第16話 錆び

 杏珠あんじゅ志憧しどうが言ったとおり、八時半にはむにゃむにゃ言いながら布団に入り、九時にはすっかり夢の中だった。水遊びで疲れたのか、普段より寝付きがいい、と志憧は言った。


 杏珠になにかあったときの為に、リビングの隣の寝室の扉は開けたままにしてあった。それはいい意味でも悪い意味でも、二人にとっての枷となった。


 志憧が杏珠の寝室から出てくると、瑛太郎えいたろうの隣に腰を下ろした。二人は前を向いたまま、しばらく黙っていた。どう切り出していいのかわからないまま、瑛太郎はもう一度志憧の手に自分の手を重ねた。

 瑛太郎は自分から誘うということが苦手だった。でも今日ばかりは気持ちを抑えることが出来ない。「九時には杏珠が寝ます」と言われてから、時計を見る回数が増えた。


 志憧は潤んだ瞳で瑛太郎を見つめ返した。しかしすぐに視線を逸らした。反射的に瑛太郎は彼の顎に触れて、顔を自分に向けさせた。どうしてこんなに惹かれるのか。従兄弟の顔はもう思い出せない。

 唇は暖かく湿っていた。どちらともなく舌を差しだし絡み合わせる。瑛太郎は志憧の背中に腕を回し引き寄せた。ほとんど体格の違わない二人だが、瑛太郎の腕に抱かれた志憧の体には余計な肉がついておらず、骨が感じられた。

 最初は体をこわばらせていた志憧だが、キスを繰り返すほどに瑛太郎の腕に身を任せ始めた。志憧の手も瑛太郎の背中に遠慮がちに触れている。テレビの音量を小さめにしてかけたままにしてあるが、耳に響くのは唾液の絡まる音のみ。

 徐々に体勢が崩れ、瑛太郎はソファの上に志憧を組み敷いた。依然として杏珠の存在が頭の片隅にあったが、志憧も拒む様子はない。しかしここで服を脱ぐのは違うと瑛太郎は思っていた。そのまま志憧に覆い被さり、キスを繰り返す。首筋に唇を這わせると、志憧の濡れた唇が薄く開いた。

 もはや取り返しのつかないほどに熱を持った瑛太郎の下半身が、志憧の足に当たる。わずかに志憧が反応したのに安心して、瑛太郎はお互いの体の距離をさらに縮めた。一度敏感な部分を擦りつけてしまえば、どちらも歯止めが効かなくなった。杏珠の眠りを妨げることを気にして、志憧は自分で自分の口を覆っていた。

 一度だけ、聞き取れないほどかすかに志憧は何かを口走った。それが人の名前なのか、うわごとだったのか、瑛太郎には聞き取ることは出来なかった。それでも志憧が、瑛太郎を通して亡くなった恋人を見ていることは明らかだった。それを責めることなど瑛太郎には出来ない。

 自分だって、はじめは従兄弟の面影を彼に見ていたのだから。

 

 下着の中を濡らして腰を揺らすうち、手で覆った志憧の口から切なげなあえぎが漏れ始めた。


「・・・っん・・・ぅあ・・・」


 顎を上げ、快感にもだえる志憧は、このうえなく色っぽかった。杏珠の父親の役目をしている彼からは想像もつかない。


「・・・っ・・ぃく・・・っ・・・」


 志憧はそう言うと背中を大きくしならせ、瑛太郎の腕を強く掴んで達した。その瞬間、ぎい、とソファが鳴った。

 息があがり、余韻に目を瞑る志憧。瑛太郎は下腹部のぬめる不快感を感じながら体を起こした。服も脱がず、ただ布の上から体を重ねただけだというのに、まるで情事の後のようだった。


「しどう、おしっこ」


 タイミングよく寝室から聞こえた杏珠の声に、瑛太郎も志憧も飛び起きた。志憧はよろける足であわてて杏珠のところへ飛んでいった。はだけた襟元をなおしもせず、志憧はねぼけ半分の杏珠を抱き上げトイレに連れて行った。

 急に父親の顔になった志憧に、瑛太郎は自分の熱が静かに引いていくのを感じた。カラフルに見えていた世界が、急激に赤茶けた錆色に変わっていった。

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