第18話 群青
このまま会わずに夏が終わるのだろうと思っていた。調べ上げた情報もあいまって、「不思議」だった印象は、「不穏」に変わりつつあった。
もしかして
一度は近づいた関係性も、今となってはあやうい。志憧や杏珠が変わらずいつもどおりだったとしても、瑛太郎が以前の通りに接することができるかどうかはわからない。時間が経てば経つほど疑念が膨らむばかりだ。
それでもあの夜の情事まがいの出来事は、瑛太郎の心の底にこびりついている。もっと近づきたい、もう一度触れたいと思う感覚はどうやっても消えてくれそうにない。今日は猛暑日になります、と朝のニュースで報じていた金曜日、瑛太郎は商店街で売っていた半玉のすいかに目を留めた。あの二人と一緒に食べたすいか。あの日もとても暑かった。
瑛太郎はふらふらと青果店の店先に入っていって行った。
半玉すいかを携えた瑛太郎の足は、志憧の家に向かっていた。玄関先にすいかを置いて帰ろうと思っていた。留守なら持ち帰る。半玉ならひとりでも食べきれる。
と、志憧の家に繋がる細い道まであと数メートルというところまで近づいたとき、子供の声が聞こえてきた。
それも泣き声だ。
あああん、わあああん、と繰り返し泣くのは紛れもなく杏珠だ。瑛太郎は走って細い道を曲がった。
家の扉は開いたまま、汗だくで
「杏珠ちゃん!」
瑛太郎は駆け寄ると、杏珠の側にしゃがみこんだ。
「どうした?志憧さんは?」
「おにいちゃあん・・・」
杏珠は泣くばかりで要領を得ない。瑛太郎は杏珠の手を引いて家の中に入った。薄暗い廊下に足を踏み入れたとたん、つま先になにか触れた。慌てて足を引くと、それはうつ伏せに倒れた志憧の指先だった。
「志憧さん!」
抱き起こしてみると、志憧の体はひどく熱かった。
「熱中症か!」
全身を覆う玉の汗と赤い顔。呼吸は浅いがしっかりしている。多分倒れてそれほど時間が経っていない。瑛太郎は志憧を抱き上げ、リビングに運んだ。
首の後ろと脇の下に氷枕を当てると、志憧がうっすらと目を開けた。
「志憧さん!」
「どう・・・して・・・?」
「多分熱中症でしょう。倒れていたんです」
「熱中症・・・」
「杏珠ちゃんが知らせてくれたんですよ」
「杏・・・・・・珠・・・」
瑛太郎の背中に隠れて心配そうにのぞいていた杏珠が、志憧の声に反応して飛び出した。
「しどう!」
再びあああん、と泣きながら杏珠は志憧にしがみついた。幼い彼女は志憧が死んだと思ったのだろう。
「杏珠・・・大丈夫だ・・・大丈夫だから・・・」
わああん、わああん、と泣き続ける杏珠の頭を、志憧は優しく撫で続けた。
幸いにも軽症ですんだ志憧は、数時間休むと体を起こせるほどになった。
「ご迷惑をおかけしました」
まだ顔色の悪い志憧は力なく微笑んだ。杏珠は志憧の膝の上で、彼のウエストに巻き付いている。十五分前くらいにやっと泣きやんだばかりだ。
「杏珠ちゃんのおかげですよ。泣いている声が聞こえなかった危なかったかも・・・」
杏珠は志憧の胸に頬をくっつけて離れようとしない。志憧は杏珠の顔を上向かせ、涙の跡を指で拭った。
その姿はどこからどう見ても親子だ。瑛太郎は自分の中に浮かんだ疑念を恥ずかしく思った。
もし彼らに、誰にも言えない事情があったとしてもかまうものか。これが親子の情でなくてなんだというのだ。
「あ、そうだ、すいか」
「すいか?」
「持ってきたんです。食べられそうですか?」
「じゃあ・・・お言葉に甘えていただきます」
どうする?と志憧に聞かれた杏珠も「たべる」と答えた。午後五時を回ってもまだ気温は高い。クーラーを付けたリビングと違って、キッチンは暑い。瑛太郎は腕まくりをしてすいかを切り分けた。
額の汗を拭ってふと顔を上げると、キッチンの小さな出窓から濃い青色の空が見えた。
もしも今日、この家に続く道を歩いていなかったら?あのまま昏倒した志憧はどうなっていただろうか。杏珠ひとりでは助けは呼べないし、時間が経てば経つほど危険は増していただろう。呼ばれたんだ、と瑛太郎は思った。
杏珠は以前瑛太郎が教えたとおりに丁寧に種を取っていた。食欲がないのか、志憧はほんの少しずつすくい取り口に運んでいる。
瑛太郎は自分に言い訳をするのをやめた。無理矢理離れる理由を見つけて、志憧に惹かれていることをごまかしていたことに気がついたからだ。間に合ってよかった。熱中症も、自分の気持ちにも。
リビングの大きな窓からも、濃い青色の空が見えた。山の向こうからは、もくもくした白い雲が迫っていた。
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