28話:11年後



 邪界じゃかいの樹木の葉は緑ではなく、くすんだ菖蒲しょうぶ色や薄藍色うすあいをしている。

 本来の色と程遠い色合いをしているのは、おそらく万年雲に覆われ陽が差し込まない天候事情と、邪界の特別な土が影響しているのだろう。

 

 森の中では七色に光る蝶や、炎をまとう鳥、氷の息を吐き出す鹿などにも出会える。彼らは見た目こそ気性が荒そうに映るが、こちらから手を出さなければ襲ってこない穏やかな性格なので、怖くもなんともない。

 そんな、ファンタジー映画そのものな世界に、転生した当初は違和感しか覚えなかった。けれど十一年も経てばどれもこれも見慣れ、今では眺めているだけで心安らぐようにまでなっている。


 十一年。

 そう、十一年だ。

 葵衣あおいがこの世界に転生して、もうそんなにも長い時間が過ぎた。

 

 龍族りゅうぞく金丹きんたんを有しているため寿命が永く、優に二百年近く生きる種族だ。ゆえに十一年なんてドラマでシーンが飛ぶかのように早い。だからだろうか、十年以上が経過したとはいっても、大きく変わったことはほとんどない。

 毎日、食事をして仕事をして、無風むふうの修行を見て、寝る。だいたいこの繰り返しだ。


 ただ、そんな不変の毎日の中にも、大きく変わったものもある。たとえば――。





 

「――誰か、誰かいないのか」

 

 邪界の森の片隅に建てられた、小さいが感性のよさを感じさせる木造の屋敷に、透き通る声が響いた。

 しかし、屋敷の主人の言葉に返答はない。


 どういうことだ。この屋敷に住む者たちの一番の仕事は、主人の命令を聞くこと。なのにその呼びかけを無視するとは。

 蒼翠そうすいはもう一度、今ではすっかり板についた皇子らしい言葉遣いで半龍人はんりゅうじんの名を呼んだ。

 

 雨尊村うそんむらの件で蒼翠の信用を失ってから、死ぬ気で奮闘し、再び従者の一人として名を連ねるようになった半龍人。ゆえに名を呼べば何を差し置いても最優先で飛んでくると思っていたのだが、やはり反応はない。

 

 もしかして、何か問題でも起こっているのだろうか。待ちぼうけに飽きた蒼翠が様子を見にいこうと立ち上がった時、不意に執務室の扉が開いた。

 

「蒼翠様、遅くなって申し訳ありません」


 そう言いながら執務室に入ってきたのは、雄々しくも神秘的な佇まいと、文武百官を従わせる王の典雅てんがかもす、流し目の美青年だった。

 

「こちらが本日分の書簡となります」 

 

 外から入る朝の光を背に、品のある足取りで蒼翠の下までやってくる青年に、視線が自然と吸い寄せられる。

 

 ――ああ、今日もバッチリなぐらいイケメンだ。

 

 腰元まである濡羽色ぬれはいろの長髪は魅惑的なまでに艶やかで、つい触れたくなってしまう。

 穏やかに響く低音の声も耳心地よくて、ずっと聴いていたい。

 

 ――うーん、こういうのを役得っていうんだな。

 

 朝一番に芸術的な美を目にすることができる。こんな幸福な権利を持っているのは、邪界でもきっと蒼翠だけだろう。

 

「ああ、お前が持ってきてくれたのか、無風。すまないな」


 蒼翠に転生し、無風と出会ってから早十一年。

 本当に無風は賢く、美しく育ってくれた。

 

「だが、あいつはどうした? 腹でも壊したのか?」 


 いつもこうして仕事の木簡もっかんを持ってくるのは、半龍人だった。どうして今日は違うのかと理由を聞くと、なぜか菩薩のような笑みが無風から返ってきた。


「いえ、私から木簡をお持ちしたいとお願いしたのです。少しでも蒼翠様の役に立ちたいと言ったら、快く承諾してくださいました」


 役目が変わった理由を説明しながら木簡を執務机に置くと、無風はそのついでにふですずりの用意も済ませた。すべて蒼翠が一番使いやすい配置だ。長年支えている半龍人顔負けの手際のよさに、思わず感心してしまう。

 

「しかし、お前は他にやることが多いだろう。仙人せんにんとの修行もあるし、あまり抱えこみすぎるのはどうかと思うぞ」



 無風は蒼翠の側仕えであるため部屋の片づけや洗濯、着衣の整頓、定期的な茶の用意、そして仙人との修行と意外にやることが多い。そこに加えて、最近は食事や湯浴みの用意まで担っているようで、無風は目を開けている間ずっと動いている。

 

 

「気にかけて下さり、ありがとうございます。ですが私がやりたいのです。お許しいただけるなら蒼翠様のお世話は全部、私が引き受けしたいと思っております」

「おいおい、お前が全部やってしまったら他の配下たちの仕事がなくなるだろう。それに俺だって一人で何もできなくなる。お前はそんなだらしのない主に仕えたいのか?」

「蒼翠様は少しだってだらしなくありません。でも万が一、蒼翠様が一人で何もできなくなったとしても、私がすべてをお支えしますから問題ありませんよ」



 執務の間に飲む茶の用意を終えた無風が蒼翠のもとへやってきて、極上の笑顔とともにそう告げる。

 その笑みに見つめられた瞬間、蒼翠の心臓がドクンと一際大きく飛び跳ねた。

 

「うっ……」


 最近になって少しは慣れたかと思ったのだが、どうやら勘違いだったみたいだ。

 

 無風は今年で十九歳になった。この世界では年齢的にまだ成人ではないものの、筋骨はもう一人前の男と言っても遜色ないものになり、身長もぐんぐん伸びて、とうとう蒼翠が見上げる側となった。

 あと、こちらは余談だが無風は身体だけではなく、力もかなりついた。当初は有事の際に一人になっても生きていけるようにとの目的で修行をさせていたが、体力霊力はぐんと上がり、扱える術の数も増え、今では半龍人よりも強くなったのではないか、というところまできた。

 が、心臓が跳ねたのはそこが原因ではない。

 

 ――正直、顔も身体も何もかもが完璧すぎて直視できないんだよな……。

 

 思わず膝を着いて崇めたくなるほど美しい無風の顔は、眼福を超えもはや目に毒レベルと言っていい。五秒以上見つめたら、動悸を起こして倒れる自信すらある。

 

 大切なことだから何度もいうが、本当に無風は美しく育って――いや、育ちすぎた。これが昔の葵衣あおいだったなら、テレビ越しに見ていた大人の無風と会えたことに狂喜乱舞していただろうが、今は真逆だ。

 とりあえず近距離は無理なので、距離が欲しい。


「む……無理のない程度にしておけよ。過労で倒れても面倒見てやらないからな」

「蒼翠様にご心配をかけるようなことは絶対にしません」


 お約束します、と無風は再び殺人的な微笑みを浮かべる。その笑顔にも若干の目眩を覚えながら、蒼翠は用意されていた木簡を広げた。

 

 

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