5−2

 由貴が子供を産んだ年齢が26歳と聞いて、気付かれないように莉子は安堵の溜息を漏らした。

 純と由貴が別れたのは23歳の時。26歳で産んだ子供は彼女の夫の子供であって純の子供ではない。

 もしも由貴の子供が純との子供であったなら、心はもっと奈落の底に突き落とされていた。


 由貴は童顔の可愛らしい顔立ちをしていた。洒落た茶髪も相まって本当の年齢を言われなければ20代にも見える。

 今もこんなに可愛らしいのだから大学時代はさぞモテただろう。純は莉子を散々、面食いとからかうが、純だって面食いだ。


「私は結婚したいって言ったのよ。でも純は俺は結婚はしない、するつもりはないって言い張った。最初は結婚するには年齢が若いからだと思っていたの。だけど違った。24だろうが、25だろうが、たとえ私が30まで待っても、純は結婚してくれなかったと思う」

「どうして……?」

「莉子ちゃんは純の過去、お兄さんのことや親の話は聞いてる?」


 由貴に問われて頷いた。純が家族の話をしてくれたのは最初のデートの時だけだが。


「じゃあわかるかな。純はさ、自分を虐待していた親に、恋人を会わせたくないのよ。付き合っているうちは親なんか関係ないけど、結婚となるとそうもいかない」


 たまに淋しげな瞳で彼は来店する親子連れや兄弟を見つめている。家族とは純の心の非常にネガティブな闇の部分を占めている要素だと、莉子は薄々察していた。


「私も結婚してみてようやくわかった。若い莉子ちゃんにはまだ理解ができないかもしれないけどね、結婚は自分達だけの問題じゃない。絶対に、嫌でもお互いの親が関わってくる。相手の親に関わらずに結婚生活を送るのはとても難しいの」


 母親が一度結婚に失敗している影響もあって、結婚をすれば無条件に幸せになれるとは限らないことだけは、幼い頃に理解はしていたものの、確かに結婚を経験していない莉子には由貴が語る結婚の真実は理解も想像も難しい。


「……私、来年の春には東京に行くんです。東京のネイルサロンに就職が決まっていて」

「へぇ、凄いじゃない。そっか東京に……。純とはどうするの?」

「遠距離で頑張ろうとも何も言ってくれませんでした。結婚の話も出なくて。だからたぶん……別れることになると思います」


 思い出すのは食べかけの冷めたホットケーキ越しに見た、純の哀しげな微笑み。遠距離恋愛の可能性にすがる莉子の期待を、残酷に切り捨てた彼の本心がようやく見えた。


「遠距離恋愛の終着地って何かわかる?」

「終着地?」

「破局か結婚よ。どちらかが相手の人生に合わせて仕事と住む場所を変えてめでたく結婚するか、そこに行き着く前に破局か。もし純と莉子ちゃんが遠距離をするにしても、純が東京に来てくれるか莉子ちゃんが東京を諦めてこっちで生きていくか、別れないためにはそれしかないでしょうね」


 遠距離恋愛の結末は破局か結婚。わかってはいても、突きつけられた現実に心をえぐられる。


「……純さんが私のために仕事を変えて東京に来ることはないでしょうし、私が東京を諦めてこっちに居続けることもないと思います」

「当然よ。まだハタチだもの。ひとりの男のために上京のチャンスを捨てるなんて勿体ない。莉子ちゃんには選択肢も時間も無限にある。正直、羨ましいな」


 由貴の第一印象は良くはなかったが、立場を同じくした者同士のわかり合える部分はあった。今の莉子の心境を理解できるのは由貴だけだろう。


「純は一生誰とも結婚しないで独りでいると思う。むしろ誰かと結婚したとしたら、私も莉子ちゃんも純を許せないんじゃないかな? だって私達とは結婚という形を選ばなかったんだもの」


 莉子は何も言えなかった。由貴の言うとおりだと思ってしまったから。


 〈公園で待ってる〉と純からのメールが入っていた。カフェの前で由貴と別れ、莉子は八丁通りをとぼとぼと歩く。

 寒空の下、公園のベンチで缶コーヒーをすする純を見つけても、彼のもとに向かう足取りは重たい。


 園内のイチョウの木が風を受けて闇の中でざわめいている。ひらり、はらり、と舞ったイチョウの葉がベンチの前で立ち止まる莉子の足元に着地した。


「あいつに何を言われた?」

「……純さんは一生結婚しないって」

「ははっ。昔のことかなり根に持たれてるんだろうな」

「私は……純さんにはいつも笑っていて欲しい。幸せを感じていて欲しい」


 ベンチに座る彼を見据えて、ぽつり、ぽつりと本音を零す。街灯の明かりに浮かぶ純の顔は莉子が見慣れた優しい笑顔を口元に宿して、彼女の想いを受け止めてくれた。


「だけど幸せを分かち合う相手が私じゃなくてもいいなんて、そんな大人なことは言えないの。……ごめんね」

「莉子は悪くないよ。何も悪くない」


 切ない心から零れ落ちていくのは、想い? 涙?


「純さん……好き」

「うん」

「大好き」

「俺も。莉子が大好きだよ」


 純の胸元に迎え入れられても、溢れた涙は止まらない。ふたりの愛はちゃんと、ここに存在しているのに。

 彼は独りを望むのか。そんな生き方を悲しいと思ってしまう一方、彼にはいつまでも独りでいて欲しいと身勝手な願いを抱く自分が大嫌いだ。


(私以外の人を好きにならないで……私以外の人と幸せにならないで……)


 ごめんなさい。ごめんなさい。

 〈大人〉になれなくて……ごめんなさい。

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