おまけ話 100PV謝恩
屋根から滴る雨注ぎが鈍く光を含んでいる。それを眺めながら明神はふと呟いた。
「零雨か……」
その呟きに、隣でミシンと格闘していた古夜 百合が紺の作務衣を着た明神を見つめ、縁側の外へ視線を投げた。
「れいう?」
「静かに降る雨という意味で……」
そこまで言いかけて言葉を止めた。百合へ視線を戻すと、未だに針に糸先が通らなくて苦戦している。百合に小さな糸通しを差し出すと、百合はそれを使ってやっと糸を通した。
「出来た!」
喜々として声を上げると、明神は用意していた端布にチャコペンで真っ直ぐ線を書いて渡した。
「この線の通りに真っ直ぐ縫って」
明神に言われるままに生地を取って電源を入れる。踏み板を右足で踏むと、けたたましい音がして飛び上がるように百合は驚いた。生地の上の線を縫い糸が大きく蛇行している。
「踏み加減は使っていれば慣れる様になる。最初はゆっくりで良いから」
百合は言われるまま、ゆっくりとミシンを動かしていく。なかなか線通りに縫えなくて焦燥すると、明神はそんな百合に声をかけた。
「何か作りたいものがあるの?」
「服!」
百合が即答すると、明神は少し戸惑った。直線縫いもまともに出来ないのに、服を縫うとなるとなかなか骨が折れる。
「商店街の服屋さんにね、かわいいワンピースがあって……」
そう言いかけて、百合は口籠った。
「勿論、明神くんが作ってくれた服も気に入ってるよ?」
「いや、別にそこは気にしなくていい。デザインとかはどうしても男目線になるし、お前が気に入ったデザインの服を作りたいと思うのは当然だと思う」
表情は変わらないが、百合はそれを聞いてほっとする。明神はミシンの電源を切ると、紙と鉛筆を差し出した。百合はそれを手に取り、ワンピースの絵を描くが、お世辞にも絵心がなく、右と左の袖の長さが違う。明神はそれを眺めながら、百合は少し気恥ずかしかった。
「……ごめんね。やっぱりいいや」
「和裁なら割と簡単なんだが……」
明神はそう言うと、裁縫箱からメジャーを取り出した。
「立って」
言われるまま、百合は立ち上がった。
「とりあえずサイズ測るから服脱いで」
「え? ……うん」
百合が着ていたカッターシャツを脱ぐと、白いキャミソールを脱ぎかけた所で明神が止めた。
「それでいい」
肩幅と裾丈、バストとウエストとヒップを測ると、紙に数字を書いている。百合はシャツの袖に腕を通した。相変わらず表情が変わらないので何とも思われていないのだろう。それが少し寂しくもあった。まあ、それは凹凸のない自分の体が悪いのだろう……少しドキドキした自分が悲しい。
「聞いてるか?」
ふと、明神に言われて百合は我に返った。何の話をしていたのか聞き漏らしてしまい、明神の隣に座ると、明神は何も言わずに百合のシャツのボタンを留めた。百合が恥ずかしそうに頬を赤らめるが、明神の表情は変わらない。ボタンを留め終わると、平台に並べた本を指し示した。
「雑誌に載っている型紙は既に出来ているものを切ったり、紙に写したりして使えるから簡単なんだ。かこみ製図は数字通りに線を引くと実物大の型紙が作れる。で、今回はお前の体型に合わせた型紙を作る」
「えと……私が平均より胸が小さいからとか……?」
自分で言って落ち込むと、明神は視線を宙に泳がせた。
「人によって体型は違う。Tシャツ一つでも、撫で肩用といかり肩用とニ種類ある。服のサイズが合っていないと肩が凝ったり、姿勢が悪くなる原因になる。だから、どうせ作るのであれば、自分の体型に合ったものを作った方が良いと思う。俺が教えるから」
そう言うと、物差しと鉛筆で模造紙に線を書いた。一つ一つ丁寧に説明しながら型紙が出来上がる。その型紙に合わせて生地にチャコペンで線を書き、裁ち鋏で生地を切った。
「明神くんは私のワンピース作った時、型紙使わなかったよね?」
「直裁ちと言って、型紙は慣れれば別に使わなくてもいい。身長が俺と同じくらいだし、ノースリーブのAラインワンピースなら胸さえ無ければ体型を選ばないんだ」
そう言って、明神が口を噤んだ。
「どうせ幼児体型ですよ」
「今のは俺が悪かったけど、そこまで言ってないだろ。別に胸なんか無くても可愛いんだから贅沢言うな」
まるで天変地異でも起こった様に百合は驚いて目を丸くした。けれども明神は相変わらず冷めた目をしている。
「とりあえず真っ直ぐ縫う練習して、慣れれば今、切った生地縫って良いから」
話を逸らされ、百合はミシンに向かった。ゆっくりとペダルを踏み込むが、生地が縫えなくて百合は戸惑う。針は下りているのに、縫い糸が出来ない。明神もそれに気付くと、ミシンの電源を切り、ミシン下からボビンを取り出した。
「大抵縫えない時は下糸が無くなっているから、下糸を補充してやるといい。このボビンにも入れ方があって、ちゃんと入っていないと下糸が取れなかったり、針が折れたりするから気をつけること」
そう言って、糸の巻いてあるボビンをケースに入れ、ミシン下に嵌め込む。電源を入れて百合が再びミシンの踏み板を踏むと、ちゃんと縫い目が出来てほっと胸を撫で下ろした。
Tシャツがちゃんと縫い上がったのが、夜の八時だった。昼からやっていたので随分と時間が掛かったが、それでも何とかTシャツに見えるものが出来上がり、百合は満足する。一枚目は真っ直ぐ縫えなくて縫い目が蛇行してまったり、生地と生地の縫い合わせが上手くいかなくて胸の辺がキツくなり、散々なものだった。二枚目は間違って袖を縫ってしまい、腕が通らなくなっていたし、三枚目は襟ぐりを引っ張って縫ってしまい、よれよれになっていた。四枚目にしてやっとまともな形に出来上がった。着てみると成程確かに肩の所もぴったりで、胸の辺りも苦しくない。百合は嬉しくなって部屋を出た。
明神は居間で麻紐を編んでいた。七宝編みで籠鞄を作ると、今度は東袋から水引を取り出した。
「気長な娘だな……」
昼からずっと部屋に籠もってミシンと格闘する百合の事を考えながら呟いた。晩御飯に呼んだら直ぐに来たのだが、食べ終わるとまた直ぐに続きをすると行ってしまった。慣れない事をするのは苦痛だと思うのだが、まあ、本人が頑張っているのだからそれを挫く必要は無いだろう。怪我をしないかだけ心配だが、ずっと見張られるのも嫌だろうと思って放っておいている。けれども流石にそろそろ寝る準備をする様に声をかけるべきだろうかと思う。
「……」
Tシャツ一枚にそんなに時間がかかるかと思うが、初めてなのだからまあ仕方が無いのだろう。自分ならあんなもの、直裁ちして縫うから五分と時間はかからないが、彼女はミシンの電源の入れ方も知らなかった。針に糸を通すのも一苦労していた。だから、多分知らないだけなのだろう。自分が何を知らないのか解っていないのだ。
不意にキャミソール姿の百合を思い出して目を伏せた。年頃だから少しは恥ずかしがるかと思ったのだが、異性と思われていないのか、節操なしなのかよく解らない。可愛いと言ったら驚いていたのでそう言われ馴れていないのだろう。自分の良いところを鼻に掛けていないのではなく、自分の良いところに気付いていないのだろう。周りの目ばかり気にして自分を見ていない。そういうところは少し可哀想に思う。
紅白の梅結びを作っていると、足音が聞こえてきた。明神が不意にくれ縁に目を向けると、嬉しそうに百合が作ったばかりのTシャツを見せる様にそこに立つ。明神は一瞬百合の顔を見て、着ているTシャツに視線を落とした。
「出来たよ! 上手でしょ?」
喜々としてそう言う百合に一瞬目を逸した。Tシャツのお腹の辺りに大きな皺が出来て三段腹の様になっている。何故、そんなところにギャザーがつくのかと聞きたくなったが飲み込んだ。
「まあ……良いんじゃないか?」
徐ろに立ち上がると羽織りを取って百合の体に掛けた。生地が縮んでキャミソールが覗いていたのが気になった。
「初めてにしては良く出来ていると思う」
そう言ってふと、頭の中に「つくばねの……」と和歌が浮かんで目を伏せた。
「明神くんは何を作っていたの?」
百合に聞かれ、居間の卓袱台に乗った水引と、籠鞄に目が行く。
「すごい! 上手だね」
「暇だったから……」
百合がまじまじと籠鞄を凝視していた。
「欲しければやるけど」
「え!? 良いの?!」
百合の真っ黒な瞳が星を閉じ込めた様に光っている。
「いや、寧ろそんなので良いのかと聞きたくなるが……今は店で可愛らしいショルダーバッグとかを欲しがる年頃だろ」
「明神くんが作ってくれたこれがいいの」
否、深い意味は無いだろう。そう思いつつ、悪い気はしない。明神は百合の隣に座ると水引を数本取った。紅白の水引で丸い相生結びを作ると、それを籠鞄に取り付けた。
「可愛い」
こんなものを喜ぶなんて希有な娘だ。まあそもそも、商店街の服屋で見つけたワンピースを、買ってくれと強請らずに自分で作ろうとするところが健気だ。
「ありがとう」
ちゃんと善い言葉を素直に言う事が出来るのも、彼女の良いところだった。もっとこの娘の成長を眺めていたいと思うが、不意に平家物語の冒頭を思い出して目を伏せた。「生者必滅、会者定離はうき世の習いにて候」そう思い直して百合が嬉しそうに持っている籠鞄に目をやった。自分が今付けた紅白の相生結びが哀しい。彼女がその意味を知れば、蛇蝎の如く嫌われやしないだろうかと不安だった。
「すまない。あまり出来が良くないから、返してもらえないか?」
百合は驚いて目を丸くする。
「上手だよ?」
「また今度、買い物にでも連れて行ってやるから」
明神が手を差し出すと、百合は籠鞄を背後に回した。
「どうしたの?」
「お前にそういうのは似合わないと思う」
「私はお金で買える物がほしいんじゃなくて、明神くんが時間を掛けて作ってくれたこれが欲しいんだよ」
百合の眼差しに気圧されて明神はそっと手を引っ込めた。
「……そうか」
本人が気に入ったというのであれば、まあ無理に取り上げる必要は無いだろう。
「明神くんが着ている着物も欲しいな」
不意にまた頭の中に「筑波嶺の新桑繭の衣はあれど君が御衣しあやに着欲しも」などと和歌が浮かんで戸惑った。否、絶対にそんなことを知りはしないだろう。
「今度、作り方教えてね」
そう言われて勘違いに気付く。
「お前さ、知らなくて言ったんだろうけど、今のは言い方を考えた方が良い」
百合が不思議そうに目を丸くして首を傾げた。
「ごめん、何か変なこと言ったかな?」
聞き返されて戸惑った。
「いや、いい」
勝手に勘違いした自分が情けなくて思わず居間を出た。彼女は知らないのだ。……知らないまま大人になって、相手を勘違いさせて危険な目に遭いはしないかと少し不安になる。可愛いから、きっとこれからもっと美しく成長するのだろう。その時に無知でした。知りませんでした。で、この世の中を何処まで無事に渡り歩けるだろう?
庭に出ると、霧雨が降っていた。
「……俺の杞憂だと良いんだが……」
取り敢えず、ここに居る間は出来る限り、自分の知っていることを教えよう。お金は無いが、知恵を授けてやることくらいは出来るだろう。縁なし衆生は度し難しなどと言うが、あの素直な性格上、そんなことも無いだろう。
「明神くん……」
百合の声に振り返ると、いつの間にか彼女が後ろに立っていた。持っていたタオルを広げると、優しく明神の頭に被せた。
「雨降ってるよ? 風邪引いちゃうよ?」
心配そうに言う百合の手を取ると、屋敷の中へ入った。
「さっきはごめんね。私が変なこと言ったから……」
「俺が勝手に勘違いしたんだからお前のせいじゃない」
明神の言葉に百合は首を傾げた。
「着ている衣を欲しいというのは、共寝したいと言う意味なんだ」
「ともね……? あ、いいね! 私、それやってみたい!」
嬉しそうに燥ぐ百合を睨んだ。
「お前な……」
「私、修学旅行行けなかったから、皆で雑魚寝するの憧れだったんだよね」
この娘は天然通り越して馬鹿なのかと言いたくなったが、押し留めた。この娘を見ていると何だか拍子抜けする。寝た子を起こす様なことを言うのも憚るが、ここで共寝=雑魚寝と覚えてしまって、先々苦労しまいかと不安が残る。けれども、同衾などと言っても余計解らないだろう。かと言ってオブラートに包んでそれと解る様な言い方となると……
「枕を共にするとか?」
「枕投げもやってみたかったんだよね。でもここの枕って重いから投げるの大変そう」
ここまで来ると流石に面倒臭い。まあ、今で無くとも、そのうち解るだろう。源氏物語か伊勢物語辺り読めば……うちの蔵には現代語訳文のものがあっただろうか? 原文の方が面白いのだが、多分、彼女は原文など読めないだろう。と思い返して溜息を吐いた。
「軽い羽根枕ならそういうことも出来るんだろうけど、怪我したら危ないからうちにある数珠玉枕は投げるな。というか他所へ行っても物を投げるなんて端ないことをしてもらいたくない」
まあ、あれを投げるとなったら結構な力がいるのだが、そもそも枕投げなんぞ誰が流行らせたのだか……物を大切にしてきた文化をぶち壊しに来た異邦人かと疑いたくなる。
「……そうだね。ごめんね」
さっきまで嬉しそうに話していた百合が申し訳無さそうに俯く。
「性、相い近し。習えば、相い遠し。と言って、
人は生まれつきは似たようなものだ。しかしその後、しっかり勉強をやるかどうかで大きな違いが出るもの。
これは論語の言葉で、学んだことを身につけ、生かしていくかどうかの積み重ねが人生を創っていくという言葉なんだ。
俺は、お前を何処にやっても恥ずかしくないようにと思って注意はするけど、それに従うかどうかはお前の判断に任せるしかない。だからどうしても枕投げをしたいと言うのであれば俺の居ないところで勝手にやってくれ。それで怪我をするのも、目上の人に怒られるのもお前の経験にはなるだろう。けど、態々自分の評価を自分で貶めるようなことは慎んでほしい。
やってみたいと思うことは悪いことではない。けれども、自分の軽率な行動によって周りに与える影響をほんの少し考えてからするかしないかの判断をしてもらいたい」
百合は顔を上げると、微笑んで頷いた。ちゃんと他人の話に耳を傾けることの出来る良い子だ。だから良い習慣を今から着けさせておけば後々困りはしないだろう。
叶うのなら、もう少しだけ彼女の隣で、彼女の成長を見届けたい。そう思うのは恋なのか、それとも同情なのか、明神は知る由もなかった。
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