第30話 貼り紙

 

 逃げるように志憧しどうの家から走り出た瑛太郎えいたろうは、その勢いで会社に戻り、そのまま移勤を願い出た。そもそも持ちかけられていたところだったので話はとんとん拍子に進んだ。この町にはいられない。誰も知らないところに行きたかった。


「秋山くん、忙しいところ悪いんだけど」


 デスク周りを片づけている瑛太郎に、同僚の女性が声をかけてきた。


「うん?」


「引き継いだこの物件のことなんだけど、確認いいかな?」


 それはあの日、周囲の環境を確認に行った物件だった。志憧と杏珠あんじゅの様子が一瞬にして蘇り、不意に顔がひきつる。しかし確認作業というのはたいしたことではなく、すぐに終わった。デスクに広げられた写真つきの資料に無意識に目を落として、瑛太郎はあることに気づいた。


「え・・・っ・・・」


「どうしたの?」


「あ、いや・・・これ、この資料ちょっと見てもいい?」


「え?うん」


 忙しい彼女は不思議そうに一枚の紙だけを瑛太郎の手に残してデスクに戻っていった。

 その資料には志憧の家の玄関が写り込んでいた。正面からではないが、扉の色、形は間違いない。そしてその扉には白い紙が貼られていた。目を凝らすと、そこには「通知書」の文字が。

 いわゆる立退きを求める文書だ。調べればどこの不動産会社が志憧の家を管理しているのかはすぐわかる。立退きを求められているということは、それなりの理由があるはずだ。

 老朽化ではない。借家だったのだろうか?志憧がどんな仕事をしていたのかは知らないが、質素ではあっても不自由はなさそうだった。杏珠が小学校に上がるのだって、相応の金額がかかる。

 そこまで考えて、瑛太郎は我に返った。彼らの生活がどうであっても、あの家がどうなろうとももう関係ない。資料を同僚に返して、瑛太郎はデスクの片づけに専念した。



 あれは、まぎれもなく恋だった。

 従兄弟に抱いたよりももっと色濃く、心も身体も、どっぷり志憧との恋に浸かっていた。たとえ後ろ指を指されようとも、杏珠に気づかれないように視線を交わしたり、キスしたり身体を重ねることがたまらなく快感だった。従兄弟とはかなわなかったことをすべて経験したかったのだ。志憧もそれを望んでいるものだと思いこんでいた。

 今でも志憧の甘い喘ぎは、瑛太郎の記憶の中にある。



 荷物を段ボールに詰め、上司に挨拶をして会社を出た。これから勤める支店は電車なら一時間、車で行ってもそこそこ時間がかかる。上司の好意で社用車を借りる手はずになっていた。

 グレーのセダンに荷物を積み終わると、すべてが片づいた気がした。あとは新しい生活に向かうだけだ。瑛太郎は大きく息を吐き出して、エンジンキーを回した。


 もう戻らない。

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