七夕祭りの前日。僕は美海と詩音と三人で美海の家の縁側で筆を持って悩んでいた。


「んーやっぱ南十字星かな。みずへび座とかみなみのさんかく座も捨てがたいんだけど」


「なにそれ呪文?」


 手と顔が墨だらけになっている詩音が首をかしげる。


「なんでそんな汚くなるんだよ。美海、ぞうきん貸して」


「はい」


「ちょ、痛い! 乱暴! 暴力反対!」


 がしがしと詩音の顔や手を拭くと、ぎゃいぎゃいと文句が飛び出る。


「文句言う前に、もう少し綺麗にやんなよ。詩音が汚くすると美海の家まで汚くなるだろ」


「それはごめんだけどさあ」


 ぶうぶう言いながら、詩音は手を拭きなおして筆を持つ。




 明日は七夕祭り。七月七日ではないけれど、旧暦だか地域的ななんとかだかで毎年七月の終わりに開催されている。


 この小崎町では七夕祭りの日に河に願い事を書いた紙を流すと、それが叶うという風習がある。紙は水に溶けるという和紙で、柔らかいので筆と墨で書かなくてはいけない。

 というわけで三人で集まって願い事を紙に書いている。僕の願いはこの辺りからは見えない星座を見られますように。夏の星座の代表格である南十字星を一度は自分で見てみたい。日本国内でも、沖縄の端まで行けば見えるらしいし。


 洗濯物を綺麗にたためますように……も考えたけど、かっこ悪すぎてやめた。あれはコツをつかめればきれいできるはず。たぶん。もうちょっとがんばれば。


「詩音も書けた」


「なに書いたの? 受験?」


 のぞき込んだ美海が目をぱちくりさせる。


「うん。詩音ねえ、中学受験するからそれに受かりますようにって」


「塾とかは?」


「夜にオンラインで受けてるよ」


 すごい都会の子だ。美海が丸くて大きい目をさらにまん丸くする。でも僕も驚いた。小崎町の小学生にそんな選択肢はない。


「うーん。詩音の地元の中学ってあんまり治安が良くないんだよね。だからクラスの半分くらいは私立に行くんだ」


「へー。ちょっと想像つかない」


 美海が遠い目になってしまった。

 小崎町の小学校の子供は中学生になると隣町の大戸ノおおとのまちの中学校に行く。朝スクールバスが小崎町小学校の近くまでやってきて、みんなでそれに乗って中学校まで行くのだ。

 大戸ノ町中学校は各学年に四つか五つのクラスがあるらしく常に一クラスでやってきた僕にはピンとこない。たぶん美海もそうだろう。


「美海は?」


 詩音がひょこっと美海の手元を覗く。


「あーうん。ほら、こないだちょっと話したようなこと」


 美海はぼそぼそと手元を見ながら言う。

 僕も詩音と一緒に美海の手元を見るとそこには


「言いたいことが言えますように?」


 どういうことだろう?


「去年の夏休みにさ、私二人に言ったでしょ。思ってることは言わないと伝わらないとか、そういうの。けど自分が言えてないなって」


「そうなの?」


 美海はわりとあれこれ言う方だと思ってた。そんな美海でも言えないことがあるんだ。


「今言えばいいのに」


 軽く言われた詩音の言葉に、美海は眉間と顎にしわを寄せる。


「言いにくいこと?」


 聞くと美海は首を振った。


「別に変なこととか悪いことじゃないよ。ただちょっと緊張しちゃうってだけ」


 そう言ってそっぽを向く美海の顔はなんだか赤くてかわいい。横にいる詩音はなぜだか半笑いで


「あま~い」


 とつぶやいている。


「あ、じゃあ、僕が先に言おうか」


 そういえば、僕も美海に言おうと思って言えてなかったことがあった。


「えーっと……」


 手元にある練習用の半紙に、筆で絵を描く。先日田崎さんが着ていた、ひらひらのスカート。


「こんな感じ。ごめん下手なんだけど。こういうスカート、美海に絶対似合うから着てほしい」


「え」


「夜さあ。ほんとさあ」


 美海は赤い顔のまま固まってしまい、詩音は呆れかえった顔で首を振った。


「そういうのはさー、服を用意して持ってこないとだよ。それ美海のお小遣いで自分の好みの格好をしてくれってことじゃん」


「そういうつもりじゃ……でも、そうだよな。ごめん。今度買ってくる」


「ええ……。う、うん……?」


 美海は戸惑いながらも頷いてくれた。

 この間からずっと言いたかったから言えて良かった。


「美海は?」


 詩音が美海を見る。次は美海の番だと。


「そうだね。えっと、じゃあ。夜はまた、ほのかと図書館行くの?」


「行かない」


 戸惑いがちな質問に僕は即答した。


「図書館に行く用事は済ませたし宿題は一人でした方が効率がいい。それに毎回家に上がりたがるから断るの面倒」


「ひどい」


 ドン引きの顔で詩音がつぶやく。ひどいかなあ。いやいや一緒にしたってしょうがないだろ。自分の宿題なんだから。


「ていうか、ほのかは家に上がりたがるんだ?」


「うん。けど嫌だから適当に図書館に行ってた」


「嫌なの?」


「嫌だよ」


 親だって、あんまり入れたくないのに、同級生の女の子なんかもっと嫌だ。そう言うと詩音がニヤニヤする。


「だから今日も美海の家なんだ?」


「それは違う。僕の家の縁側とベランダに天体望遠鏡が置いてあるから墨で汚されたくない。詩音の真っ黒の手で触られたくないから、美海に頼んで、こっちにしてもらったの」


「あ、そう」


 汚くてすみませんね、と詩音がすねた。


「汚れるような用事じゃなきゃ別に僕の部屋だっていいよ。二人はいいんだよ。二人は」


 そう言うと詩音と美海は顔を見合わせた。それから笑い出す。


「夜はさあ、もうちょっと詩音や美海と他の人への感覚の違い? それがなんだか考えた方がいいんじゃないの」


「そう?」


 詩音が言わんとすることがなんだか、よくわからない。詩音と美海。田崎さん。あとはニャンタカとか他の同級生。今の話で言えば僕が部屋に入れてもいいと思うのは詩音と美海。他は嫌だ。なんとなくだけど嫌だ。


「なんだろうね? 距離感かな。詩音と美海とは手の届く距離にいたいけど他は別にいいかな……」


「他人を諦めないでよ!」


 そんなこと言われたって。


「結局、美海の言いたいことってなんだったの?」


 考えるのが面倒になって、美海に話を振る。美海は困った顔で


「んー、難しいんだけど夜の答えを聞いてから……だと、ずるいかなあ」


「どういうこと?」


「夜がさ、私と詩音と他の人との違いがわかってからじゃないと言っても意味がない気がして」


 そうなの。困った。正直僕は他人のことなんて考えたくないし、できることなら夜空と星と、あとは美海と詩音、せいぜい親のことくらいで済ませたい。他の人のことなんて、どうでもいい。


「夜。良い機会だよ。詩音は中学になったら、夏に遊びに来られるかわからない。そしたら夜は美海と二人きりだ。そうやって美海にすがって生きていくつもり?」


 詩音が真面目な顔で言う。そんな大げさなこと? けど美海は目を合わせてくれないし詩音は真顔のままだ。


「……わかった」


 いやいやだけど僕は頷いた。詩音はちゃんと考えてねと念押しして、帰っていった。僕も美海と縁側の片付けをしてから帰宅した。

 最後まで、美海は目を合わせてくれなかった。

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