武神修太朗異界記 ~ 亡き妻を求めて子連れ剣士が異界を斬る ~
中村月彦
第1話 戯言
とある満月の日。午前二時。修太朗はその女性の戯言にのってみることにした。いや、縋ってみることにした。縋りつきたくてしょうがなかった。もし噓であっても構わない。ただ、こんな時間にすやすやと寝息をたてる一歳の息子を抱いて廃社に佇む自分を笑えば済む。
剣道場を営む実家から五分ほど歩くと、その廃社があった。
かつてはそれなりの規模だったのだろう。周辺の民家の屋根を越す古びた石造りの鳥居が場違いに鎮座し、そのわきに石燈籠があった。その石燈籠は現在も防犯灯として利用されており、人工的な明かりが周辺を照らしている。鳥居をくぐると児童公園になっており、いくつかの遊具と少し湿った木製のベンチが奥の小さな祠までの空間を埋めていた。
修太朗がその女性と出会ったのはひと月ほど前であった。町内会の行事で廃社の清掃作業に参加したのだ。いつもは父が参加していたが、あいにく風邪で寝込んだため、息子の子守を母に頼み、代わりに修太朗が参加したのである。子供の頃によく遊びまわった神社だったが、その頃から管理者や宮司のような人はおらず、地元の町内会で細々と年数回清掃するだけであり、いつからか廃社となっていた。過疎化の進む田舎町らしく、地元の町内会も高齢化が深刻で、五名の参加者の中で一番若い修太朗が最後に一人でゴミ出しをすることになった。
足元に散らばる枯れ枝を集め、道路沿いの鳥居の下に積み上げ、ゴミ収集車が到着する時間を確認するとまだ三十分近くあることが分かった。手持ち無沙汰になった修太朗がベンチに腰かけようとすると、一本の棒きれが祠にもたれかかっているのを見つけた。
「うん、丁度いいかもしれない」
そう呟くと、修太朗はその棒切れを手に取り軽く振ってみた。
修太朗の実家は剣道場である。修太朗自身も父に教わり幼少の頃から剣道を続けていた。日本一にはなれなかったが、長身を活かした剣技で全国大会の常連として優秀な成績を残し、大学卒業後は警察官としての職務の傍ら、朝晩、無心に竹刀を振ることが日常であった。この時も棒切れを竹刀に見立てて振り、素振りをして時間をつぶそうと思っていた。
しばらく棒切れを振っていた。小気味よく聴こえる呼吸音と風切り音。そのうちそれすら感じなくなると、世界は静かになる。極限まで集中するとそこは修太朗だけの『領域』に変貌する。その『領域』には修太朗しか存在しない。敵だけが次々と現れる。その敵は人間であったり、龍のような空想上の動物であったり様々であった。それらを斬り捨て、打ち破り、薄ら汗をかきはじめたころ、次の敵が現れた。嫌なことに修太朗の前に現れたのは一年前に息子を生むと同時に亡くなった妻の姿であり、その妻が
「やめてくれ」
戸惑いながらそう言うと修太朗は棒切れを投げ捨て跪いた。しかしこの世界は音を取り戻すことなく、静かなままであった。その静寂を破るように、
「何故やめるの」
そう妻はさみしげに囁くと、ためらいもなく一気に踏み込んできた。跪いたまま妻の放った神速の剣を真正面から受け、修太朗は信じられないものを見るように意識を手放していった。
どれぐらい寝ていたのだろうか。いつの間にか鳥居の下に積み上げられていたゴミは無くなっており、石燈籠に明かりがついている。久しぶりに感じる妻の膝枕は懐かしさよりも切なさを伝えているように思えた。
「ユキ、化けて出てくるにしても酷いよ」
朦朧とする意識の中で、そう修太朗が妻に向かって苦笑いしながら言うと、
「なるほど、ユキさんと間違われたのですね」
と、小首をかしげながら彼女は答えた。
「ユキと間違えたって……。ユキじゃないのか」
訝しみながら身体を起こし、その女性をまじまじと眺めてみる。涼しげな目元や、ほっそりした顎、通った鼻筋に薄く朱をさした唇、それらは妻のユキの面影を感じさせるが、
「その、ユキじゃないなら、初対面の女性に斬られて意識を失い、挙句の果てに膝枕までしてもらっていることになるのですけど……。どちら様でしょうか」
気恥ずかしさを感じながら恐る恐る尋ねると、
「私はかつてユリと呼ばれておりました」
と、涼やかな声で返答があった。
「かつてということは、昔ですよね。今は違うのですか」
「今は名などありません。あるのはかつてユリとして存在した残滓のみです」
「残滓とは何でしょうか」
「残滓とは残りです」
「残りって、何の残りですか」
「存在の残りです」
禅問答のようなユリとの会話の中で、ふと修太朗は気づく。
ユリが、自分の『領域』に現れたこと、その神速の踏み込みと剣技、そして真剣で斬られたはずの自分が無傷で、おまけに先ほどの会話……馬鹿らしいとは思いつつも、それらを合わせると答えは一つしか無いようにも思えた。
「ユリさん、あなたは祠の神様でしょうか」
そう問いかけると、ユリは肯定するかのように薄く微笑んで数度頷き、
「もう神とは名乗れません」
と、付け加えた。
ユリと名乗るその女性と暫く会話したように思う。
曰く、彼女はかつて女剣士として名をはせた女傑であり、盗賊や落武者などから何度も村の危機を救ったため、村人たちから神格化され祠に祀られたようである。修太朗が自分の『領域』で龍と戦っているのを見て、久しぶりに立ち合いたくなったのだという。ただ、気になることもあった。何故ユキの面影があるのか、神ではないとはどういうことか、である。
そのどちらの質問にもユリは答えなかった。
もっとも、修太朗にとってユリは超常の存在であることに違いはなく、これ以上踏み込むのは無礼だと思い、お礼を言うと、最後に質問をしてみた。
「死んだ妻は成仏して天国にいるのでしょうか」と。
ユリはその涼しげな目を瞑り、首を横に振ると、
「修太朗さんが思うような世界にはおられません」
と、悲しげに告げた。
その答えを聴いた瞬間、全身の血液が逆流するかのような衝撃が襲ってきた。同時に、あの明るくて快活な小さな太陽のような妻が成仏もせず、天国に行けないとはどういうことなのか、と激しい憤りを覚えた。目の前にいるユリに何の関係もないとは思いつつも、納得できない修太朗は、さらに詰め寄った。
「じゃあ、妻を成仏させるにはどうすればいいんだ」と。
ユリはふうと息を吐くと、じっと修太朗の目を見つめだした。
その目は修太朗の真意を探るかのような、そして何かを試すかのようなそんな目であった。心の、いや魂の奥底を覗かれるようなざわついた感傷に耐えながら、修太朗は返事をひたすら待った。ユリは一筋の涙を流すと、修太朗から根負けしたかのように目をそらして呟いた。
「別の世に出向いて、息子さんを抱かせてあげれば、あなたの言う成仏とやらができるでしょう」
とはいえ、今すぐにはどうにもできない。ひと月後、最も月が満ちる日の深夜に息子を連れて祠に来るように付け加えた。
「あくまでも戯言だと言っておきます。その戯言を信じて来られるのなら私は修太朗さんの想いに応えたいと思います。もし、別の世で会えなくても、またこの瞬間に戻るだけです。」
そう言うと、ユリは祠に向かい歩き出し、かき消えた。周りの景色が急速に色を取り戻しはじめる中で、修太朗はユキに会えるかもしれないと一縷の望みをかけ、さらにユキに息子を抱かせ、別の世界で家族三人仲良く過ごすことが出来るかもしれない、と妄執めいた想いとともに彼女の提案に縋りつくことを決めていた。
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