんだ。もっと笑った方がいい。そしたら、男の子にもきっとモテる」

 ――赤ちゃんの頃から麻友子は目がぱっちりしてて、本当に可愛くて……。

 微妙な空気に追い打ちをかける父の能天気さには、舌打ちをしたい気分であった。だが盆の、親戚一同どころか近隣の住民が集まる墓の前で、そんな不作法は犯せない。

「そうだ、マユ。折角だし、莉奈ちゃんに化粧を習ったらどうなんだ?」

「やだなあ、叔父さん。麻友子ちゃんは私と違って可愛い顔してるから、メイクなんてしなくてもいいですよ」

「それもそうかもなあ。それに、マユには化粧よりも勉強が必要だったな!」

「そうですよ。麻友子ちゃんはまだ十五歳なんだから」

 ある意味父よりも余程大人な従姉は穏やかな笑みを保っている。だがその口元ははっきりと引き攣っていた。従姉の母親である伯父の妻の、教育者らしい落ち着いた色のルージュを乗せた唇も。頭がいい従姉に数学の問題を押し付ける――もとい、数学を教えてもらうという計画は、諦めざるを得ないだろう。

 横目で祖母の反応をちらと窺ったが、別段普段と変わりなかった。従姉は頭の出来のみならず、顔立ちも母親譲りである。つまり自分が馬鹿にされたわけではないので、どうでもよいと呑気に構えているのだろう。もしかしたら、学歴をひけらかしている――と、祖母が勝手にひがんでいる、気に入らない嫁のプライドを傷つけられたと、内心ほくそ笑んでさえいるのかもしれない。



 先祖も眠る墓場がうだるように熱いのは、磨かれた墓石が光を反射するからか、それとも人が密集するからか。先祖だけでなく付き合いがある家の墓に線香を備えれば、樹々に囲まれているというのに道路よりも余程暑い墓場から、直ちに祖母の家へと向かう。それが例年の決まりだった。

 あらかじめクーラーをつけておいた祖母の家は涼しいのだが、決して居心地は良くなかった。祖父亡き今、この家でくつろげるのは祖母だけだろう。

「ほら、麻友子。おじいちゃんたちに手を合わせないと」

 墓場ではずっと黙りこくっていた母に促され、居間の前に仏間へと向かう。麻友子が発作を起こす頻度は、中学校に上がった頃から減ってきてはいた。だけど今でも線香の煙は苦手である。本当は墓参りもサボりたかったぐらいだ。そんな事情で、親戚たちは真っ先に麻友子に線香を上げさせようとするのである。言い換えれば、麻友子が線香を備えなければ、誰も仏間に入れない。あの祖母だって、一度伯父に怒鳴られてからは。

 擦り切れた畳が敷かれたひっそりとした部屋の壁には、性別の違いにもかかわらず酷似した顔の写真が幾つか並んでいた。優しい笑みを浮かべたカラーの写真は祖父のもの。その左隣に仲良く並ぶ二枚は、祖父の両親。つまりは曽祖父と曾祖母のものだった。くっきりとした眉に大きな二重の目、通った鼻筋の祖父は、若い頃はいわゆるソース顔の美形だっただろう。ほぼ同じ顔の麻友子が口に出して言ったら、とんだナルシストになってしまうけれど。

 白黒であること。及び個性が皺と弛みに埋もれる年頃に撮られたものであること。諸々の事情を差し引いても、曽祖父と曾祖母の顔は互いに、また息子である祖父にあまりにもよく似ていた。それはそうだろう。だって、祖父の両親はいとこ同士だったのだから。ただの一代限りではなくて、曽祖父の両親もまた親戚同士で、そのまた両親も……という、煮詰めすぎてカチカチになったジャムさながらに濃い繋がりなのだから。

 曽祖父と曾祖母だけでなく、この集落全体にはかつて――曽祖父ぐらいの代までは、他所の血を入れてはならないという不文律があった。本土で生まれ育った祖母が、唇を性根そのものに曲げ、畜生同然と罵るのも道理ではある。もっとも祖母は、祖父に「騙されて」この島に連れてこられてから、血縁でないのを理由に姑や小姑どころか近所の人間全員にいびられた、という恨みも混じっているのだろうが。それゆえ祖母は抱え続けた恨みを、祖父に似た母や麻友子にぶつけるのである。麻友子にとってはいいとばっちりだった。

 ――小さな離島だから仕方がないとは思うけど、何も代々いとこか又いとこから嫁を取る、なんてしなくても良かったんじゃないの?

 線香の煙を吸わないようにと息を止めながら先祖に問いかけても、当然答えは返ってこない。

 夕食の時間にはまだ早いが、親類がぽつぽつ揃いつつある居間の大机には、ビールの泡が付いたジョッキが置かれていた。その隣には、灰皿とつまみが。

「雄二さん」

 嗜めるように父の名を呼んだ伯父は、喫煙しない。別に喘息持ちではないが煙草嫌いの妻のために、結婚を機に禁煙したから。伯父は顔こそ祖母譲りだが、中身は優しかった祖父に似ていると、会うたびに実感させられる。

「おー、マユ。ちゃんとおじいちゃんたちのために祈ったか?」

 一方、父が名残り惜しげに灰皿に押し付けた煙草は、まだ紫煙を吐き出していた。苦い煙が麻友子の脆弱な気管支を刺激する。笛でもないのに喉がひゅうと鳴る。陸の上なのに、溺れたみたいに息ができなくなる。

「ポケットにいつも入れてる薬は? ――どうしてこんな時に限って持ってきてないのよ!」

 台所で祖母と共に夕食を準備していた母が、声を荒げて近づいてきた。祖母の家から麻友子の家までは、小走りなら十五分もあれば辿り着けるだろう。だが、あの家の敷地に誰かを入れるわけにはいかない。だからこその、母のこの狂乱ぶりなのだろう。優しい伯父に「俺が取ってくるから」などと走って行かれたら、一巻の終わりだ。

「いつも持ってなさいって言ってたのに。あんたは昔から本当に手がかかるんだから!」

「ああ、全くだよ」

 焦燥のあまり今にも麻友子をビンタしそうな母の手を止めたのは、騒ぎを聞きつけやってきた祖母の一言だった。

「この子は昔っからアンタに似て頭も体も弱くてねえ。ま、血が血だし仕方がないけどさ」

 クソババアは悶える麻友子に嘲笑を浴びせかけると、くるりと踵を返した。麻友子を馬鹿にするためだけにわざわざ台所から出てきたのだとしたら、大変結構なことである。

 わたし、もう、家に帰って休むね。

 咳の合間を縫って何とか意思を絞り出すと、母はあからさまにほっとした顔をした。

「俺が家まで連れてくよ。お前はお義母さんの手伝いしなきゃならないからな」

 父は、へらりと笑って麻友子の肩に手を置いた。じっとりと汗ばんだ手を反射的に振り払おうとする衝動と闘ったのは、一度や二度では済まない。

 近所の人間とすれ違った際に顔を見られるのが嫌で、ひたすら俯きながらひび割れたアスファルトの上で脚を引きずる。すると頭上から、面の皮が厚いにもほどがある言い訳が投げかけられた。

「まー、あれだな。これもきっと、マユの運命なんだろうな。美人は身体が弱いって、ことわざにもあるだろ?」

 娘の発作が自分の責任だとは一欠けらも考えていないだろう態度は、いっそ清々しい。だが父の発言にも一理あった。たとえ父が毎日一箱どころ一カートンの煙草を吸っても、喘息持ちでなければ発作は起こさないのだから。

 いつだったか、近所のおばさんにしたり顔で哀れまれた覚えがある。喘息そのものは遺伝しないが、喘息の原因であるアレルギー体質そのものは遺伝すると、テレビで言っていたと。

 麻友子の母方の濃い血の血族には、アトピーに悩まされていたり、花粉症だったりする者がいる。頭のいい従姉も、大人になった今では跡形もないが、弱い皮膚に悩まされていた時期があったらしい。

 だから麻友子ちゃんの喘息もきっと遺伝なんだよ。可哀そうにねえ、と。頼んでもいないのに押し付けられた同情は、もちろん麻友子の苦痛を和らげはしなかった。

「もうすぐ家だぞー。頑張れよ」

 呑気な父の励ましは、相変わらず神経を刺激する。

「そうだ! 久しぶりに背負って――でもそしたら俺の背中にマユの胸が当たるな。いや、俺はいいんだけどな。でもお前、随分でっかくなったよなー。もしかして莉奈ちゃんより大きいんじゃないか?」

 父への殺意を誤魔化すためあらぬ思考に耽っていると、いつも辿り着く境地がある。

 もしかしたら麻友子の運命は――祖母の性根は地域ぐるみの嫁いびりによってねじ曲がり、母は世間体ばかりを気にし、父は大麻を育てているというこの日常は、麻友子が生まれるずっと前から決められていたのかもしれない。それこそ江戸時代だか戦国時代だかの大昔から。麻友子の、島の外の人間と比べたら数が少ない祖先が、最初に血縁者と結婚した時に。

 タオルケットに包まりながら天井を見つめていても、もう何度も頭をよぎった仮説が脳裏を埋め尽くしたままだった。身体に血の流れない蝶ならば、血の澱んだ赤とは対照的な澄んだ青の翅持つモルフォ蝶ならば、濃くなりすぎた血の粘りにも囚われないのだろうか。

 重い身体を引きずって本棚まで這い、お気に入りの図鑑を取り出す。ページから抜け出して麻友子の夢の中に舞い込んだモルフォ蝶は、登校日はあと一週間後に迫っているという現状はともかく、馬鹿馬鹿しい考えを吸い尽くしてくれた。頑張って終わらせたはずの数学のプリント集は、一束ではなく二束だという事実も。

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