41話:無風の部屋
無風の自室は、想像以上に無風そのものだった。
「……何もない」
「だから言ったではありませんか。面白くないと」
「なぁ俺、そんなにお前の給金ケチってたか?」
「いえ、十分すぎるぐらいいただいていますよ」
十分すぎると言う割には、部屋が不十分すぎる。
今や無風は筆頭従者なので十分な給金と、
――なんだ? 無風はミニマリストなのか? 日本でも人気だったけど、何千年も前からトレンドを先取りしてるのか?
確かに屋敷での仕事に修行と、やることの多い無風がこの部屋で過ごす時間は少ない。日によっては寝るだけの時もあるだろう。だけれど、それでもこれは物がなさすぎる。
――俺、無風の主人としての自信なくしそう。
本当は給金が足らないのではないのか、無風に無理をさせているのではないのかと少々落ち込みながらも蒼翠は部屋を回り、唯一の娯楽ともいえる書棚の前に立つ。すると棚には霊術や体術の指南書の他に、おそらく先ほど使った香箱が置いてあっただろう空間、そして――――。
「ん? これ……」
なぜか自然と目線が着く一番いい場所に古ぼけた小さな薬椀がポツリと置いてあって、蒼翠は首を傾げた。
もしこの本棚が飾り棚であったならば、このこの場所は高価な装飾品を置くような位置だ。そんなところにどうしてどこにでもあるような薬椀が置いているのだろう。
「無風、これは?」
思い入れのあるものであれば無闇に触ってはいけないと、薬椀を指差すだけで尋ねる。
「それは……あの……」
「言いにくいものか? だったら別に無理に説明せずとも――」
「いいえ、そんなことはありません。薬椀はその……蒼翠様が初めて私に下さった薬が入っていたものです」
「ん? 初めて? いつのことだ?」
「私がこの屋敷に来てすぐです。怪我をした私を蒼翠様は自室に呼んで下さり、傷を治す湯薬を用意してくれた。その時のものです」
「あっ……」
話を聞いて、蒼翠の中の古い記憶が蘇る。あれは葵衣が金龍聖君の世界に来た直後。蒼翠破滅エンディングに大きく関わる無風と出会わないよう生きると決めた矢先に、
あの時はたしか、絶望に打ち震えながら薬湯を無風に飲ませた。そんな覚えがある。
「あの時のっ?」
「はい。あの時の私はなぜ自分がこの屋敷にいるのか分からず、怖くて周りにいた人たちすべてを警戒していました。そのせいで蒼翠様にも怪我を負わせてしまい……」
そうだった。保護されたばかりの猫みたいに警戒した無風に、カブっとやられた記憶もある。
「ハハッ、あれはただ甘噛みされただけだ。少しも痛くもなかったぞ」
「ですが蒼翠様の好意を拒んだこと、今でも悔やんでいます」
「それでこの薬椀を?」
「それもあります。ですが、それ以上に私にとっては蒼翠様の優しさを初めて感じた嬉しい思い出でもあるので、残してあるのです」
湯薬を飲んだ後、どうしても手放すことができず服の中に隠して持っていたのだと語る無風の姿に、キュンと胸が絞めつけられる。
ああ、うちの子はなんて健気で可愛いのだろうか。これが父性なのか否かは子どもを持ったことがないゆえ分からないが、とにかく。
「無風」
今は無風が愛おしくてたまらない。
蒼翠は無意識に一歩踏み出し、無風を抱き締めていた。
「そ、蒼翠様?」
「大きくなったな」
突然のことに無風の全身が驚き固まる。頭上からは戸惑う様子が見なくてもありありと伝わってきたが、蒼翠はそんな無風の背に回した腕に力をより込めた。
「ここに来たときは小動物みたいに小さくて、触ったら壊れるんじゃないかって思ったけど、本当、この邪界でよくここまで強く優しい子に育ってくれた。お前は俺の自慢だよ、無風」
「それはすべて蒼翠様のおかげです。慈悲深い貴方様がこの屋敷に置いてくださったから、ここまで育つことができました。ですから私にとっても蒼翠様は自慢の主です」
ぎこちない動きだったが、無風もまた抱きしめ返してくれる。その腕は長く、逞しく、立派な大人そのもので、ここへ来た頃の柔らかさはなかったが、蒼翠には無風の力強さが頼もしかった。
この強さがあれば、無風はどこでも生きていける。
蒼翠の屋敷の外でも、邪界の外でも、聖界でも。
きっとそう遠くない未来、無風は生まれた場所に帰る。それは運命で決まっている。その日を想像すると少しばかり寂しさを感じるけれど、こんな邪悪に染まった世界から出ていけるのならそのほうが絶対にいい。
未来の聖界皇太子。未来の
万人に讃えられる王となった無風の姿を、直接この眼で見ることができるかどうか分からない。いや、見られない可能性のほうが高いけれど、その時にこの愛おしい子が笑顔で暮らしているなら、それで十分に幸せだと思った。
「いつか一人前になれる日が来た時には、この御恩は必ずお返ししますから」
「必要ない。俺はお前が元気でいてくれるだけで十分だ」
「いいえ、それでは私の気が収まりません。私の一生をかけて、蒼翠様を幸せにしてみせますから」
「ハハッ、なんだそれは。まるで求婚みたいだな」
無風の言葉があまりにも場違いで笑ってしまう。この弟子は時折、こうして言葉の選択を誤るときがあるが、それもきっと外の世界で異性と触れ合う機会が少ないからだろう。そこだけはどうにか早めに学ぶ機会を与えてやらないと、将来の相手に呆れられてしまう。
そんな心配をしながら抱擁を解く。
「……え、お前、なんでそんなに顔が真っ赤なんだ?」
「い、いえ。これは別に、なんでもありません」
今の会話に赤面する要素があったらだろうか。
「だったら
「感冒でもありません。元気です。本当に大丈夫です」
「そう……か?」
「はい。あの、せっかくですし、そろそろ蒼翠様が作ってくださった香を試してみませんか?」
「お、そうだった。忘れてた」
この部屋に来た一番の目的をすっかり忘れていた。蒼翠は自室から持ってきた予備の香炉を机の上に置き、調合した香を入れる。
「いい匂いになるといいな」
「大丈夫ですよ。では、火を点けますね」
無風が着物の懐から火種が入った竹筒を取り出し、香に灯す。すると程なくして部屋にふわりと
優しくて、気品があって、無風にぴったりな香りだ。
「どうだ?」
「とてもいい香りです。それに、焚いてみて改めて思いましたが、すごく私の好みです。嗅いでいると心が落ち着くというか、張り詰めた気が和らぐというか……」
「それは何よりだ。よし、ではこれから無風の香担当は俺だな」
「え、蒼翠様がっ?」
「なんだ不満か? 技術がなさすぎて心配だから、自分で作ったほうがマシだってか?」
間違ってはないが面と向かって言われると、ちょっとへこむな。と苦い顔をしていると、無風は取れるんじゃないかというほど激しく首を横に振って否定した。
「め、滅相もありません。ただ蒼翠様の手を煩わせてしまうのが心苦しいのと、邪界で手に入る白檀は
「こう見えて俺は皇子だぞ? 別に毎日酒盛り宴会してるわけじゃないし、骨董品を集める趣味もない。お前の香を買うぐらいの蓄えはある…………よな?」
咄嗟に大口を叩いたが、途中で屋敷の財産を管理しているのは無風だったことを思い出して、語尾が弱くなる。
そんな蒼翠を見て、無風はやれやれといった様子で溜息を吐いた。
「確かに蓄えは十分にありますが……」
「やった。じゃあ決まりだ!」
今まで無風に世話をして貰いっぱなしだったが、自分も無風のためにやれることがある。それだけで嬉しくて仕方がない蒼翠は、香炉から登る煙を見つめ、そっとはにかんだ。
無風との楽しい記憶が、また一つ増える。
これで来るべき日がやってきた後、きっと自分は白檀が香る中、思い出に微笑みながら余生を過ごすことができるだろう。
今はそのための準備期間。
「また一緒に香を作ろうな。いや、香だけじゃなくいろんなものを一緒に作ろう」
そう、準備期間なのだ。
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