5話:小さな無風との初対面

 そういえば、どうして日本人である自分が普通に中国語を話せ、理解しているのだろう。確かに母親に呆れられるぐらい金龍聖君こんりゅうせいくんを見ていたし、大学では第二外国語履修で中国語を選択していたが、正直分かることといえば、

 

「你好(こんにちわー)」

「謝謝(ありがとう)」

「皇上駕到(皇帝のおでましー)」

「万歳万歳万万歳(皇帝バンザーイ)」



 あとはどう書くかは知らないが、

 

「ウォーミンバイ(わっかりましたー)」

「チャンザイ(ここにいますよ)」

「ハラハラー(はいはい。わかったわかった)」


 なんて、時代劇でよく聞く用語くらいだ。だが、ここでは日本語をそのまま喋っている感覚で会話しても通じてしまっている。どうしてなのかは正直わからないが、高校生の時に見た異世界転生もののアニメも、そこらへんは言及していないことが多かったし、なにより自分は蒼翠そうすいそのものになっている。ということはきっと、そういった言語スキルも自然と引き継いだのだろう。うん、そういうことにしておく。

 

 

 あまり細かいことを深く考えすぎると頭がパンクしそうになるので、言語問題を半ば強引に解決した。

 ということで次の問題だ。

 蒼翠は、言語問題で現実逃避させていた視線を、ゆっくり寝台の上へと移した。

 


 日に焼けていない白く柔らかそうな頬に、形のいい唇。長い睫は瞼を閉じているせいもあって一段と長く見える。幼児特有のサラサラな黒髪はまだ伸ばしている途中なのか肩の辺りまでしかないが、綺麗な天使の輪がくっきりと浮かんでいた。

 

 

 眠っているのにテレビに出てくる子役のように可愛い。けれど目の前の幼子には殴られたせいでできた痣が全身に点在していて、見ているだけで痛々しかった。栄養も足りていないようで、粗末な綿布の服から覗く腕や足はほとんど骨の形をしている



「確か育ての母だった侍女が死んでから、満足に食事も取れなかったんだっけ……」



 一般的な六歳児と比べてはるかに小さい無風むふうを見つめ、ドラマでの彼の苦労を思い出す。

 無風は白龍族はくりゅうぞくが治める聖界せいかいの王・聖君せいくんとその皇后の間に生まれた皇子だった。しかし無風は双子の弟であったがため「一族に害をなす凶星となる」という、昔の古くさいしきたりにより、誕生後すぐに名誉の死をたまうことが決まってしまった。が、無風を命がけで産んだ皇后はその決定を拒み、大切な息子を守るため信頼の置ける侍女とともに辺境の村へと逃がした。


 そうして死を免れた無風は、皇后の侍女を育ての母として平穏無事に生きていくはずだったが、六歳の誕生日直後に侍女が流行病で死亡。天涯孤独となったところを蒼翠にさらわれ、青年になるまで長きにわたり酷い虐待を受け続けることとなった。



「せめて、もうあと少し早い時期に転生させてくれたらよかったのに」



 目覚めたのがもっと前であればなんとか無風と出会わない人生計画を組むことだってできたのに、こんな最悪な状態からのスタートだなんて。どう考えたってバリバリのハードモードだ。

 蒼翠の寝台の上で眠る無風を見て、長い溜息が勝手に零れる。


「詰んだかなぁ……俺の人生……」


 栄養が足りないにしてはまだ柔らかさが残る無風の頬を、指先で突いてみる。

 

「しっかし可愛いなぁ……」


 見つめれば見つめるほど、顔がにやけてしまう。ドラマの蒼翠はこんな愛らしい存在に過酷な労働を強いたり、逃げ回る姿が面白いからと獰猛な犬に襲わせたりしていたが、心は痛まなかったのか。

  

 いや、痛まないか。アイツは相当のクズだった。

 

 あのクズ、もとい本物の蒼翠は容姿こそ傾城けいせい美妃びきと称された母親譲りの美麗であったが、あまりにも残虐非道すぎてドラマのファンから「あんなクソキャラにイケメン俳優を起用するなんて無駄遣いでしかない!」と異例のブーイングが起こったほど。そんなキャラが自責の念なんて覚えるはずがない。


 

「この子があの無風かぁ」



 テレビ画面越しに何十時間も見ていた、憧れのキャラが目の前にいる。なんだか自分の危機的状況も忘れて感動を覚えてしまった。


 

「こんな可愛い子が将来、芸術品みたいなイケメンになるんだよなぁ」



 ドラマに出てくる女性キャラだけでなく、当然視聴者もイチコロの。

 しみじみ感じ入りながら頬を突き続けていると、不意に無風が「ううん……」と微かな唸りを零しながら身動いだ。

 もしかして起きるのか、それともただの寝言か。緊張に息を止めながら見定めていると長い睫がふるふると揺れたのち、双眸がゆっくりと開いた。

 

 瞼の裏から現れたのは、この世の白をすべて吸い込むかのような美しい黒の瞳。


「そうか、今はこっちの色だったな……」 


 白龍族の皇族は本来、透き通るような金の瞳を持って生まれる。当然無風も生まれた時は金色だった。だが無風の母である聖界皇后が無風を逃す際、「この目の色では、すぐに身分が悟られてしまう」と術をかけて髪と同じ濡羽色ぬれはいろに変えたのだ。だからドラマの蒼翠も、無風を攫った時には正体に気づかなかった。



「お……起きたか?」



 蒼翠は、目覚めた無風の顔をゆっくり覗きこんだ。すると無風は瞼をパチパチと数度瞬かせながら、まだ虚ろさの残る目をこちらに向けた。

 そうして二人の視線が重なった、その瞬間。


「ヒッ……」


 無風は弾かれたかのように飛び起き、寝台の端まで転がった。逃げたのでなく咄嗟に転がったのは、おそらく蒼翠の配下に殴られた傷が痛んだからだろう。激痛を堪えつつ瞬時に最適な逃走手段を選び取ったのは、子どもながらにさすがとしか言えない。と、蒼翠は内心で感心したが、脳内は大騒ぎだった。

 

 

 ――ですよねー! やっぱ怖いですよねー!



 身体を守るように蹲り、全身を震わせながら怯えた目でこちらを覗く無風の姿に、蒼翠は思い切り項垂れる。

 

 ――そりゃそうだよ。起きてすぐに蒼翠の顔があったら、俺だって飛んで逃げるわ。

 

 

 育ての母を失った途端に冷酷面の男にさらわれ、怖くて泣いたら暴力を受けた。これで「大丈夫、俺は無害だ」なんて、一体誰が信じる。

 

 ――でも、だからってこのままじゃダメなんだよな。

 

 最終回で殺されないためには、ここからの努力が重要だ。


「そんなに怖がる必要はない。傷の具合を診るだけだ」


 口調だけ蒼翠を演じつつ、そっと無風に手を伸ばす。ゆっくり、ゆっくり、生まれたばかりの子猫に触れるように慎重に指を頬に近づける。そしてもうあと数センチで指先が頬に届こうかという時、

 

「痛っ」

  

 指に鋭い痛みが走った。

 突然のことに驚いて手を引いてしまう。一体何が起こったのだと指先を見れば、そこには小さいがくっきりとした歯形がついていた。どうやら恐怖に耐えかねた無風に噛まれたらしい。

 

 蒼翠は溜息を一つ零し、どうしようかと思案する。と、時を置かずして今にも消え入りそうな謝罪が聞こえてきた。


「め……さ……。ごめ、な……さい……」

「無風……」


 

 まさかこんなにも怯えている幼子から、謝られるとは思ってもいなかった蒼翠は絶句した。

 先に傷つけたのはこちらなのに。それでも噛んでしまったことを悔やんで謝ってくれたこの子は、なんて優しい子なのだ。

 

 

「大丈夫だ、怒ってはいない。こちらも断りもなく触れようとして悪かった。傷は痛むか? 傷に効く薬を用意したから飲むといい」



 寝台横の小さな机から茶色の薬が入った碗を取り、差し出す。けれど、全身を震わせている無風は、わずかも動こうとしなかった。


 ――わぁ……めちゃくちゃ警戒してる。



 無風の気持ちは痛いほど分かるが、そうであっても今は怪我をどうにかしなければいけない。考えた蒼翠はよし、と心の中だけで意気込むと、持っていた碗を自らの口に運んだ。

 そして一口含んで尻込みせず嚥下えんげする。

 

 

「うげっ、にっが!」



 そこらへんに生えている青草をそのまま潰したような苦みの強い味に、思わず本音が出てしまった。きっと本物の蒼翠なら苦いと思っても自尊心から無表情で飲み干すだろうが、薬湯やくとう初心者には無理だった。


 顔をひどく顰めながら、げほ、げほ、と盛大に咳き込む。あまりの苦さに涙まで出てきたがそれでも最優先は無風だと、震える碗を無風に向けた。

 

 

「大……丈夫だ。少々苦、いが、害はない……」



 それから、しばしの沈黙が二人の間に降りた。


 無風は怯えた表情のまま、目の前の碗と蒼翠の顔を交互に見ている。きっとどうしようか、どうしたらいいのかを必死に考えているのだ。


 あとは無風の決断次第であるため、蒼翠はこうして碗を差し出し続けるしかできない。そのままの姿勢で待ち続けていると、ふと無風の視線が蒼翠と向き合った形で止まった。


「ん? どうした?」


 先ほどより怯えの色が薄まったような気がして、蒼翠は頬を緩ませる。と、ゆらゆらと不安に揺れていた瞳が驚いたように見開かれた。


「あ……の……」

「ん?」

「えっ……と……」

「ゆっくりでいい」

「…………はい」


 蒼翠の手の中から碗が消えたのは、そのあとすぐだった。



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